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 ◇ 花が咲いたら ◇



 ○.
 
 俺が巣穴から外へ出たとき、太陽はすでに昇っていた。眠りに就くころには、びゅうびゅうと嵐のうなりが聞こえていたのに、今朝はよく晴れている。

「あぁぁ、長いなぁ……」

 巣穴の入口は、雪をぽんぽんと覆って隠す、もう手慣れた朝の仕事だ。澄んだ空気のなか、手の冷たさがこたえて、思わず声が出てしまった。

 長い長い冬の終わりが、いつ来るのか、俺にはまだ見当がつかない。

 初めて会話をしたあの日から、月とは毎夜のように話をした。あの日を最後に、イヴァンの巣穴には一度も行っていない。月の出ない、眠れない夜には、星を眺めて過ごした。

 月日はゆっくりと、しかし確実に流れている。木々がまとっていた雪は消えて、森の景色は一日ごとに変化した。日の光が当たり、枝は芽吹く力を一心に集め、その瞬間を、今か今かと待っている。

 冬の終わりが、もうそこまで見えたかと思えば、また思い出したように雪が降り、寒さは毅然として居座りつづけている。

 俺は変に期待をするでもなく、かといって寒さにくじけることもなく、いつかくる日を淡々と待っていた。

 陽の光に融けた雪が、夜のうちに凍結する、それを繰り返した地面は硬い。足を滑らせないように注意しながら、巣穴の周りを見回ることにした。

 肌に触れる空気は、鋭く尖っている。でも、昨日と変わらず冷たい風が、今日はなんだか気まぐれだ。俺の前髪をふわりと揺らしながら、定まらない方向へ飛んでいく。

 風がやんでから、ふと隣を見ると、一枚の葉のなかにわずかな水がたまっていた。
 この茂みは、冬でもずっと緑のままだったな。そう思いながら、そっと覗きこんでみる。葉の上にこんもりと積もっていた雪が朝陽に融けて、こんなにあどけない水たまりになった。

 凍りついた川の静けさとは違う、なんだか表情のある静けさだ。俺は息を止めながら顔を近づけ、その水を口に含んだ。
 景色や風だけではなく、自分のなかで何かが変わっていく。沁みわたっていく水が、体のなかで何かを叫んでいる。――なぜだろう、今、叫びだしたくなるくらい自由だ。

 なんだか足が勝手に走りだしそうな気がして、ざわざわする気持ちを落ち着かせようと、ゆっくり伸びをしてみる。うんと高く手を上げた、その時だ。

 巣穴のすぐ近くに、色がぽつんと置いてあるのが、目に飛びこんできた。まるで誰かの忘れもののように見えたそれを、注意深く眺める。決して雪の白さに溶けださない色が、ぽつんとひとつだけ咲いている。

 俺は慌てて巣穴まで駆け戻った。入口に雪をかぶせる時に、どうして気がつかなかったのだろう。うっかり埋めてしまっても、おかしくないほど、本当にすぐ近くにある。

 胸を上下させながら、とても信じられなくて、何度も周りを歩いて確かめてしまった。

 たった今顔を出したばかりなのだと言わんばかりの、小さくかよわそうな花だった。名前も知らない、色もはっきりとしない、摘むことを戸惑うような花だ。心のなかで謝りながら、そうっと手折る。

 花だ、花が咲いた。

「えっ……?」

 辺りにはまだ雪が残っている、風だって冷たい。だけど、俺の手のなかには摘んだばかりの花がある。
 待ち望んでいたはずなのに、思いがけない瞬間にそれを手にしてしまって、俺はあたふたとその場を歩きまわった。

「いいのか? ……いいんだよな?」

 あぁ、どうしよう、もう耳が勝手に立っていく。心臓が喜びに跳ねはじめて、俺は、もう何も考えられない。まだ早いのかもしれないけれど、でも、約束だから。

 また気まぐれな風が吹いてきたのを、ぴんと立てた耳の先で感じた瞬間、背中を押されるようにして、俺は走りはじめた。
 手をぎゅっと握りそうになり、慌てて花を口にくわえる。

 よろこんでいいのかな、よろこんでいいのか? もう走りだしてしまったくせに、まだそんなことを考えている。
 実際のところ、嬉しいのかどうか、心の準備なんて有りやしないし、顔は強張ってしまって笑えもしない。

 ただ、胸がきらきらして仕方なかった。心が飛び出して、どこかへ行ってしまいそうだ。どこかって、どこへ? そんなの決まってる。あいつのところへ、心が先に飛んで行ってしまう。

「……っ!」

 俺は、俺の心に置いていかれないよう、全速力で走った。

 もちろん、一気に駆け抜けられるような距離ではない。やっと林を抜けて、南の丘へ一歩踏み出そうというところで、転びそうになって手をついた。

「……はぁっ! さすがに、この速さで丘を登りきるのは……むり、だな」

 茎を口から離して、ぜいぜいと肩で息をする。かわいそうに、花は風に当たったせいで、へしょんと元気を失くしていた。雪の綺麗なところを選び、大事に花を置いてから、俺自身も雪の上へ豪快に寝転ぶ。

 背中は冷たいが、空がとても青くて、どきどきする。息が整うのを待ちきれない。はあはあと胸を上下させているのに、吐息がほとんど白くならないことに驚いた。熱いのは走ったせいだけじゃないのか、太陽も力を取り戻している。

 はやる気持ちを抑えようとして、けれど何かしていたくて、すぐ側に置いた花の方を向いた。
 息をきらせたままでは難しかったが、あどけなく開いた花びらへ、すっと鼻先をつけてみる。しめっていて、柔らかい。花と肌を触れ合わせたまま、目を閉じる。

 俺の体の下から、緑がいっせいに芽吹いていく。そんな光景が広がって、目蓋の裏がきらきらした。森が光に染まっていくのを夢見た。鼻の先から、俺の体も染まっていく。甘い、春の色に。

 勢いよく目を開けたら、呼吸もようやく整っている。

「……行こう!」

 目を閉じる前と変わらず、そこにちゃんと花があったのが嬉しくて、自然と言葉をかけていた。一緒に行こう、と、花に向かって微笑んでから、できるだけ優しくそれを手にする。

 登りはじめたら、驚くほど体が軽い。けわしい道なのに、まったく苦しくない。

 丘をこえて、山野にあるイヴァンの巣穴へと行くつもりだった。まだ雪深い森を抜けるよりも、早く着けるだろう。ここを登りきってしまえば、あとは下り道で加速して、きっと一気に駆けていける。

「もう春だ、もう春だ!」

 思いが勝手に口をついて出てきて、まるで歌のように繰り返してしまう。

 丘のてっぺんを目指しながら、そのまま空まで上ってしまいそうだった。そう、頂上でそれを見るまでは、本当にそんなつもりで走っていた。

「あっ、あれ」

 丘の向こうから誰かがやってくるのが見えて、本能的に身を隠そうとした体が、止まる。あっ、あっ、と震える。

 まだあちこちに雪の残る丘の上を、こちらへゆっくり歩いてくる、若いクマの姿があった。イヴァンだ。
 顔を上向けたまま、ぼんやり歩いている。空を見ているのか、相変わらず何を考えているのか分からない目をして、丸い耳をゆらゆら揺らして、あんな歩き方をするやつはイヴァンしかいない。

「あ……れ……?」

 やっと会えた、やっと抱きつける――それなのに、なんで、俺の足は動かないんだ?

 あれ、あれ、と、ひとりで何度も首をひねりながら。目は片時も離せない。イヴァンが少しずつ近づいてくるのに、俺は、半分だけ笑ったような中途半端な顔で、その場に突っ立っている。

「イヴァ……、」

 名前を呼ぼうとしたら、何かがはじけた。不思議なくらい軽かった体が、ずしんと重くなる。立っていられない。

 今までの切なさや、寂しさがはじけてしまった。へなへなと座りこみながら、俺は自分の頬に、涙の粒がころがり落ちていくのを感じていた。

「……お、おれ……俺……」

 今まで感じないようにしていた、凍えそうな不安や、雪に閉じこめられていく孤独や、長い長い時間のむなしさが、いきなり体に降ってくる。悲しみがあまりにも重く、自分の体は小さすぎて、もう立っていられない。

 ここまで一生懸命走ってきたのに、すぐそこに、寝ぼけた顔したイヴァンがいるのに。

 涙がぽろぽろ落ちるだけで、声も出せなかった。

「……ふ、ぇっ」

 ひく、と喉が鳴って、たまらずに体を小さく折りたたんだ。すぐに膝が濡れていく。

 やっぱり、ひとりの冬なんて、俺の体には大きすぎたんだ。抱えきれるわけがなかった。体が軽かったら、今すぐに駆けていくのに。やっと、会えたのに、この寂しさを吐きだしきらないと、今は動けない。

 とめどなくあふれてくる涙を、自分の体に染みこませながら、耳だけは必死に音をひろっていた。
 目の前まで近づいてきたイヴァンは、顔を上げる事のできない俺を、ひょいっと簡単に抱き上げる。

 その瞬間、嬉しいも悲しいもなくなり、驚きすぎて身がすくむような気持ちで、胸がいっぱいになって、俺はさらに体を小さくした。
 そうして訳もなく、イヴァンの肩を何度もぶった。

「……いたいよ、ギル、どうして叩くの?」

 ふわふわした声が、優しく耳元に寄せられる。ますます涙があふれてくる。

「……ぅ、っ……く……」
「顔を見せてくれないの?」

 ギル、と名前を呼ぶ声は苦しそうだ。呼び返してやりたいけど、まだ顔は見せられない。両手で覆って、遠ざけてしまう。

 ふっ、と寂しく笑う気配がした。右へ、左へ、のんびり顔を傾けて、俺の手に隙間がないか探している。どこにも隙間がないと分かると、顔を隠している手の上を、ぺろ、ぺろ、と何度か舐めて。それから、柔らかく俺を抱きしめた。

「……っ!」

 かたくなに縮こまっていた腕が、ようやく解け、思いっきり抱きつきかえす。ぎゅうぎゅう強く抱きしめていると、イヴァンの体から、ほっと力が抜けていくのが分かった。

「おなかすいたぁ」
「……ばか!!」

 こんな時に、言うことがそれか。俺の気も知らないで。

「ギル、笑って……うそ、泣いてもいいよ、泣いてる顔もきれいだから」
「え……?」

 思わず手の力を緩め、顔を上げると、イヴァンは嬉しそうに俺の涙に吸いついた。柔らかく舐めとり、ちゅ、と味わう。両目とも、美味しそうに舐めて笑うから、俺はくすぐったくて目を細める。

「これ、僕の知らない匂いがする。僕の知らない、冬の味だね。ギル、雪でも食べてたの?」
「た、食べてない」
「本当に?」
「……ちょっとだけ、」
「やっぱり、雪の味がすると思った……冬のこと、もっと知りたいな、もっと教えて」

 雪に匂いなんてあるのだろうか。そういえば、朝起きてすぐに雪融け水を飲んだけれど、そんな、まさか。

 俺がぽかんと口を開けていたら、イヴァンはゆっくりと顔を近づけた。そうしてまた嬉しそうに、今度は俺の舌に吸いつく。
 ぽてっとしたイヴァンの舌が入ってきて、とろりとろりと味わっていた。

 離れていた時間のことを知るために、口のなかを確かめるなんて、なんだか変なことをするんだな。そう思いながらも、どこか一生懸命な様子なので、任せることにする。

「ん……んっ」

 頭がぼうっとして、体があたたかくなった。あったかくて安心したら、また涙が出そうだ。腕にきゅっと力が入る。

 イヴァンの顔も、周りの景色も、淡い光にふちどられている。木々は風に吹かれるたび、まとった光をふりまいた。俺の瞳が濡れているから、そう見えるのだろう。

 気づいたイヴァンが、再び涙を舐めとってくれるまで、俺はもやで霞んだ視界にぼうっと見入っていた。 

「冬の間、大変だったんだね」
「……わからないだろ、なにも」
「わかんないけど、寂しい味がしたよ……ギル、泣いていいよ」

 大変だったね、と繰り返し言う。大変だったね、と繰り返し、体を優しく揺らしてくる。
 鼻先がつんとするのを、必死にこらえた。

 やめろ、俺は、そんなことされたくないから、そんなつもりで会いに来たんじゃない。慰めてもらうためじゃなくて、俺が冬を耐えられたのは――。

「おれ、俺……あれ、どこだ、どこいった? 俺、ちゃんと、持ってきたのに……」

 巣穴から大事に持ってきた、あの花が見当たらない。抱かれたまま足が浮いているため、降ろせと身をよじるが、イヴァンの腕は信じられないくらい頑丈で、俺を離す気は無いらしい。

「なにを?」
「約束したから……咲いたら、って、だから」

 頭が急に混乱して、ぐらぐら、涙で前が見えなくなっていく。くらくら、ぐらぐら視界が揺れて、唸りながら頭を抱える。『花が咲いたら、起こしに行く』と、約束があったから、頑張れたのに、どうしよう、花がないと。

「ギル、どうしたの……ギル」

 さっきまで泣けと言っていたイヴァンも、様子がおかしいと気づいたのか、心配そうに顔をすりよせる。そのくせ俺がどんなに暴れても離さない。

 俺はもう、肩をぶったり、足を蹴ったり、穏やかではいられなかった。
 情けなくて、たまらないのだ。イヴァンに八つ当たりしても仕方ない、情けないのは自分なのに。

「ギル、お花、もってきてくれたんでしょ? 分かったよ、大丈夫だから……」
「ちが、う、……も、ひとつ、約束……」
「もうひとつ?」

 瞳にぶあつい膜がかかり、輪郭はほどけ、視界が何重にも膨らんだ。雪解けが沁みこんで、雪と大地がひとつになっていくように。涙に染まり、きらきらとひとつに融け合う。

 イヴァンの体からは、巣穴の柔らかい土と、枯れ草の香りがした。少し痩せて、髪にも艶がない。だけど、最後に抱きしめられた夜から、体のあたたかさは変わっていない。

 自分の情けなさに、はっ、と苦しい息をすれば、俺の胸にはイヴァンの香りがひろがった。


『なんでもお前だけで決めるな! ひとりで平気だ……冬の間に、俺の答えを探す』

 あの夜、あんなに威勢良く言ったのに。

「俺、見つけられなかった……!」
「ギル……」
「答えを探す、って言ったけど……ッ、答えなんかなかった! 辛くて、苦しくて、俺……」

 生きているだけで、精一杯だった。
 森中を駆けずりまわっても、雪の下を掘っても、手がかりを見つけるどころか、孤独が深まるだけで、せめてもの思いで、光のほうを見ながら、ただ生きていた。

「……ギル、もういいんだよ」

 優しく受けとめようとしてくる腕に、それじゃ駄目だと抵抗する。うやむやにされても嬉しくない。お前の体に隠れるだけじゃ、俺の誇りはどうなるんだ。

 お前の体に隠れているときだけ、怖いものから身を守れたとしても、それでは何も変わってないことになる。これからも変われない。

 ――俺は俺の足で立って、ちゃんと変わっていくから。自分の頭で、ずっと考え続けていくから。

「答えなんか、ない……それが答えじゃ、だめか?」

 お前のこと以上に、自分自身を好きでいたい。耳を立てて、胸を張って、誰にも恥じずに生きていく。ずっと、ひとりで歩いていくから、せめて同じ道で寄り添えないのか。

 イヴァンは次第に目を細めながら、うん、うん、と緩やかに相槌を打っている。まさか、眠いのだろうか。寝るな、と怒るつもりで、ぱちぱち頬を打てば、抱きしめられて浮いていた体が、ゆっくりと地面に下ろされた。

「どうしても……離れなきゃだめなのか?」

 真っ直ぐに見つめれば、菫色の瞳が、見つめ返してくれる。
 あっ、と予感めいたものが走った。優しく咲いたその色から、朝露のような雫が、ぽろりと落ちていく。イヴァンが、泣いている。

「ううん、僕も、一緒にいたい」

 そう言った唇は微笑んでいた。満たされた顔で、手で、俺を包みこんでくる。
 頬を手のひらに包んでもらうだけで、すごく心がくっついた気がして、離すつもりはないのだと安堵する。

「君の夢ばっかり見たよ、ギル、ふたりでいろんなところに行ったよ……知らないところにも」
「……そうか! そうだろ? な、やっぱりそうなんだ」

 俺は嬉しくなって、今度こそと足に力をためる。っぴょんと跳ねてイヴァンに飛びついた。

 しっかりと首に抱きつき、泣き顔に頬ずりをしてやる。自分だって泣いているのだが、もう泣くなと頭を撫でてやった。
 イヴァンは透明な雫を落としながら、おとなしく笑っている。

「もう、どこにでも行けるなんて言うな。俺に、行けって言うんなら、お前とどこかに行く」
「うん……うん……」
「俺が一緒に行く、どこにだって連れてってやる」

 大きな手のひらが、ほっとして、俺の頭をかき混ぜてきた。
 大きくて、なんだか悔しい。ばか、と怒って頭をぶつける。ばか、イヴァンのばか。

「ギル……ありがとう」

 涙まじりの、震えた声が聞こえた。俺はそれだけで、全部、許してしまった。

* * *