06
* * *

 薄く、膜が張るように、夜がやってくる。夏の夜は、ベールのような薄暗さを、一枚、二枚と重ねていって、闇を深くしていく。何重にも折り重なったベールに、ぽちぽちと星飾りが点くころ、あたりは真っ暗になった。

 ホテルの廊下に並んだ灯り、照明は必要最低限の明るさで、蝋燭くらいのか弱さだ。黒い床がどこまでも続くかに思えても、灯りの下だけ、深いえんじ色の絨毯が見えた。頼りない光源をたよりに、しっとりした絨毯に足を乗せ、俺は廊下を行く。

 目当ての部屋にたどりつき、扉を叩くかどうか迷って、ためしにドアノブに手をかけてみた。鍵はかかっておらず、すんなりと開く。

「……本当に、寝てやがる」

 枕に深く顔をあずけて、イヴァンは寝息をたてていた。足音をたてないよう、ベッドの隣まで移動する。寝返りをうち、顔がこちらを向いた。月明かりに照らされた容貌が、一瞬だけ、まぶしく見えた。

 白く、透き通ってしまいそうな顔だ。輪郭の内側にあるパーツは、どんどん深く、男性らしく引き締まっていくように見える。それなのに、お前の顔立ちをつくる、優しさは変わらない。その雰囲気はどこからくるのだろう。あまえるように柔らかい、肌だろうか。寂しさをはらんだ、長い睫毛だろうか。

「……イヴァン」

 頬に、触れてみたくて、手をのばしかけた。とどく直前に、くっと胸が締めつけられる。お前が目を覚ましてしまったら、なんて言えばいい。そんなことで戸惑って、宙に浮いた手が、ばかみたいに稚拙だ。

 俺は額に手をあて、よろめいた。寝室に月明かりを広げている、大きな窓にもたれかかる。晴れた昼間であれば、外がよく見渡せるのだろう、一脚だけ置いてあった椅子に腰掛ける。

 ポケットに手を入れ、端末を取り出す。なんとなく行き詰まった空気に、風を通したいと思った。

「……ルッツか? あぁ、俺だ。用事はねぇけど、久しぶりに声でも聞こうかと、」

 イヴァンがそう簡単に起きないことは知っているが、できるだけ声をひそめて話す。

 窓の外は、街の方角がほのかに光っているのみで、他は暗がりに沈んでいる。さすが、田舎だ。暗闇のなかに連なっているはずの、山の稜線に見当をつけ、窓ガラスを指でなぞった。

「……はぁ? 気味悪いとか言うんじゃねぇ、お兄様に向かって、なんつーことを」

 電話口の弟は、最近やっと声変わりをむかえて、今まで以上にしっかりとした印象だ。

「元気か? ……ん、……そう、俺は旅行中だ。ルッツも、来年はこっちに来ないか、俺から頼んでみる……はは、相変わらず真面目だなぁ。……そうだな、俺も、おなじ気持ちだ」

 もう、ずいぶん会っていない。声を聞けば、顔も見たくなるのは分かっていた。それでも、文字だけでは伝えられないことがある。

「あぁ、いつでも、お前の幸せを祈ってる。うん……それじゃ、……え? 本当に用事はねぇんだよ。おま、何か悪いもんでも食ったかだと?! ばかにすんな……くそ、生意気に育ちやがって。……だめだ、俺には似るな、お前はそのまんまでいろ……あっ、」
「……だれと、話してる、の?」

 不意に手を取られ、振り返る。イヴァンが眠そうに目をこすり、ベッドから片手を伸ばしていた。ついつい、話す声を大きくしてしまっていたらしい。

「ん、なんでもない……もう切るぞ、元気でな」

 端末をしまって、ベッドへ向き直った。眠りを妨げられたせいか、眉を寄せている。懸命に目を開けようとするが、どうしても閉じてしまうといった様子で、ぱちり、ぱちりと、間隔の長いまばたきをした。相変わらず寝起きが悪い、また寝ぼけている。

「ギルくん……手、繋いで、いい?」
「もう、繋いでるだろ」

 一日分の隙間を、手のひらのあたたかさが埋める。それっぽっちで許してしまう甘さが、自分の気持ちを知らしめる。朝からずっと気まずく過ごして、不安だった。

「こっち、来て……」
「分かった……わっ、おい、」

 もっと近づけという願いかと思えば、予想外の強さで腕を引かれた。とっさにシーツに手をついたが、半身がイヴァンに覆い被さる。

「さわっても、いい……?」

 顔が近い、頬が火照る。俺が答える前から、もう、熱くなった頬を、指先でなぞってくる。

「……い、いちいち訊くな、勝手にしろ……、お前にだけだ……お前に、だけ……」

 お前にだけ、触らせてやってもいい、そう思っているのに、伝えられない。もう近すぎるくらい近い、けれど、もっと側で顔が見たい。

 満足に目も開いていない相手に言うのは嫌だし、胸の内がうるさすぎて、かえって言葉にならなかった。眉を寄せれば、白い指先にそれを撫でられる。

「ぼくのこと、見て」
「……見てる、だろ、お前だけ」
「もっと、近くで」

 寝ぼけているイヴァンは、いったいどんな夢を見ていたのか、壊れものでも扱うように、繊細な触れ方をしてくる。俺なんかを相手に、どうしてだ。舞台上の王子役でも、ここまで丁重には、相手を引き寄せないだろう。とんだ寂しがりやの王子には違いないが、俺の心臓を鷲掴みにするには、十分だった。

 とろんとした瞳が、まばたき、完全に閉じてしまった。心臓が痛い。白くまばゆい顔のなか、すう、と寝息を吐く、その一点だけを見つめてしまう。せっかく、近づいたのに。

「…………キス、しねぇの?」

 こらえきれず、期待をにじませた言葉が、イヴァンの目を開けさせた。

 次の瞬間、完全に覚めたイヴァンは、激しく動揺して、俺の肩を押した。口元をはくはく動かし、慌ただしく起き上がる。

「ぼ、く……いま……? ご、ごめん」

 顔が青ざめている。どうして謝るのか、俺の思考が追いつかないうちに立ち上がると、黙って部屋から出て行こうとする。

「待てよ……待て、って!」

 追いかけて、腕をつかんだ。イヴァンの体がふらっと揺れて、俺を見ている。苦しそうな表情に、腹が立った。

「……ごめん、って、なんだ。朝から何なんだよ、お前は! 言わなきゃ分かんねぇよ、俺だって」
「だ、めだ」
「だから、何が、」
「……離して……あぁ、姉さんに、連絡しなきゃ」

 すっと冷めた声を出したイヴァンに、俺は目を瞠った。言い訳だと分かっているのに、頭がぐらついて、そこから動けなくなり、イヴァンを凝視する。すると、嫌がるように目を反らされた。――それは、俺にとって、一番許せない反応だった。

 俺から、目を反らすなんて。ぐわっと沸いた怒りが、熱く体を焦がし、喉を焼く。

「……避けてんじゃねえよ……」
「さけてない、よ」

 怒りの勢いとは裏腹に、声は低く震えてしまった。頑なに目を反らし続けるのが我慢ならず、思わず手を振り上げれば、考えるよりも先に体が動いて、瞬発的に振り下ろそうとする。――違う、傷つけたくない。

 そこでいきなり、意識と体が、がくんとズレた。イヴァンは驚いた目をして固まっている。
 不用意に上げてしまった手が、わなわなと震える手の意味が、分からなくなる。

 心と、体とが、ばらばらになった。この手を、どこに収めればいい。どこにも行けないなら、自分に向かうしかない、そうする他にはどうしようもない。仕方なく俺は、自分の頭を殴りつけた。一度だけでなく、二度、三度、ゆさぶるように自分を殴りつける。

「……っ、やめて!」
「……いてぇ」

 今度は俺が、目を反らしてしまった。うつむき、自分の肩に爪をたてる。

「……言いたいことがあるなら言えって、いつになったら分かるんだよ。どうでもいいことなら、表に出すな。俺に見せるな、苦しくさせるなよ! ……違うな、俺が勝手に、お前を見てたのか」

 ぞっとするほど冷たいところに、自分のうつろな声がこだました。急激に冷めていくのは、怒りに沸いた頭か、締めつけられた胸か。おそらく、その両方だ。顔が上げられない。今、この気持ちを無視されたら、きっと俺は立ち直れない。

 ――ひとりに、早くひとり≠ノ、ならなければ。

「帰、る……」
「どこに、」
「知らねぇよ、ついてくるな」

 ふらふらとイヴァンの隣を抜けて、誰もいない廊下に出た。扉の閉まる音が大きく響く。ただ一人になりたい一心で、夢中で廊下を進み、ラウンジも通り過ぎて、夜空の下に立った。

 星が、一つもない。何も考えず、空を見上げたまま歩いていると、いつの間にか、ひまわり畑に迷いこんでいた。空には雲がたちこめて、しめった風に吹かれ、遠雷が聞こえる。雨が降り出しそうだ、俺は、どこに帰ればいいのだろう。

 ざぁっと、全身に、夜の闇を浴びる。不安を振り切るために、俺は走りだした。足許の悪い道で、もつれそうになりながら。わきだす感情はどこまでも付いてきて、振り払えない。

 どうしてお前の気持ちが、いつも、手にとるように分かってしまうのか。どうして、お前の気持ちが分からなくなっただけで、こんなにも取り乱すのか。――どうしてお前のことだけ、どうして。

 雷が頭上で轟き、耳を押さえて立ちすくんだ。すぐ近くで鳴った気がしたが、雨は降ってこない。ぼたぼたと自分の汗だけこぼれて、呼吸が荒くなる。

 さっきの出来事を思い返す。始末に負えないのは、イヴァンの口から姉さん≠ニいう言葉が出て、それにもショックを受けたことだ。俺のことだけ考えてほしかった、なんて、みっともなさすぎて、誰もいないのに顔を覆う。

 俺はどうして、俺とお前は似ているなんて、思っていたのか。そう思いたかっただけで、全然違うのかもしれない。勝手に、俺の空白を重ね合わせようとしたから、お前に拒まれたのか。

 呼吸がみじかく、苦しくなった。大変な勘違いをしていたのかと思った瞬間、自分だけが孤独なのだと、そんな悲観が空から降ってくるように思えて。押しつぶされそうなくらい苦しくて、それなのに、つぶれる場所もないほど、体はがらんどうになった。

 俺の内側は空っぽだ、誰もいない。あるのは椅子が一つきり。親父と初めて出会ったあの日、夕陽のなかで座った椅子に、俺はまだずっと座っている気がする。
 親父とのことは、誰にも話したことがなかった。イヴァン、ここで初めて明かした、お前にだけだ、それなのに。

 ぐちゃぐちゃになった思考が、目蓋の裏側を熱くしたとき、強い力で肩をつかまれた。振り向かせられ、目を見開いたところに、イヴァンの姿がとびこんでくる。

「イヴァン……、」
「……っ、き、だか、ら」

 息をきらせて、整うのを待とうともせず、何かを言おうとしている。どれだけ急いで来たのだろう、頭から水をかぶったのかと見間違うほど、汗に濡れて。からからに乾いた喉から、苦しげな声を出す。

「なん、だよ」

 そんなに必死になるほどの価値が、俺にあるのかと、勘違いしそうになる。もう、やめてほしい。振り回されたくない。

「……好き、だから、言いたいことも、言えないんだ」

 俺から手を離し、喉をおさえた。大きく咳きこんだ姿を見て、異変に気がつく。まずい、こいつ、ストールをしてない、息ができないはずだ。

「……ばか! どこに置いてきたんだよ、早く戻って、」
「君にだけは、嫌われたくないんだ!」
「っ、……どう、して」

 俺の心配を遮った、聞いたこともないほど大きな声に、膝が震えた。イヴァンは、すっと息を吸い、心を決めたようだ。背筋を真っ直ぐに、俺と向き合う。

「君にだけは、嫌われたくないのに。ごめん、見てると、触りたくなるから、まっすぐ君を見れなくて……でも、もう逃げたりしない」
「さ、さわりたい、って」
「……昨日、きもちわるい、って、言ったから」
「え、……?」

 真っ直ぐな強い瞳が、強さを揺らがせないまま、熱にうるんだ。どれだけ本気で想っているのか、視線に滲んでいる。そんな視線が、ずきずきと刺さる。

「きもちわるい、って……言ったのは、ただの熱中症だろ、そういう意味じゃ、」
「そうだけど、でも、次は本当に、気持ち悪いって思うかもしれないよ」
「なんで、そんなことな、」

 またもや俺の言葉を遮り、眉をしかめて首を振る。

「だって、僕、君と……キスだけじゃ足りないんだ」
「……な、っ」

 呼吸が、止まるかと思った。あまりの衝撃に、体が何も言うことをきかない。イヴァンは少しも勢いをゆるめず、さらに想いをぶつけてくる。

「もっといろんなこと、その先のことも、想像してたから、この夏も、君のことばっかり考えて、浮かれてて……昨日、急に気づいたんだ……もし気持ち悪いって思われたら、どうしようかなんて、僕は少しも考えてなかった」

 赤い顔で、ごめんと謝られても、俺はもう冷静でいられない。身動きもできないまま、かぁっと熱くなった。体中が、真っ赤に染まるんじゃないかと思うくらい。

「な、ンだそれ……」
「ごめん、僕ばっかり、期待して……駄目だって思っても、どうしても触りたくて……好きだと、何もかも上手くいかないんだ……でも、もし君が嫌ならしない、我慢するから」

 心臓が爆発しそうなくらい、速く打っている。もうこの口を塞がないと、イヴァンにどうにかされてしまう。触るだなんだの前に、この胸の苦しさで、どうにかなってしまいそうだ。

「ギルくん? わっ、熱い、大丈夫?」

 自分を奮い立たせて、イヴァンの手をにぎった。今まで真剣すぎて、俺の変化に気づいていなかったのだろう。手の熱さに驚き、顔をのぞきこんでくる。

「……お、おれ……も、お前のことばっか、いっぱい……考えて、た」
「え」
「俺、嫌じゃない、俺も、期待してた……あの日のこと、思い出しちまって……」

 告白された日、初めてキスをしたことを、いつも思い出しては、どきどきしていた。消え入りそうな声で、なんとか伝える。
 今度は、イヴァンが真っ赤になる番だった。