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なんだか今夜は、回想にふけってしまう夜らしい。もう何度も観た映画のせいだろうか。画面の中では、ちらちらと、初雪のひとひらが降りてきたところだ。
僕達が初めて触れあったのも、こんな風に、体よりも目が寒さを感じるような、さみしい季節のことだった。
その日、僕は珍しく夜更かしをして、居間で詩集をめくっていた。めくるのに丁度良かっただけで、読みたかったわけでもない。もうすっかり自分の気持ちを自覚して、それでも伝える気なんてまったく起こらず、扱いに困っていたことは事実だ。
「なんだ、お前も起きてたのか……俺も紅茶、もらうぞ」
「ギルくん? ……カフェイン摂ったら眠れなくなるよ」
「それは、お互い様だろ。眠れないなら話そうぜ」
彼は唇を歪めるように笑い、本棚からは少し離れたソファに座った。それなりに同居にも慣れてきていたし、こういう微妙な距離を維持することには、もともと二人とも長けているみたいだ。
普段の彼は余計なことを言わないし、僕もあまりお喋りは得意じゃない。沈黙を気まずく思うような、育ち方もしていない。そういえば、沈黙だけが、僕達の共通項のようでもあった。
しかしこの日、彼は珍しく饒舌で、とりとめもなく続いていた学校の話題をきりあげ、前触れもなく自分の夢を語りだした。
「……俺さ、医者になりたいんだ」
どういうことかと首を傾げつつも、僕は、『知ってる』と答えるしかない。
「姉さんから聞いたよ」
「お前は、なんかあるのかよ、将来のこと」
「うーん、夢は、特にないなぁ……家族がずっと幸せでいてくれればいいなって、当たり前かな」
「なんだそれ、分かんねぇ」
思ったことを真っ直ぐに言う人だ、言い方は厳しくても、嘘がないからありがたい。僕はそういうものを、上手く見抜けないから。
「……僕は、意思が弱いのかな。ギルくんには軽蔑されるかもしれないけど」
「そんなんじゃない。なんで……なんだろ……お前は、」
何かを言いかけて、彼はすっと目を細め、イヴァンと、わざわざ僕の名を呼び直した。
実はこれが、それまで何ヶ月も一緒に過ごしてきて、初めて、彼が、僕の名を呼んだ瞬間だった。
「イヴァン……お前は、何でも出来るだろ、頭も悪かないし、望めばなんだって……それなのに、どうしてだよ」
「ん? 僕は今のままで、もう幸せだよ」
「俺……なんか……お前のことが分かる気がすんだ、自分で言ってても気持ち悪いけど……なんだ、これ……」
良かった、僕はそんなに嫌われてはいないらしい。
彼が真剣に何かを語ろうとしている時に、僕はまだ、そんなことで安心したりして、心が完全に他所を向いていた。
「…………なんだこれ……ほんとに、頭にくるな……」
「……えっ、ギルくん」
かすかに声が震えて、雫のような影が、床に落ちた気がして慌てる。見間違いかもしれない、部屋が薄暗くて分からない。彼はうつむいてしまい、僕の方を決して見ようとはせず、急激に空気が変わっていく。
「……なんで、俺に言わせようとするんだよ、自分でも分かってるだろ? お前、本当に薄気味悪いんだよ、大人みたいな顔で諦めんな……さみしいんだろ? まわりにもっとワガママ言え、さみしい、って、自分で言えよ!」
自分のためにしか生きないと、どんなことにも揺るがない彼が、どうして僕なんかを気にするのだろう。しかも、言っていることが支離滅裂だ、まるでめちゃくちゃだ。
「どうして? 僕、君に何か悪いことしてたの? ……どうしてそんなに、悲しそうなの」
「嘘つき、分かってるくせに。自分のことは後回しかよ……俺が言わなきゃ、お前は……誰に……」
それきり、彼は黙り込んでしまう。
僕は、彼が口にした内容にはまったく追いつけず、それでもなんとなく理解した。僕は知らず知らずのうちに、彼に何かを期待してしまったのだろう、彼は優しいから苦しんでいる。僕は甘ったれだから、こんなに優しい彼に、いつの間にか全てを押しつけてしまった。
とっくに見抜かれていたのかもしれない、伝えるつもりのなかった気持ちを。
「……ごめんね、ギルくん」
そっと近づいて、ソファの前に膝をついた。手を伸ばすこともできず、それでもありったけの、ひたむきさを持って、彼を見つめる。
マフラーをしていても息が苦しかった。体の上に何かが、見えない雪のようなものが降り積もって、どこにも行けなくなりそうで。もしも何かを間違えれば、もう二度と、立ち上がれなくなりそうだ。
「勝手に好きになって……ごめんね……ギルくん……」
何に謝ればいいのか、本当は分かっていないのに。
どうしてだろう、こんなに真剣な恋は初めてなんだ、誰に対してもやましい気持ちなんか無いのに、どうして告白が、こんなにも、悲しみに沈んでしまうのだろう。
「なん、で、だ……」
彼の、声にならない吐息のようなものが、その場にさらに重たく降り積もった。
勇気を出して告げた言葉が、またしても彼を傷つけたようで、どうすればいいのかまったく分からなくなる。目を閉じそうになった時に、さ迷うように震えている、白い手に気がついた。
「……お、俺も……勝手に……ココ≠ェ、勝手に……」
彼は苦労して、自分の胸を指し示した、それは心臓をかきむしるような強さになり、服にぎゅっとシワをつくる。
「……ココが勝手に、お前のこと……だめだ、俺……言えない、変われない……」
僕の胸まで、締めつけられる光景だった。
自分のためだけに、誰にも頼らず、寄りかからずに生きる。そんなものは、絵空事、愚かな夢なのだろうか。全ての人間にそれができたら、どれだけの平穏が訪れるだろうと、僕も心から願うのに。
故人の写真に語りかけていた、彼の、あの凛とした声を思い出していた。ひどく幸せそうで、僕を切なくさせる声。
あの時、この声を聴くためだけに、自分は今ここにいるのだと、遠いどこかで感じていた気がする。
「ほんと、くだらねぇ……俺って……」
「違う! 待って、僕が、ちゃんと言うから……」
震えは隠しようがないくらい、目の前にある腕を埋めていく。彼が寒そうに見えたから、苦しそうなその手に、気づけばそっと触れていた。体の芯まで冷えそうな、青白い手だった。
互いの両手をひとつにまとめると、祈るような姿になる。のぞきこんだ瞳に自分の顔が映っていて、たまらない気持ちになった。
「もし、僕の気持ちが分かるなら、一瞬でも『分かる』と思ってくれたのなら……嬉しい、僕はもう、何もいらないよ……だから、もう一度だけ、僕の名前を呼んで」
「……っ…………イヴァン」
僕のせいで傷ついて、ぼろぼろと泣いてくれる人がいる。自分だって、崖っぷちに立っているような顔をしてるのに。
僕は、この声を聴くためだけに、今ここにいる。
この人の孤独に出会うために、僕は生まれてきたのだと思った。
「……イヴァン……おれ、は……」
「ギルくん、ありがとう」
本当はきっと、誰に対しても、謝らなきゃいけないことなんてないんだ。自然と唇に残ったのは、感謝の言葉だけだった。
不幸な出会いだったのかもしれない、さみしい子ども同士が、惹かれあっているだけかもしれない。
「ありがとう……」
それでも、僕は幸せだ。
彼の冷たい手を必死でこすって、あたたかく息を吐いて、手の甲に口づけた。両方の手に、何度もそれを繰り返した。じんわりと灯った温もりが、埋められない距離を探して、まだ迷っている。
「……君が好きだ」
「イヴァン、わかったから、もう……言うな……恥ずかしくって、倒れそうだ」
二人で顔を見合わせて、ぎこちなく笑った。あたたまった指を、ゆっくり絡めあうと、指も行き場が出来たことで、やっと安心したようで。手に触れる時よりも、そうっと重ねた唇は、涙でしょっぱい味がした。
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