****
【HELLO? こぼれ話T】

「ギルくん、ちょっと、こっちに来てくれない?」
「なんでだよ」
「ネクタイするから」
「あ、今日は出版社か」
「うん」

 ネクタイを締める時には、当たり前だが、一度ストールを外さなければならない。その間はギルベルトに首を触っていてもらうというのが、イヴァンの習慣だった。

「……締め方、ばか丁寧だな」
「うん、僕、不器用だから」
「俺がやった方が早い」

 遅刻寸前だった時など、何度かギルベルトに結んでもらったこともある。

「駄目だよ、自分で覚えないと」

 イヴァンは真面目な気持ちで言っているのだが、実際のところ、ギルベルトにはどちらでも良いのだろう。どちらにせよ、こうして肌に触れることになる。

「……首、太いな」
「ふ、太ってないもん、いつも言ってるけど骨太だから……」
「いや、がっしりした」
「……いつと比べてるの?」
「あの夏」
「え?」

 頚の骨、男性らしく隆起したそれを、肌の上からたしかめるように。何かを測るような、神妙な手つきで触る。
 目の前のことに集中しすぎていると、言動が曖昧になるのは、ギルベルトの癖だ。

「初めて別荘に行った年の」
「……もしかして、初めてハグした時、って言いたいの……?」
「…………あっ」

 ようやく我に返ったように、首元から手を離した。
 ギルベルトの手が離れても、イヴァンの息が止まることはない。近頃はすっかり良くなっていて、もうじきに治ってしまうのだろうと、二人とも分かっていた。今はただ、治りかけの病に、不思議と、名残り惜しむような気持ちがわくだけだ。

「覚えてるんだ?」
「ち、違う! いつも、思い出すんだよ、忘れたら、」
「忘れたら?」
「いけないと、思っ……て……」

 覚えてる、と、思い出す――どれほどの違いがあるのか、言葉を生業とするイヴァンにも分からない。忘れたくない≠ヘどういう意味なのだろう、と、彼の声に耳をすます。

「当たり前だけど、変わっていくだろ、生きてれば……だから、」

 あの夏の肌も、今の肌も、どちらも忘れたくないから。

「思い返すんだ、忘れないように」

 比較して、自分の指の感覚を――覚えて、刻みつけたい。ギルベルトは、そう言いたいようだ。

「いつも、こうしてる時、僕のこと覚えようとしてくれてるの?」
「……ネクタイ巻けたな、もういいだろ」
「…………ギルくん、行きたくなくなっちゃった」

 なんて可愛いことを言うのだろう。
 久しぶりに、胸が苦しくなるような感覚を覚えて、イヴァンは離れようとするギルベルトの手をひいた。

「ばか、行け」
「装丁の打ち合わせなんて、僕が居なくてもいいよ」
「俺だってこれから大学なんだよ!」
「……行きたくない」

 大事な思い出も。こんな、たあいない、毎日のことも。全て残らず、抱えていこうとするんだね。
 一生懸命、その手に抱えて――ギルくん、可愛い手にいっぱい持って、どこに行くの?

「……今ハグするのはずるいぞ……反則だ」
「触って、首に……そう、ぼくに、触ってて、」
「ン」

 現実はどうしても、言葉にできないことが多すぎる。誰のものさしで測れるだろう。指先ひとつに託すほうが、正解かもしれない。

 イヴァンはキスをする間、目を閉じたまま、利口な恋人の頭を撫でていた。



* * *



【HELLO? こぼれ話U】

「兄さん、お迎えに参りました」
「ナターリヤ、傘をもってきてくれたの?」
「はい」
「ありがとう……でも、ギルくんもいるんだ」

 遅れて改札を出てきたギルベルトが、ナターリヤの姿に気づき、軟派な声をかける。

「よっ、今日も美人だな」
「……またお前か」
「あぁ、二本あるね。ギルくん、ひとつ使って。ナタは僕と一緒でいいよね?」
「……いえ、兄さんが一本使ってください。おい、そこの白いやつ、私に傘をさせ」
「ん? 俺と相合傘でいいのかよ」
「兄さんが濡れるだろう、狭い思いをさせた上に、風邪をひかせる訳にはいかない」
「お、大げさだねぇ」
「ひゅ〜、そういうとこ好きだぜ」
「黙れ、うるさい。兄さん、行きましょう、姉さんが待ってます」

 公園にさしかかり、通り抜ける道を選んだ。景色は雨に白んでいる。
 ひとつの傘をわけあう二人は、先を歩くイヴァンを見つめた。

「あいつの傘の持ち方、面白いよな。子どもみてぇ」

 傘の柄を肩にのせて、たまにくるくると回す様子を指さす。
 ナターリヤの人形のように整った顔に、わずかだが薔薇のような血色が浮かぶ。

「兄さんはいつでも愛らしい」
「あいつ、風邪気味だろ、本人は隠してるつもりだろうけど……どうしようかと思ってたとこだ。助かった」
「お前に礼を言われる筋合いはない」
「あの傘、お前が選んだのか? ……良いな」

 この妹のことが、ギルベルトは心底気に入っている。もう少し仲良くなれないものかと思案しつつ、反応が面白いので、ついつい、からかってしまうのが常だった。

「ほら、妹が迎えに来てくれて、妹の選んだ傘で、すげぇご機嫌なイヴァン、可愛い」

 だがこの時は、純粋に機嫌をとろうと、言葉をかけたのに――そう上手くはいかないものだ。

「……あれは姉さんが選んだ傘だ」
「ぷっ」

 悔しいのか何なのか、ぶすっとした顔で言うものだから、思わず吹き出してしまう。

「笑うな!」
「怒るなって。ちゃんとこっち入れよ、濡れる」

 彼女を濡らさないよう、自然に手をひくギルベルトは、もうとっくに自分の肩を濡らしている。
 その時、ふと二人を振り返ったイヴァンが、わっと嬉しそうな声を上げた。

「すごい! 写真とりたい」

 やっぱり絵になる二人だね、綺麗だね! ――そう言ってはしゃぐ兄に、妹の表情は複雑だ。

「こいつとツーショットなんて、撮らないでください」
「どうして? 雨で、空気がさえてて……あぁ、傘って素敵だ、とっても良いね、幸せな気持ちになっちゃう」
  
 にっこり無邪気に笑うイヴァンは、とにかく二人が自慢なのだった。
 恋人と妹、美男美女であることは言うまでもない。それに加えて、内面の生真面目さがどこか似通っているのだと、イヴァンは言う。二人が並んでいるところを見ると、決まって「幸せな気持ちになるから」と、慣れないカメラで遊びだす。

「イヴァン、はしゃいで傘落とすなよ、って……あーあ、落とした」

 ――帰宅してからのこと。留守番をしていた姉は、弟の撮った写真を見て、明るい笑い声を上げた。

「傘があるのに、濡れて帰ってくるなんて、何して遊んでたのかしら? ……ふふ、三人とも、子どもね」

 食卓には花が飾られている。弟たちがシャワーから戻れば、すぐに夕食にできるよう、準備は万端だ。
 窓の外、雨はもう上がっていた。



* * *



【HELLO? こぼれ話V】

「あらあら、帽子もかぶらないで遊んでたの?」

 姉さんはそう言って、自分の麦わら帽子を僕にかぶせてくれた。大きくて、太陽の匂いがするそれは、ひまわりの飾り付きだ。

「ずりぃ、俺には?」
「ギルちゃんは私の日傘に入る? ほら」

 夏期休暇もあと数日、何かの遅れを取り戻すかのように、僕らは目一杯ともに遊んだ。寝ている時以外は、四六時中、一緒だった。
 この夏に新調したばかりの、姉さんの白いサマードレスが、今日は海辺の風景を彩っている。

「あ、ぼくもそっちがいい!」
「だめだめ、定員オーバーだ」
「え〜……いいなぁ」
「傘、俺が持つぜ」
「あら、ありがとう。イヴァンちゃん、早く行きましょ、アイスが溶けちゃうわ」
「うん」

 姉さん、ギルくん――異なる大きさの足跡が続く。さくさくと砂浜を歩いていく。
 姉の優しさを、いっとき彼に譲ってあげることは、それほど悪い気分じゃなかった。

「……姉さん、ストールが砂でよごれちゃった」

 だけど、僕は少しだけ、わがままの言い方を覚えたみたいだ。

「あとで洗って?」
「自分でしろよ!」
「ふふ、いいわよそれくらい」
「なぁなぁアイスなに買ったんだ?」
「イヴァンちゃん耳をかして」

 おいで、と手招きされ、なぜか僕だけに囁かれた。姉さんの声も、きらきらと夏に弾んでいる。

「どっちがいいかしら」
「わぁっ、ギルくん半分こしよ」
「え? ……いいけど、何なのか俺にも教えろよ!」

 僕は、二人に甘えすぎているかな。だって砂浜が眩しくて、目を細めても、白くて仕方ないんだ。
 その白は、まるで、幸せの見本のような色で。











Fin.






Thanks BGM♪
《悲しみはオーロラに(Restarred by Takagi Masakatsu)》Aimer




初出 2016.夏頃? twitterにて
2017.6/24 加筆修正