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※2015年8月発行 シリーズ作品集『HELLO?』 へ収録 →完売から一年後にweb再録

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 僕はこの声を聴くためだけに
 今ここにいる
 この人の孤独に出会うために
 僕は生まれてきたのだと思った




 ◇「Hello?」のかわりに君の名を◇






 踏切の音が聴こえる。爆音で鳴り続けている音楽の上に、高らかな警戒音が、どこかリズミカルに重なっていた。

 黒光りしているオーディオ機器は、ウーファーというらしい。彼がこだわって揃えているスピーカーユニットの中でも、上位機種、出力の高いタイプだ。低音再生にお熱なギルくんが先日購入したばかりの、お気に入りの品だった。

「ギルくーん、ごはんの時間だよ」
「ん……」

 ダブステップの鳴り響く部屋で、彼が何をしているのかといえば、机に向かってお勉強をしている。まだ受験生でもないのに、毎日毎日、予習復習を欠かさずやっているのだ。帰宅してそのまま勉強机に座り、学生服も着たままで、きらりと光る眼鏡をかけて。

 塾に通わずに進学校に受かったことは、彼の自慢だった。誰にも口に出しては言わない、つつましい自慢だ。それでは、なぜ僕が知っているのかというと、故人の写真に手を合わせる彼の姿を、たまたま見てしまったからだった。

 こちらの背筋までスッと伸びるような声で、『親父』と誇らしげに呼びかける姿を、まだ鮮明に覚えている。

「俺はこれからも、自分が良いと思ったことをしていく。あんたのためじゃなく、自分のために。でも、そうすれば、いつか俺は、親父にとって自慢の息子になれるよな?」

 どうしてか僕は、彼の誇らしげな笑顔のなかに、とてつもない孤独を感じた。

 詳しくは分からないが、彼には親類縁者がいない。一昨年、唯一の存在であった父親が亡くなり、全ての身寄りを失ってしまった。

 医師になることが、彼の夢だ。誰に望まれたからでもなく、自分の為に、真っ直ぐに努力を重ねていこうとしている。

「こーら!」
「うわっ」

 回転椅子をぐるりと押して、白銀の頭を抱きしめる。相変わらず小さい頭で、モデルさんみたい。

「……っにすんだよ、シャーペン刺さったら危ないだろ!」
「うん、僕、どこかに飛んでっちゃうかもね?」
「……風船みたいにか?」
「うん!」

 ギルくんは実に凶悪な表情を浮かべ、ペンではなく指先を尖らせて、ぷにぷにと僕のお腹をつつく。
 たぶん、この表情は怒っているのではなく、喜んでいるのかな。目が据わると、瞳の赤は普段より余計に獣じみて見える。でも、ウサギみたいで可愛いかも。

「この二年で成長しすぎだな……よくもまぁ、こんなに触り心地よく……」
「ふふ、君が何回も無視するから、お腹と背中くっついちゃったけどね」

 そこで景気よくグウと響く、ぴったりのタイミングで、お腹の虫も加勢してくれたようだ。

「え? 俺、無視してたか?」
「うふふ、三十分以上前から呼びかけてたよ」

 ゴゴゴ……と、僕の笑顔にともなう効果音が、凄みを増した。まぁ、ただのお腹が鳴る音なんだけど。

 彼はわざとらしく目を反らし、いそいそと立ち上がると、リモコンを操作して音楽再生を止めた。耳の奥に少しだけ低音が残響し、あとは一気に静かになる。

「ちょっと悲しかったかな! 勉強熱心な君も好きだけど」
「……着替えてから行く」
「待ってるね〜」

 扉を閉めて、僕も少しだけ首元のストールをゆるめた。家の中でも外さないこれは、お守りのようなものだ。

 理由はよく分からないけれど、首に何かが触れていたほうが、上手に息ができる。以前に彼にも説明したら、『絞首恐怖症っていうものは存在するけど、その逆は初耳だ』と言って、しきりに首を傾げていた。

 もうこのままでも良いと、僕自身は諦めてしまったから、かわりに彼が研究してくれている。ストールのかわりに違うものを巻いてみたりして――タオルはぎりぎり大丈夫だけど、ネクタイはまったく駄目とか。

「うまそう、いただきます!」
「いただきまぁす」

 Tシャツとスエット地のズボンという、ラフな格好で食卓についた彼だが、フォークの持ち方は実に美しい。彼のお父さんは、そういう躾に厳しい人だったらしい。

 色彩豊かな料理を一口食べた途端に相好を崩す、彼は食べることが大好きだ。

「う〜ん、ぷまい。俺ここ来てから、どんどん健康になっちまうな」
「そう? おばさん、はりきりすぎ……この量は多すぎないかなぁ……」

 遠くから電車の音が響いてきた。食事中にテレビはつけないから、まるで音を通して、夜の景色をながめている気分になる。

 二人きりの食卓、夕飯の時間はおおよそ七時と決めていて、特別な理由がなければ、必ず一緒に食べることにしていた。

「美味いもん食べて、『うまい!』って思ってたら、だいたい大丈夫だ」
「え〜〜! ……お医者さんになる人の発言が、そんなでいいの?」
「心の栄養のが大事なんだよ、いいから良く噛んで食べろ! もっとナニーさんの料理を味わえ!」

 家事は全て家政婦さんに頼んでいて、僕と彼女とはもう十年以上のつき合いだ。

 そもそも、なぜギルくんがこの家で暮らすことになって、僕達は二人きりで食事をしているのか。その説明はそんなに難しくないけれど、少しだけ長くなる。



 僕も早くに両親を亡くしたが、彼とは違って姉たちがいて、何不自由の無い暮らしをしてきた。申し訳ないとは思わない、誇るべきことだ。両親が残した家と、会社と、姉たちの愛情があったからこそ。それに加えて、見えない存在の加護のおかげだと、僕は本気で信じている。

 今では姉が代表を務めている会社で、ギルくんのお父さんはずっと働いていた。役職以上に、組織には不可欠な存在だったと聞いている。

 決して押しつけない心配りを、誰にも分け隔てない人だった、どれだけ社員も自分も助けられたか計り知れない。そう語っていた姉さんの、葬儀の際の悲しみようも、まだ記憶に新しい。

 そういう縁で、ギルくんは僕の家に来た。説得には時間が必要だったという。『恩返しだ』と主張する姉に対して、彼は頑なにそれを拒み、『俺じゃなくて、親父に返せ』なんて、強がりにも似た言葉を放ったらしい。

 それは実際に、強がりではなかったようだ。彼と暮らしていて実感する、なんというか、僕と同い年とは思えない。年齢には不相応なほどの自立心を持ち合わせ、いったい過去に何があってそうなったのだか、『親父も俺も、自分の為に生きて死ぬだけだ』と、独特の哲学を胸に抱いている。

 彼は父親を深く敬愛している。それは、子どもが親を敬う以上のものだと、誰もが感じていた。

「俺を助けても、親父への恩返しにはならない、自分達は違う人間なのだから」

 その言葉が意図するものはおそらく、はっきりと区別された個≠セ。親子でありながらも、それぞれが独立した人間であるとして、お互いの自由を尊重していた。なぜか、徹底的なまでに。

 深く愛する者がいながらも、相手に寄りかからず、ただただ自分のために生きて死ぬ。そんなことが可能だろうか。親子がそれを目指していたのだとしたら、この世のどんな関係よりも、崇高な結びつきだったのかもしれない。

 その理想は、彼の整った容姿をさらに輝かせる。けれど、周囲の人間を、少しだけ傷つけているとも思う。彼はきっと、早く大人になりすぎてしまったのだ。父親を亡くしたことで、哲学はさらに揺るぎなくなった。どんなに素晴らしく、気高い理想だとしても、切なさを感じずにはいられない。

「本当に美味いな……あいつは何を食ってんだろうなぁ……」
「あいつって、弟≠ュんのこと?」

 あまり長くはない期間だけど、施設で過ごしていたギルくんには、血の繋がらない弟がたくさんいる。なかでも話題によく上るのは、金髪碧眼の少年のことだ。僕も一度だけ顔を合わせたが、唇をきりっと結んで、背筋をのばした姿は、どことなく彼に似ている気がした。きっと波長が合うのだろう、あの少年に対するギルくんの兄貴っぷりといったら、少し妬きたくなるくらいだった。

「メールの返事が三日もこない……」
「気を遣ってるのかなぁ、君が勉強に忙しいって知ってるし」
「そうだな、ていうか、俺にハッパかけたのもあいつだからな。年下のくせに、生意気に」

 離れることを渋っていたギルくんは、弟に背中を押されたらしい。

「早く医者になって、世の為、人の為に生きてくれ、俺は大丈夫だから」

 まだ声変わりも済ませない子どもが、そう言ったなんて。信じがたいけど、本当だ。

 僕の目から見ても彼等は幸せそうで、施設の職員さんも優しい人ばかりだった。しかし人数分の机も無いのでは、勉強するのにとても苦労しただろう。今、彼は好きなだけ本を読んで、好きなだけ勉学に励んでいる。そのために、この家に来たのだから。

 世話焼きのギルくんにとって、庇護する存在がいなくなったのは、とても寂しいことなんだろう。だが、今は回線を通していつでも繋がっていられる時代だ。きちんと密な交流が続いているようで、良かったと思う。

「今度うちに呼べばいいよ。姉さんは忙しいから無理かもしれないけど、ナタも呼んでご飯を食べよう」
「……クールビューティーを前にして、あいつが固まるのが目に浮かぶぜ、笑える。あそこ男ばっかりで、女に免疫ないんだ」

 僕の妹は特待生として留学し、今は寄宿舎に入っている。遠く離れているのに、しきりに僕の顔を見たがっては、年に何度か帰国した。

 どうやら僕の家系は、女性がしっかりする傾向にあるらしい。妹だって、幼い頃はいつでも僕の後ろに隠れていた、内向的な子で。僕も、彼女を守っているつもりでいたのだけれど。実際のところ、守られていたのは僕の方だったと、最近になってから気がついた。賢くて気丈な妹も、僕の誇りだ。

 とはいえ、どんどん大人の女性に近づいていく彼女が、今だに僕を気遣って離れようとしないことには、すこしだけ戸惑っている。

「ナタが気に入る男の子がいれば、いいんだけどなぁ……」
「イヴァンくらい豊かな体型じゃないと、無理かもな」
「標準だもん、骨太なだけ!」

 それにしても、ギルくんが言った通りだ。美味しく食べる食事は、それだけで体に良いのかもしれない。彼が来るまでは一人の食卓が続いていたが、とても味気ないものだった。今は食が進んで困るくらいだ。

 高校に入ってから急に体が大きくなった僕を、ギルくんはよくこうやってからかう、彼自身が僕の食欲を刺激しているのに。

「あ〜、うまかった! よし、今日も俺が洗うから、シンクまで下げろよ」
「おばさんが明日やってくれるのに」
「こういうのはすぐにやるもんだろ、感謝の気持ちをこめて」

 勝手知ったる様子でお皿を洗う、危なげない手つきだ。気を遣って家事をしているなら止めるけど、なんとなく楽しそうに見えるので、いつも好意に甘えている。

 さて、今日は何を観るかなと思いながら、僕は立ち上がってDVDコーナーを物色した。両親の趣味だったらしいが、一緒に鑑賞した思い出はない。いつのことだったか、本棚の奥に隠れていたのをギルくんが見つけてきて、それから映画鑑賞は僕らの日課のようになった。二人ともすっかりハマってしまい、新しいDVDも増える一方だ。

「あれ観たい、リトルダンサー」
「また? もう五、六回は観てるじゃない」
「……じゃあお前が選べよ」
「ふふ、いいよ、僕もあれは好きだよ」

 エプロンを外す一瞬の隙をついて、頬にくちづけた。ちょっと眉をしかめられるだけで、叱る言葉はない。

「ほら、ユニット組み替えただろ? これで音楽とダンスに浸れたら、お前だって絶対また泣くぜ!」
「はいはい、じゃあセッティングお願いします」

 彼はこういう趣味の品を、こつこつと貯めたお金で購入している。ギルくんが言うには、音楽にも映画にも、ちょうどよいバランスで調整したらしい。自慢気に語られたが、僕には正直ちんぷんかんぷんだ。ただ、こうして二人でくつろげる時間を、大切に思ってくれてるのが伝わってくる。とても嬉しい。

「電気、消す?」
「消さない、お前すぐに変なことするから」
「え〜……」

 そう言いつつも、腰にまわした手を払わないでいてくれる。彼は勉強用の眼鏡を取り出し、もう一度かけた。いかにもガリ勉ですという印象の、黒い眼鏡。これがあると、目つきの鋭さが少し収まって、隠れていた優しさが強調される気がした。

 ソファは小さめでも、隙間なく詰めれば、男子二人が一緒に座れる。少し経てば、勉強疲れのせいもあるのか、頭がこてんと寄りかかってきた。それも、もう慣れ親しんだ温もりだった。

 耳慣れた音とともに、配給会社のシンボルが光る。生き生きとした少年の跳躍と、心地よい音楽とが重なり、広がっていく。たしかに、音質の変化は僕の耳でも分かる。これは楽しみだなと思い、僕はしばらく画面に集中した。

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