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◇ 傘におぼれる ◇



 そんなつもりじゃなかった、と言えば、嘘になる。

 最初から驚かせるつもりで、イヴァンを喜ばせるつもりで、モスクワを訪れたのだ。もっと正確にいうのなら、イヴァンの驚く顔を見れば、自分の胸がスッとすると考えていた。
 そんな企みがあった一方で、もしも会えなくても構わないと思っていたから、連絡はしなかった。事前に電話をすれば、「会えない」と言われる可能性が出てくる。言われて俺が傷つくわけではない、傷つくのはイヴァンだ。

 会うチャンスがあったのに、会えなかった、と悔やんでしまうだろう。いや、そんなことないかもしれないが、そうだったらいいのに、と俺が思ってしまう。
 喜ぶ顔が見たいと思ったり、残念がる声が聴きたいと思ったり、まったく忙しい。そんなアレコレを考えてしまうこと自体が面倒くさくて、連絡はせずに来た。

 トラムに乗るのも、多彩な通りや、交通渋滞を見るのも、それなりに愉快だった。この街の変化が視察できただけで、まぁ来る価値はあったなと思っていた。
 そうしたら偶然、イヴァンにも出会えたものだから、事が上手く運びすぎて、笑うしかない。

 しかし、俺は今、後悔している。

「君の顔を見たら、ホッとして涙がでちゃった」
「……なんだよ、それ」

 まったく予想外の涙に、心底うろたえた。

 仕事から逃げてきた、と言うイヴァンは、涙をこぼしながらも、実に落ち着いていた。微笑すら浮かべて、なにも怖くない、という顔をしていて、俺はむしょうに腹が立った。

「……君が、いてくれて、よかった」

 子どもみたいに泣いたくせに、複雑な顔をして笑う。もう人生を知り尽くした、というような、大人びた幸福を匂わせながら。俺がこんなに戸惑っているというのに、お前が悟った顔をしているのは、どういうことだ。

「……なに、言ってんだよ」

 俺の企みなど知らずに、俺の気持ちなど考えずに、イヴァンの幸せはとてもシンプルで、自己完結してしまっている。

「なんで、そんなこと言うんだよ、俺は、」
「ごめん、君のせいじゃないんだよ」
「……そんなことは分かってんだよ!!」

 俺は、そんなつもりじゃなかった。そう言いたかった。
 自分が優位にたちたくて、お前が俺の思い通りになれば面白いと思って、そんな勝手な気持ちでここへ来た。会えなくても構わない、なんて予防線をはりながら、会えて少しどきどきしてしまった。

 お前を喜ばせたかった。だけど、お前がそんなに喜ぶとは、想像できなかった。予想しないことが起こったから、混乱して、腹が立っている。

「なんで、そんなことで……ばかじゃねぇの」

 お前はそんなことが嬉しいのか。俺はそんなつもりじゃなかったのに、どうして、いとも幸せそうに笑うんだ。俺も勝手だが、お前も勝手だ。

 お前に好かれていたい、惚れられていたい。俺の自尊心を満たしてほしい、と、そう思っていた。しかし、本当に混じりけのない好意をぶつけられてみると、まったく準備のできていなかった俺は、こうしてみっともなく揺さぶられている。

「……お前が……俺しかいない、みたいな言い方するからだ」

 俺を選んだことを、後悔させたくない。いつもそう思っているから、喜ばせようとするし、笑わせようと努めている。

 けれど、イヴァンの涙を見た瞬間、まったく違うことが頭に浮かんだ。

 ――お前は、俺を選んだわけじゃない。お前には、俺しかいない。イヴァンがこんなふうに、無防備な自分をさらけだせる相手は、きっと俺だけ。

 ひどく傲慢な考えだと気づいたが、瞬時に胸が満たされてしまった。そしてますます腹が立って、もうどうすればいいのか分からない。

 イヴァンに抱きしめられながら、否定できない優越感と、後悔の狭間で、俺は揺れていた。
 思えば、最近の俺はずっと、こんな気持ちを持て余している。なんだかずっと落ち着かなくて、だからこそ、イヴァンのもとを訪れる気になったのかもしれない。


* * *