05
* * *

 あれは一時的に寒さのもどった、春の日だ。やはりあの日も、ふたりで外を歩いていた。

 その日は朝から、煙草を喫むたび、火がしめっていると感じるような、しとやかな空模様だった。
 雨の予感に、何度も空を見上げている俺とは違い、前を歩くイヴァンは、のん気に唄をくちずさむ。足取りも軽く、手ぶらで。

 いつものことながら、荷物は俺が引き受けていた。「手になにか持つと落ち着かない」なんて、信じられないことを言うやつだが、たしかにあいつが鞄や何か(水道管以外のまともな荷物)を持っているところを見かけない。
 たいした買い物はしていないから、紙袋がいくつか増えていっても、重くはない。しかし、傘を二本も腕にぶらさげているので、少々かさばる。

「おい、雨がふりそうだぜ」
「降ってもかまわないよ」
「さむがりのくせに」

 どこに向かって歩いているのか知れない、鼻唄交じりに街を闊歩する長身を、しばしば人が振り返る。俺はそれを三歩後ろから、黙って眺めていた。
 イヴァンは手を後ろで組んでいるから、ひろびろとした背に服のしわが寄る。それでも大きく平らに見える背中を、俺はぽけっと観察していた。触ればあたたかいのだろうな、などと想像しながら。

「……そんなにいそいそして、どこに向かってんだ?」
「ん? さぁ、ね。どこでもないよ」

 イヴァンの横顔は、肌寒い春のなか、笑えばやんわりと白い。空気のしめりけとは対照的に、さらさらに乾いていて、機嫌の良いのがすぐ分かる。

 連翹レンギョウの並木道は、花の層が幾重にもかさなって、本来ならば春のさかりであるというのに、ひんやりした風がふきぬけていく。黄色い花は冷えこみをこらえ、ひっそりと咲き、ときおり肩をすくめるようにも見えた。

「……なんだよ」
「なんでもない。顔、怖いよ?」

 手ぶらで歩くイヴァンは、移り気に俺をふりかえり、ふ、と笑った。もう何度も繰り返され、その度に、俺は曖昧な表情を返している。
 安心したような笑顔と、大きな背中と、雨の降りだしそうな空。それらが、決められた一連の動きのように、視界のなかで繰り返される。

「……そら、降ってきた」

 ぽつぽつと花をつけ、首飾りのように垂れ下がっていた枝先に、最初のひとしずくがきらめいた。降りはじめの音が鮮明なうちに、あとからあとから雫が落ち、響きだす。

「手がふさがるの、いやだな」
「傘ささなくていいから、こっちに入れ、ほら」

 腕をひいて傘をさそうとした、その一瞬に隙ができた。首筋に、ひや、と触れられたかと思えば、乾いたキスの音が、頬で鳴る。

「なにすんだよ」
「今日は調子わるいの?」
「…… べつに、わるくない」
「そう、じゃあ気のせいだ」

 これで両手がふさがったことになる。まとめた荷物と、傘、たしかに雨降りは面倒だ。

 傘の柄がすこしだけ錆びていて、赤茶けたその色を見ながら、内心で首を傾げた。
 ぼうっとしていたかもしれないが、どこも悪くはない。きっと低気圧のせいだろう、ものを考えるのが億劫なのは。そう結論づけながら、傘のなかへ、やたらと機嫌の良いイヴァンを招きいれる。

 触れられた首筋がすうすうする、雨の冷気が入ってきて、余計に印象づいていく。気づけば、イヴァンの鼻唄がとまっていた。いきなり口づけてきたり、黙ったり、本当に自由なやつだ。

 歩調を落として、ならんで歩くつかの間、聞くともなしに耳に入ってくるのは、雫の音だけだった。このまま降りつづいても、いつ止んでもおかしくないような、つかみどころのない雨模様だ。これからの予定を考えた。
 イヴァンはどこへ行くつもりなのだろう、おなじ傘の下にいても、今日は考えがつかめない。

「あ、おい」
「ちょっと待ってて」

 イヴァンは気軽な調子で言って、濡れるのも構わず走り出した。まったく落ち着きがない。追いかけようとするが、案外すぐに立ち止まる。道端で、ちょい、と何かを拾いあげ、傘のなかへと戻ってくる。

「はい、お花、咲いてた」
「……おう」

 咲いていた、というか、咲かせていた、というのか。花壇に花があるのは当然だと思うのだが。

「ここにいれとくね」
「……」

 自分の胸ポケットに、濡れた花が与えられるのを、両手のふさがっていた俺は、ただ突っ立って眺めるしかない。見慣れたイヴァンの手、荒れた指でおこなう、とてもちいさな行為だった。

 あどけない芳香をはなつ花だ。綿菓子のような白が咲き、くびれた芯から、うっすらと淡紫色に染まっている。

「どうして、」
「なに?」
「……なんでもねぇ」

 たった、それだけ。それっぽっちの、つまらない出来事に、足元がすくわれる思いがした。
 なぜだか分からない、どうしてだ。イヴァンのせい、ということだけは、苦しいくらい分かっていた。

 風と雨のために、地面に散りばめられた花びらが、靴底にふれた。名前も知らない花は、傘の下、まだ俺の胸で咲いている。

 世界の音が遠のき、感覚が鈍くなってゆく。そして次第に、切なさが、ほそくほそく降り積もり、やがて体の芯を突き刺した。

「ねぇ、ギルベルト……聞いてる?」

 その切なさは、何かを責める気持ちでなくて、自分の在り方を揺さぶられるような、これでいいのかという不安な気持ちだ。

 はっきりしない雨に、感傷的になっている。俺の身勝手な感傷を、押しつけたくないのに。お前の気まぐれが嬉しい。惹かれていく心にとまどって、思いがけず足が震える。こんなとまどいは欲しくない、気まぐれな優しさなんていらない。

 いや、違う、イヴァンはいつでも真っ直ぐだ。気まぐれなのは、俺のほうだ。こうしておなじ傘に入り、些細な、ちっぽけな好意に触れただけで、気持ちが暴走しそうになる。

「ねぇってば」
「……どうした、腹でもへったのか」
「あたり! なにか食べよう」
「食う。おごりだろ?」

 重ね持った紙袋を見せて、これの礼をしろ、と言った。はたから見れば、パシリの荷物持ちだと思われそうだ。わざと溜息をついたら、イヴァンはおかしそうに目をぱちぱちとさせた。

 花冷えの雨のなかでも、春の日はほのかに明るい。にぶく光のさす傘の下、お前の瞳はいたずらっぽく輝いていたが、それを真正面から見るのは避けた。不安定に揺れている自分を、見透かされそうな気がした。

「いいよ、行こう」

 さしだす傘のなか、歩きだす。
 ふたたび、穏やかなメロディを唇にのせた、イヴァンとは対照的に。俺はこっそりと唇をかみしめ、落ちていく雫を数えていた。

* * *