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車に乗り込んだとたん、張りつめていた緊張が解けそうになり、ぎゅっと目をつむった。体がずっしりと重いが、ここで気を抜いたら身が持たない。
休むときも気を張っていないと、立ち上がれなくなりそう、なんて、まるで普通の人間みたいだ。
「……笑える」
うそ、笑えない。
さっきから、ギルのことばかり考えている。たわいのない回想に、少しだけ救いを求めていた。変だな、そんなつもりじゃなかったのに。
毎日が慌ただしく過ぎていく。上司に請われて、最近はずっとホテル暮らしだ。決められた道を、毎日、車で往復する。いつもと同じ角を曲がり、同じ眺めを追い越して、何かが少しずつ色褪せていく。
ベテランの運転手は、あまりブレーキを踏まない。滑りだすように走りだし、気がつけば止まっていて、今は信号待ちをしていた。
街には夜のさざめきがみちていくが、車内は静かだ。
いつの間にか、月がでている。発光する街は明るく、都会の空で、月は所在なさげに浮かんでいた。
疲れた。だけど、まだこれくらいは大丈夫だ。もっとひどい時が、たくさんあったじゃないか。そう自分に言い聞かせる。
体はぎしぎしいうけれども、傷を負っているわけじゃない、血が止まらないわけでもない。食べれて、寝れる。だからいいんだ。いいんだけど、なにも楽しいことがない。楽しいと思えない、というのが正しいか。
正直にいえば、ため息をつく余裕もなかった。
いつも少しだけ無理をして生きている。それは当然のことだ、誰だってそうなのだ、だからいいんだ、褒められたいわけじゃない。
何のために、なんて、そんな疑問も意味がない。これが僕の存在意義だからだ。時代が止まらないかぎり、二本の足は歩きつづける。
この道がどこまでも続いていくことを、強く願っている。誰よりもこの僕が、ひたすらに願っている。きっとどこまでも続く、きっと――。
その瞬間、寂しいような悲しいような、得体の知れない不安が、僕のなかをかけ抜けていった。
終わりが無いのだと気づいてしまった。今をうまく切り抜けても、どんなに要領よく立ち回れたとしても、この毎日に終わりはこない。そんな気づきに、大げさなくらい衝撃をうける。
今がんばれば後で楽になる、なんてことはないのだ。階段、階段、また階段。ひとつステップを上がれば、また次の課題が待っている。
くだらない、当たり前じゃないか。僕はいったい、なにを嘆いているのだろう。
さっまでは、ほっとするようだった車の振動さえ、違った意味をもちはじめる。やりきれない思いがぐるぐるとまわりだし、視界が狭まる、車酔いなどしない体のはずなのに。
「……市内を、適当に走ってくれないかな」
「今夜のご予定が、」
「分かってるよ。時間まで、すこしでいい」
信号が変わり、車の列が進む。運転手は指示通りにハンドルをきった。
今夜の仕事はなんだったか、偉い人達のご機嫌とりだったろうか。わざわざ招かなくても良さそうなのに、上司も抜け目ない。
そんなふうに、一方では冷静に思考して、もう一方では目眩を感じている。
回りつづけるエンジンに、もう見飽きた景色、そんなものが行ったり来たりして、気持ちが定まらない。それでも目的地に着きたくないのだ。
少しだけ、周り道をするつもりが、どこに行けばいいのか分からなくなる。どうやら相当に疲れているようだ。ふわふわ、足元がおぼつかないことに気づいて、情けない笑みを浮かべそうになった。
その時、車は繁華街を走り抜け、街灯の下に人影をみつけた。
彼の影を、僕が見間違えるわけがない。
「ギル……」
「もうお時間が、」
「停めて、今すぐ」
後続車は当然クラクションを鳴らす。対向車線側を歩いていた人影は、その音に立ちどまり、こちらを向いた。やっぱりギルだ。
ドアを開けるのももどかしく、車を降りようとすれば、運転手が慌てた声を上げるが、もう遅い。
「悪いけど、ここからはギルと歩いていくからいい」
最後まで言いきる前に、もう走りだしていた。
口にだして「ギル」と呼んでしまったことに、頭の片隅で気づく。本人に聞かれたわけではないから、まぁ良いか、そんなことを考えた気もする。
左右をたしかめる時、苦笑するギルの顔が、視界の端に、ちらっと映った。とても待っていられない、夢中で車を避け、道路をわたる。体中がどきどきと脈打っている。
「おい! ぜんぜん周り見てなかったろ、あぶねぇな」
ギルは笑いながら、僕を蹴りつける真似をする。
走ったのはいいが、何がなんだか、僕には分かっていない。どうして、彼がこんなところにいるのだろう。どうして一人で、何の連絡もせずに。
「どうしたの、急、に……」
混乱に言葉を失い、せめて笑おうと思ったら、眼の奥で何かがふくらんでいく。
「あれ?」
ふくれあがり、零れおちた。虚を突かれるような、さらさらとした涙だった。
泣いているのだと自覚したとたん、瞼が重く腫れあがる。遅れて熱くなった涙腺に、いかにも、予期しない出来事という実感がして、すこし可笑しい。鼻の奥がツンとして、やがて本当に泣けてきた。
「……あはは、困ったな」
「イヴァン?」
「君の顔を見たら、ホッとして涙がでちゃった」
「……なんだよ、それ」
ギルは困惑した表情を浮かべ、それきり黙った。
きまりのわるい沈黙が流れるなか、街灯がぽつんと僕等を照らす。
すん、と鼻をすすり、夜空を見上げた。笑えているのに、涙だけが出るなんて、本当に可笑しい。はらはら、重力に逆らえない涙の雫は、都会の風にさらされる。
「……泣きやめるまで、どっか座るか?」
「いや、もう平気」
本気で気遣うとき、ギルはすまなそうな顔をする、自分が悪くなくてもだ。まったく理解できないが、それはとても彼らしいことだと、しみじみ思った。
「……お前、仕事は?」
「今、逃げてきた」
「えっ、なんでだよ」
「だって、君が……」
――君がいるなんて、思わなかったから。
違うな、それでは君のせいだと言わんばかりだ。
ギルのせいじゃない、僕が勝手に落ちこんでいただけだ。疲れて、変なことを考えそうになって、勝手に苦しくなっていただけだ。
会いに来てくれるなんて、思わなかったから、嬉しくて。
ただひたすらに、嬉しかった。
「……君が、いてくれて、よかった」
やっと引っこんだ涙が、また零れそうになる。
それは肌の上ではなく、体のなかに染みこんで、たったいま声にした言葉と重なった。胸の奥をじんわりと濡らして、あたたかかった。
会いたかった、会えてホッとした。それ以上は言葉にならず、ただ胸をあたためている。
「……なに、言ってんだよ」
ギルの口調は苦く、やりきれないような顔をしている。
「なんで、そんなこと言うんだよ、俺は、」
「ごめん、君のせいじゃないんだよ」
「……そんなことは分かってんだよ!!」
ぶわっ、と音がしそうなくらい、ギルの眼に涙がたまり、その勢いごと怒鳴られた。いっぱいに涙をためたまま、むきになって怒っている。
「なんで、そんなことで……ばかじゃねぇの」
「どうして怒るの、泣かないでよ」
「泣くか、かっこわるい!」
そう言いながらも、ぞんざいに目元をぬぐった。大きな涙の粒が、ばらばら、頬にこぼれた。
「……お前が……俺しかいない、みたいな言い方するからだ」
僕はうろたえるが、本人はもっと混乱しているようだ。混乱がゆきすぎて、苛立ちを僕にぶつけるしかないらしい。
「…………なんか言えよ!!」
「えぇっ、そんな」
もう隠すことを諦めて、きっと睨みつけてくる眼を見据えた。ギルの瞳にまたぶわぶわと涙が溢れ、目尻が赤く染まっていく。
僕だけを責めているのではなく、半分は自己嫌悪にも見える、どうしてだろう。ギルがこんなに素直になることも久しぶりだから、思わずその顔に見入ってしまう。
「僕のせい?」
「お前のせいだ、最悪だ」
「……ふふ、困ったな」
不明瞭に冷えていく夜のなかで、街の灯りはぼんやりと遠い。
涙焼けする、ひりひりとした赤さを感覚でとらえた。同じように赤らんだギルの眼を見る。
長い睫毛に水滴がついていて、指先でそっと触れようとすると、びくりと瞳が閉じられる。その拍子に、最後の一粒が、空気に触れた。
ギルから、は、と漏れでた吐息が熱くて、苦しくて。僕は衝動にかられるまま、彼を抱きしめた。
おとなしく収まってはくれない。何度もこつんと頭をぶつけて、僕をなじる。僕は、ほとんど泣き笑いで、名前を呼んだ。
「ギルベルト、歩こう」
「嫌だ、どこに行くってんだ」
「海まで行く」
「……ばかじゃねえの」
いからせていた肩を落とし、僕の腕のなかで、そっと力を抜いていく。ふたりで泣き笑いしてる意味が分からず、けれども僕はそれでよかった。
それでいいよ、と、ギルに言ってあげたかった。
* * *
後編につづきます。
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※実在の人物や土地とは一切関係がありません。
※作品内に登場するものについて、いかなるものに対しても、否定したり貶める意思はありません。