* * *
メンソールが肺に冷たい。すっとする煙を吐きだせば、少しだけ落ち着いた。街灯の下で、思いがけない醜態をさらしてからは、すでに一時間以上が経過している。
「……最上階なんかとりやがって」
ホテルの窓から見下ろす街は、まるで海底のように遠く、群れなす魚がきらきらと光っているようだ。夜景のなかで、車の流れが泳いでいる。あちらこちら、自由に動くかのようでいて、規則正しい周遊をしていた。
「だってここがいちばん、人目につかないし」
「この小心者」
海に行こう、と言って、イヴァンは笑っていたが、結局、街からは離れなかった。なんとなく恨めしい目で見てしまうが、べつに残念がってなんかいない。
もしここが海辺のホテルなら、オーシャンビューというやつだろう。部屋の一面は大きな窓で、水平線ではなく、都会の眺望を楽しむ造りらしい。内装は飾り気のないくらいモダンだ、かえって好感がもてる。
「落ち着いた?」
「人が取り乱したように言うんじゃねぇよ」
「はいはい。……こっち来る?」
「お前が来い」
ばかでかい部屋を横ぎって、ソファから窓際へと、イヴァンがゆったり歩いてくる。俺から、目を逸らさずに。
「来たよ」
「……おい、火がついてる、あぶない」
煙草を持ったままの俺を、ひょい、と抱き上げた。そのままソファへ引き返して、腕に抱えたまま座る。面白くない。
再び口に含もうとした残り火も、やんわりと取り上げられてしまう。テーブルに灰皿が無い、どうするつもりだろう。そう虚ろに思っていたら、それはグラスのなかへ消えた。
大好きな無色透明の酒を、そんなことで台無しにするなんて、らしくない、滅茶苦茶だ。
「イヴァン、なんか怒ってんのか」
「なんで? 怒ってないよ」
そうはいっても、会うなり泣くくらいだから、まともな精神状態ではないのかもしれない。
煙草を奪われた手を、両方まとめて包みこまれた。もう身動きがとれない。観念することにして、座りの良い場所を探し、体をもぞもぞと動かした。首筋にイヴァンの吐息があたる。
「君のほうこそ、何か言いたいことがあるんじゃないの」
ソファに腰を下ろしても、正面には夜空の窓がある。星の姿が見えないのは、明るい街のせいではない、ガラスがうっすらと水滴をはじいている。ぱたぱたと、外から雨粒がたたきつけられた。急に天気が変わったようだった。
「……お前、俺と約束したこと、覚えてるか?」
「なにそれ」
夜中に、寝ぼけたイヴァンと会話をして、小指を絡めたことを話してやった。なんとなく、教えてやりたくなった。
悪夢を見たと言って、むずがっていたこと。小指を絡めたまま寝たら、翌朝になって痛がっていたこと。全て話してやると、明るい笑い声が降ってくる。
「ぼく、そんなこと言ってた? 全然、覚えてないや」
つつみこんでいた手をほどいて、俺の指を見ている。小指をさすり、また、ふふ、と笑った。
「……約束って、そんなに好きじゃないよ」
「うなされてたくせに」
「指切りって、手のなかが見えないじゃない?」
広い手のひらの上で、俺の手をひらかせる。当然だが、なかにはなにも入っていない。白さの質が違う指が、俺の生命線をなぞってきて、こそばゆい。
「空っぽな手が、見えたほうがいいなぁ。約束より、手を繋ぐのが好き」
背中が、しめったように、あたたかい。体温がつたわってきて、気を抜けば眠くなりそうだった。まったく面白くない。
なぜか苛々して、ぎゅっと拳を握り、手のひらを隠した。寄りかかるのが嫌で、背中をまるめる。もう嫌だ、来なければ良かった。
「……ギルベルト、そんなことが言いたかったの」
肩に、キスされる感触が落ちてくる。無言でそれを拒絶した。穏やかな声にも、むしゃくしゃする。
あたたかい体も、沈黙を重荷に感じていないような、イヴァンの態度も、全てが面白くない。
かたくなに閉じていこうとする気持ちが何なのか、なかなか整理ができなかった。メンソールの冷たさが、まだ肺に残っている気がする。けれど、それはもう安らぎを与えてくれない。
この冷たさは、なんだ。握りしめ、白くなった自分の手を見つめて、汗をかいていることに気づいた。危機感がつのる。
切なさでいっぱいの、内側を、吐露することを危ぶんでいる。むしゃくしゃする気持ちも、何もかもぶちまけたい。だってなにを言っても、イヴァンは傷つかなさそうだ。傷つけたいような気もするが、それは俺の真意じゃない。
「なにか言ってよ、なんでもいい」
先ほど、見下ろす街を海底のようだと思ったけれど、今ではまるで逆だ。泡にも似た水滴が、ぷかぷかと窓に浮かんでいる。夜景が照らしだす、この部屋のほうが、ぬるい水に沈んだ水槽みたいだ。
自分が揺れていることは、もうはっきりと自覚している。イヴァンの行動、一つ一つに、浮いたり憂えたりして、馬鹿みたいだ。
それでもイヴァンが動じないから、俺のこの、くだらなさを、吐きだしてもいいのかと考えこんでしまう。悩んでいる自分が臆病に思えて、許せない。
汗でぐしゃぐしゃの手を、もっと強く握りしめた。
「……煙草吸いてぇ」
「だめ」
そう言って、俺の肩に、ことん、と顔をのせた。
笑われているように思えて、正面にある窓をたしかめる。予想と違い、そこに映りこんだイヴァンは目を閉じていて、なんの表情もない。
俺は、自分の写し身が、思ったよりもしっかりとした眼をしている事に気づいた。自然と奇妙な笑いが浮かぶ。安堵とも、自嘲とも、判別がつかない笑いだ。
「……優しくすんな、むかつく」
「ん? やさしくしてる、つもりはないよ」
したいことを、してるだけ。そう言って、柔らかい髪をすりつけてくる。
大きな窓に映りこんだ、俺とイヴァンの姿の向こう。街灯りが、夜空を底から支えるようだ。にじんだように見えるその光には、さまざまな色が溶けていた。
まっくらやみを、ぷかり、白い泡が移動していくように見えたけれど、よく目をこらせばそれは飛行機だ。ちかちか、瞬きながら、夜をゆっくりと通過していく。
息を吸って、吐いた。吐きだしたくて、仕方なかった。
「……しんどい。お前といると、疲れる」
おずおずと両手をひらいた。いつの間にか冷えきっていて、自分でも驚くほど白い。こんなに白いとは思わなかった。
「お前に好かれるのは気分がいい、だけど、自分には腹が立つし、ワケわかんねぇ、めんどくせぇ……」
なにも入っていない手に、視線を落としていると、勝手に声が漏れていく。
「こんがらがってるんだよ、俺……どんな顔してればいいんだよ……こんなこと言いたくなかった、でも、隠すのも、つかれた」
俺はもう、なにかを隠そうとしている訳ではなかった。これまでこらえてきた衝動を、今まさに、外に剥きだしている。背をまるめ、手をにぎりしめて、あたたかさを拒みながら。
簡単には、さらけだすことの出来ない自分がいて、それをイヴァンに明かしてしまいたい。そんな欲求を、背中に剥きだしにして、それ以上はまだ、どうすればいいか分からない。
――お前があんまりにも、真っ直ぐに俺と付き合うから。まっさらな感情を寄せてくるから。決して傷つかないから。
お前に、俺のなかを見せたいと、見せてもいいのかと、甘えそうになる自分に、危機感が薄くはりつめる。
「……つかれた……」
はぁ、と、体の奥から、冷たい息が出ていった。心臓が震える冷たさだった。
情けなさを吐きだしきって、ひきかえに吸いこんだ息を、あたたかく感じる。ようやく人心地を取り戻す。
白すぎる手を見ながら、こわごわ、指先を動かしてみると、じんわりと血が戻ってきて、白さもだいぶマシになる。酸素がすこしずつ体のなかに満ちていって、ゆきわたった。今まで呼吸を忘れていたようだ、水のなかでもないのに。
「……きみは、すこし、優しすぎるよね」
「黙れよ」
「やだ」
イヴァンの膝の上で、さらに体を引き寄せられて、ついに背中がぴたりとくっつく。あらがいも意味がない。ふわふわして、あたたかくて、座り心地が良すぎる。
「そんなことで悩むの、くだらないよ、理解できない」
ぴしゃりと冷たく言い放たれ、衝撃が大きかった。けれど、怒りも、悲しみもおぼえない。ショックに体がぐらつくが、むしろ気持ちはすっきりする。
すこし呆然とする俺を、後ろから抱きしめてくるイヴァンは淡々として、自分のまるい爪を見ている。
「してほしいことがあるなら、言えばいい。隠しておきたいなら、隠せばいいよ」
「……そんな、簡単な話なのか?」
と、いうよりも、それでいいのだろうか。俺の都合の良いようにしろと言う。お前はそんな扱いでいいのか、ばかじゃないのか。俺は、お前を欺いてるかもしれないと思って、悩んでいたのに。
あぁ、もう、こんなことを考えたくない。考えている自分が嫌だ。言われたとおり、くだらない。
「うん、たぶん、たいていのことなら、許すと思うけど」
「なんで」
「きみ、なんにも分かってないんだね。それなのに、ずるいな」
ふう、と、イヴァンがなにげなく吐いた息が、耳元にぶつかる。ずるいって、どういうことだ、なんでも自分のなかで完結させるな。
「ねぇ、ぼくの手、にぎって」
「……お前がにぎれ」
すぐに手をぎゅうっとにぎられ、負けた気になる。こういうところが、駄目なんだ、分かってる、俺も相当なばかだ。
あんまり悔しいので、手が震えてしまい、恥ずかしかった。
「ね。してほしいこと、言ってみて」
――大抵のことなら、許すと言ったか?
こうしてみたら、どうするだろうか、と、悔しまぎれに手が動き、イヴァンの親指の甘皮に、爪をたてる。かなり強くしたつもりが、「痛いよ」と、すこし笑っただけだから、たまらない。
そんなふうに、俺を許すな。さっきみたいに、ぴしゃりと言われたほうがいい。あれは良かった、どうしてか安心した。
「……くだらないって思っていいから、俺を見てくれ」
お前に許されるのは癪だから、許さなくていい。ただ見ていてくれるだけでいい。
言ってから、すごいワガママだと気づく。抱きしめられていなかったら笑っていたと思うが、腕の中なので、切なくて笑えなかった。
力が抜けて、後ろの体にもたれかかり、ぼうっと窓に視線を向ける。防音は完璧なはずなのに、水滴の音が聴こえる気がした。闇色のガラスのうえで、古いフィルムに塵かノイズが混じるように、からからと雨粒が舞っている。騒々しいネオンが、曖昧にぼやけて、俺の呼吸は短くなった。
「……よく分からないんだけど、要するに、ぼくのことが好きってこと?」
「は?」
飛躍した、なんてものじゃない――どこからどこへ飛んで、どうしてそこへ着地した?
思わず振り返りそうになって、視野の端にうつった顔に、慌てて引き返した。またあの顔だ。落ち着きはらった、幸福を絵に描いたような笑みだ。
心臓が暴れだす。一瞬だけ見た、その表情が焼きついて、温度が上がる。
「……なに、言ってんだよ」
伏せられた目に、色素の薄い睫毛が、白くけぶるようだった。ちら、と見えただけだったのに、もう心のなかで反芻している。
「え、好きじゃないの?」
そういう話だったよね、と、びっくりしたような声だ。きっと眼を丸くしているのだろう、見なくても分かる。驚きたいのはこっちだ。
肩口から、さらさらした髪のにおいがただよう。今まで意識していなかったことが、急に、震えるくらい胸にささった。手は触れあったままで、なんの不思議もなくそこに収まっているのに。
ふわふわの髪を撫でたい。ひかるような睫毛に、唇でふれてみたい。いくつもの欲求が、ぶわっとわいてきて、息がつまる。
「…………好きだよ、ばか」
絞りだすように言えば、ふっと楽になった。
「……ぼくもすき」
耳元で囁かれる。そのせいで熱くなったのか、もう熱くなっていたのか。耳に火がついたようで、頭が痛い。
体がずしりと重くなって、心が軽い。こんなに簡単に、楽になれたなんて。声がでない、胸があたたかい。くらくらする熱に呑まれる瞬間が、泣きたい衝動に似ていた。