07


 言われたような、その先のこと≠ワでは考えていなかった。正直よく分かっていないけれど、少しだけ想像してみても、拒む気なんてまったく起きない。むしろ、逆だった、熱くなってしまうだけだった。

 とても見せられなくて、手の甲で顔を隠す。イヴァンにされることなら、きっと何も嫌じゃない――そんなこと、どんな顔して言えばいいんだ。

「イヴァン、お前なら、……いい……なんでも、していい……」
「ちょ、ちょっと……ギルく……〜っ、もう、」

 二人そろって、お互いの言葉にくらくらして、繋いだ手の熱がふくらんだ。イヴァンを見れば、すごく眩しいものを見るように、俺を見ている。俺だけを、見ている。

 ぶわっと熱がはち切れて、目の前にある胸元を、両手でつかむ。シャツの布地に皺をつくって、ぎゅっと。そうすれば、すぐに、強く抱きしめられた。
 人の体がこんなに熱いなんて、知らなかった。衝動的に体が動いて、自分からも抱きしめかえす。相手の存在を求めて、求めて、どこまでも高ぶっていく。なんて心地がいいんだろう、怖い。

 怯えに似た感情が受け入れられず、否定するため、ますます強く抱きしめた。もっと強く、もっと近づきたい。そうすれば、きっと何も怖くない。

 お互いに求めあって、どちらが先か、頭をかき抱くように引き寄せ、そのまま唇を重ねた。二度、三度と、夢中で押しつけあう。

「ン……、ぅ」
「……ギルくん」

 そこまでは同等だった勢いが、唐突に崩れ、俺は力がふにゃりと抜け、吐息をこぼした。まだまだ求め足りないといったように、キスを続けてくるイヴァンに全てをまかせ、肩を震わせる。

 何度も重なって、角度を変え、やがてついばむように唇を食べられた時、なぜか目頭が熱くなった。伝わってしまったのだろうか、やっと離れていった後、優しく髪を撫でてくれる。

「ここ、痛くない?」
「……あぁ」

 さっき、かんしゃくを起こして、自身に手を上げ、醜態をさらしたところだ。手が触れれば、ちり、と鈍い感覚があるが、もう痛くはない。

「ごめん、僕が臆病なせいで、嫌な気持ちにさせて。……でも、駄目だよ、絶対に駄目だ。またあんなことしたら、怒るから」

 ことのほか、きつい口調で、背筋にそわっと何かが走る。その波は一瞬で遠ざかった、手は変わらずに穏やかだ。

「……ん」
「聞いてる?」
「……分かった」

 ふるふると、優しい手を振り払った。イヴァンのしっかりとした首に腕をまわし、俺から、頬にくちづける。なんとなく、そうしたかった。嬉しそうに腰にまわされた腕が、とてもあたたかい。

 たぶん、この抱擁を、俺は忘れない。きっと一生忘れないと、そう思った。

「……また、雷だ」

 雷鳴は聞こえているのに、稲光は見えない。音が地面を揺らがせて。足元がふわふわとおぼつかない。

「イヴァン、首は、平気なのか」
「ん? あれ、忘れてた」
「なんだそれ」

 首に何かを巻いていないと呼吸困難に陥る、という症状は、気のせいでは片づけられないほど深刻だ。今、俺は裸の首に触れている。

「さっきまで、なんだか必死すぎて……それに、今は君とこうしてるから、平気みたい」
「なんだそれ……」

 俺が心配しているのに、にこ、と微笑む。嘘のない、正直な笑顔だ。俺は心底あきれる――ときめいてしまった自分にだ、もう何も言えない。

「雨宿りしようか、」
「……どこで?」
「教会。もう、近くまで来てるんだよ。……行こう」

 手を引いて、俺を導いていく。背中を見つめて歩くうち、不思議なほど心が鎮まった。

 雷鳴は、遠ざかっているのか、近づいているのか悟らせない。打ち寄せる波のごとく、空気を震わせている。曖昧を許さない夏だとはいえ、夜の暗さは寛容だ。緑も、花の色も、ふわりと風にさまよって、しめった空気にまぎれ、やがて一つになる。

 夏の思い出は、ほとんどない。そう思っていたけれど、不意によみがえってくる記憶があった。今までなぜか、浮かんでくることのなかった記憶を、初めて思い出す。懐かしい。

「イヴァン、」
「なぁに」
「すこし……話してもいいか」
「訊かなくても、話していいよ」

 いつも俺が言う台詞を真似て、答えてくる。俺は笑いながら、手をしっかりと繋いだ。

「俺、本当は夏ってあんまり好きじゃないんだ……でも、親父と出会ったのも……十二の夏だった」

 雷鳴や、風の強さにはばまれ、言葉は何度も途切れてしまう。休まず足を前へと出すうち、少しずつ、真夜中に近づいていく。

「十二歳なんて、めんどくさい年頃だろ? 自分ではもう、誰にも甘えない人間になったつもりで、生意気で、強がってた……親父も、たぶんそこらへんはよく分かってて……俺を甘やかさなかったんだろうな」

 俺が、本当の意味で強くなれるように。ひとりでも生きていけるよう、育てようとしてくれていた。今なら、ちゃんと分かってる。

「強がってたけど、まだガキだったから、俺、雷なんかが怖くてさ……ある日、親父と外を歩いてたら、いきなりすごい雨降りになって、空が光って……」

 また雷鳴が轟き、記憶があざやかにフラッシュバックする。



* * *


 雨を避けようと、周囲が慌ただしく走りはじめた。商店の軒先はあっという間に人で埋まり、雨樋からあふれた水が滝のように落ちる。気づけば俺は、耳を押さえて、往来の真ん中で立ち尽くしていた。

 親父はそんな俺を急かすでもなく、雨に濡れるのを構わずに、ただ抱きしめた。少し経ってから、しずかに肩を支え、大丈夫かと声をかけてくる。

 俺は我に返って驚いたのと、街中でそうなった恥ずかしさが耐えられなくて、とっさに親父のことを突き飛ばそうとした。大人の体はびくともしなくて、怖くて、でも、なぜかとても、ほっとした。親父はただ困ったように笑いながら、そっと俺を離してくれた。



* * *



「……抱きしめられたのは、あのときだけだ」

 辿り着いたチャペルの扉に、イヴァンは何の躊躇もなく、手をかける。不用心にも、鍵は明いていた。
 しんとした建物、高い天井に足音が響く。自然と、俺の声はちいさく、細くなった。
 思い描いていたところとは違って、真新しく綺麗だ。ホテルも近いし、正式な教会ではないのかもしれない。滞在客のためにか、礼拝が行われている雰囲気はある、それでも、こじんまりとしていた。

 イヴァンは黙って、俺の話に聞き入っている。俺はステンドグラスを見上げた。現代的な、幾何学模様のなかに、光を放つモチーフが掲げられている。よく目をこらせば、空と山と、ひまわり畑のイメージが見えた。そうか、イヴァンが気に入るはずだと笑う。

「親父との時間が、短かったとは思わない。十分すぎるほど、たくさんもらった。いろいろ心配はされるけど、俺、もう平気なんだ、ほんとに。寂しくなんかない、俺は俺のために生きていくし、そうしろと言ったのは親父だ。二年間、信じられないくらい楽しかった。あんなに楽しかったのに、これ以上、望みなんて……」

 繋いだ手が痛み、そんなに強く握るなと文句を言おうとして、それは俺に向けられた思いやりなのだと気づいた。

 この機会を逃したら、もう同じ夜は訪れないから。立ち止まることのできない切なさを、自分の時計にするしかない。

 今日と明日が流れていく。昨日の想いは、岸辺に打ち寄せることがあっても、その都度、形を変えてしまう。真実なんていくらでもある、なにを拾い上げ、なにを語るかだった。今、本当の気持ちを言っておかないと、もう二度と、同じ形にはならない気がした。

 イヴァンは俺の手を離してくれない。手のなかに痛みがあるおかげで、ふっと、胸の痛みが消えていく。俺はぼんやりとステンドグラスを見上げたまま、どこか底のほうから息を吐き出し、目を閉じる。

「……俺は、抱きしめてもらいたかった、もう一度……いや、一回だけでいい、俺から、思いっきり……抱きついてみたかった……」

 もう会えない人に、もう手の届かない人に、未練や後悔などではなく、思いつのってしまう気持ちだった。苦しいけれど、あたたかい。

 見つけた、と、意味もなくそう思った。ずっと探していた、こんなところにあったのか。ちいさすぎて、今まで目に留まらなかった。もう、見失わない。

 手が震える、俺じゃない、イヴァンだ。目を開けたら、涙をぬぐおうともせず、突っ立っている姿がある。

「なに、なんで、泣いてんだよ」
「君が、あんまりきれいだから」

 イヴァンの涙を見ながら、笑えている自分に、ほっとする。

「君の悲しみも、痛みも、すごくきれい。だから僕は、君といると救われる。おかしいね、ごめん」
「……謝らなくて、いい」

 もっと笑いたかった。どうして喜びは、いつも哀しみと対になっているのだろう。涙をこらえるのに忙しくて、声にならない。――救われているのは、本当はどちらなのか。

「そこに、いてね」
「どこに行くんだ」
「どこにも行かないよ」

 頷いて手を離すと、イヴァンは建物の中心へと向かった。いちばん、天井が高くなるところまで歩く。
 けほ、と力ない咳が聞こえた。俺から離れると、息が苦しいのか。それなら、どうして離れるんだ。

 いちばん高いところに、天窓がある。イヴァンの背中に沁みている、寂しそうな色を透かした。傷ひとつない美しい寂しさを、俺は静かな気持ちで見つめた。

「……もう、いいよ」
「なんだったんだよ」
「ちょっと、お祈りしてた」
「なにを、」
「ないしょ……ギルくん、こっちに来て」

 そう言って、両手を差し出した。何も持たず、ただ、一筋の光が射し込んでいる、空っぽの両手を。澄んだ瞳で、喉にこみあげる咳をこらえながら。

「こっちに来て、大丈夫、僕の手をとるだけでいい。あとは僕が、引き寄せるから」
「……嫌だ、断る」

 ずかずかと歩み寄り、手をとって、思いきり引く。よろけたイヴァンの胸に飛びこみ、顔を押しつけた。
 くすん、と涙声がして、俺の髪に鼻先をうずめてくる。強がりめ、一人で俺を抱えようとなんて、しなくていい。

 両手を繋いだままでも、キスはできるだろうか。試してみたくて、顔を上げる。不思議だ、もうずっと前からこうしてきたみたいに、違和感もなく重なる。ただ、とても切ないだけで。

「本当に好きな人とするのは、初めてだからね?」
「……なんのことだよ」
「あっ、とぼけてる。『初めてじゃないのか』って、怖い目してたのに」
「お前……! 普段からそれっくらい、俺の話をちゃんと聞け!」
「はーい……それで、許してくれないの? ……それとも、初めてのこと、する?」
「え?」

 首を傾げたら、ちゅ、と甘えたなキスをされた。くすりと笑い、照れながら問いかけてくる。

「大人のキスは、まだだから……僕と、はじめてのこと、する?」

 言葉の意味も分からず、俺の心臓は跳ねあがった。イヴァンは一度言葉を切り、けふけふと軽く咳きこんで、どうせなら首を抱いていてくれと、俺の手を上まで導いていく。ずるい、いつもそうやって弱みを見せて、俺が放っておけないことを分かっているのか。

「なんだよ、それ」
「知らない? ……じゃあ、してもいい?」

 瞳がもう、俺の唇を見つめている。そんなにあからさまに期待されたから、こく、と喉が鳴ってしまう。

「勝手にしろ……ん、……ン?!」

 ほかほかと上気した顔が近づいてきて、唇をはむ。なんだか角度が深いと思ったら、とろ、とした感触がする。

 舌だ。分かった瞬間、頭が真っ白になる。とてつもなく恥ずかしいことをしてる気がした。けれど、イヴァンが切なそうに眉を寄せるので、うっと胸が詰まる。訳も分からず、おずおずと口を開く。好奇心も高まって、薄目で、イヴァンの表情を見つづけた。

 出たり、入ったり。柔らかいものに、とろとろ、濡らされて。あぁ、俺のも欲しいのか。気づいてしまったから、ほんの気持ちだけ自分の舌を、ちろ、と前に出した。すぐに、丁寧に吸いつかれる。イヴァンはうっとりと、嬉しそうな吐息をこぼした。

 柔らかく出し入れして、吸いついて。これは、これはなんだか、変な気持ちになる。なんだか、熱い。

「ふ、ぅ……、い、イヴァン」
「ん……ヤなの、かな、やめる?」
「ちが……これ、あふれそう……だ……どう、したら」
「う、ん……吸ったら、いいんじゃないかな、ギルくんも……」
「わかった、もっかい……ン、」

 今度は最初から唇を開け、俺から重ねる。舌が入ってくるのを待ち構えて、吸いついてみた。ふわふわした舌を、信じられないくらい甘く感じて、じゅわ、とあふれそうになる。唾液がこぼれないよう、また吸いついても、すぐにいっぱいになるから慌てた。少し自分で考えてみて、こくん、と飲み込んでみる。ふわぁっと胸が熱くなる。

 それからはもう、吸いつかれて、吸いつくのが、熱すぎて。これはすごく恥ずかしいことだと、今更気づいても止められない。ふうふう息をしながら、夢中で吸いつく。すると、同じだけ応えてくれるばかりか、くるりと舌がまわる。あぁ、絡めても、いいのか。

「ん、ん……は、……ぅ、あ……」
「ふ……気にいった? ん、これ、すごいね……」

 気づけば俺は、隙間なく体を密着させて、イヴァンが離れていかないよう、ぎゅうぎゅうと抱きしめていた。もつれるように、舌を絡めあった。これ以上は本当にあふれてしまうと感じるところまで、二人とも夢中になって。ぎりぎりのところで、苦労して離す。

「……ギルくん、すべすべ、きれい」

 頬を撫でさすりながら、イヴァンが言う。顔は熱に浮かれているのに、不思議と静かな声だった。俺はまだ、呼吸が乱れている。ぼうっとして、仕草の一つ一つにまで見入っていた。大きな手が頬を撫でると、指先が耳にまで届き、びくっと震えてしまう。怯えた素振りを見せたら、心配させるんじゃないかと焦ったが、イヴァンは平気な目をして、あまったるく俺を見つめる。

「お前、ほんとに……はじめて、だったか?」
「うん、どうして? すごい、どきどきした」
「まだ……あるよな、はじめての、こと」
「……えっ、それって」

 もっと余裕のないところが見たい。お前も初めてだって実感できるような、特別なことがしたい。

「そういう、意味かな……いいの?」
「だ、から、訊くなって……!」

 今まで何度も繰り返したやり取りを、また重ねながら。結局俺は、こうやってちゃんと確認をしないと、俺に近づくことのできない甘ったれに、どうしようもなく惹かれている。

「夢みたいだなぁ……」
「そんなに、か」
「うん、ほんとに夢にも見ちゃったことある」
「……ばか」

 恥ずかしそうに微笑みながら、ひとつひとつを、確かにしていって。時々、妙に落ち着いた顔を見せて、驚かせるけれど。俺の知らないことをする時だって、ばかみたいに丁寧だ。
 そういうイヴァンじゃないと、もどかしいくらい丁寧じゃないと、人肌に慣れていない俺には、大事にされていると感じられないのかもしれない。

 泣き虫くらいが丁度いい、俺が世話を焼けるところがあった方がいい。そうじゃないと、大事にしてやることが出来ない。

 やっぱり自分勝手だとあきれるが、もう苦しくなかった。好きな理由も、好かれる理由も、それぞれの瞳で見つけて、欲しがってもいいのだと思った。

* * *