V
* * *

 集めた胡桃が、手のなかでこつりとぶつかる。ごつごつした殻を触り、俺はその堅さを持て余していた。
 記憶をたどるうち、いつしか、山葡萄を探した思い出ではなく、触れ合った感触を反芻していた自分に気づく。

「……だって、仕方ないだろ!」

 誰に言うでもなく、自分自身に言い訳をした。

 最初は怖くて震えてしまったけれど、気がついたんだ、あいつに抱きしめられると、体がほかほかすることに。

 それは肌で感じる温度というより、俺の内側からわいてくる。寝ぼけていたり、ぼうっとしているイヴァンに抱きしめられても、ほかほかしない。
 俺だけを見つめたあいつに、嬉しそうに笑うあいつに抱かれると、たまらなかった。あたたかくて、胸がほかほかして、不思議だ、何が違うのだろう。

 考えこんでいるうち、次第に、笑うことが出来なくなった。口を尖らせ、ころんとした胡桃を見つめる。

 いっぱい集めて、持っていこう。きっとあいつは喜んで俺を迎えてくれる。それで、それで俺は、満足するのだろうか。
 美味しいと、イヴァンの喜ぶ顔が見たい、いっぱい食べてもらいたい。しっかり栄養をつけたら、あいつは安心して冬眠に入るだろう。それで、それで俺は――。

 ぽろ、と手から一つがこぼれる。慌てて拾い、ふるふると頭を振った。

「……とにかく、行こう」

 足を止めたら、理由もなく不安になりそうだ。木の実を全て拾い終わり、俺はゆっくりと歩き出した。
 まだ日は高く、梢には小鳥がさえずっている。おだやかな森のなか、あいつの巣穴を目指す。

 どこか、自分の足取りが危なっかしい。俺は正しい道を歩いているのだろうか。

 生まれた森を発って、川の流れをさかのぼり、月の森へとやって来た時、俺は、何を考えていたのだったか。胸に抱いていた望みは、何だったのだろう。
 春、ふとした予感に川沿いを進み、一頭の仔グマを見つけた時、何を感じたのだったか。

 頭のなかが、奇妙な霧につつまれている。思考は霞み、ただ胸がざわつく。きっと季節が変わったせいもあるが、それだけでもない。

 なんだか、最初の目的を見失いそうだった。

 もう秋だ、時間が、無い。時の流れに身をまかせるうち、いつしか行く先は細り、いくつかの道に分岐して、避けられない選択を迫られている。

 物思いに沈んでいた、その時、はっとして足を止めた。

「今、誰か……俺を呼んだか?」

 耳をぴんと立てても、誰の声もしない。鳥の鳴き声すら止んでいて、俺を取り囲むのは、さやさやとした葉音だけ。
 あれ、と思った。こんなに風が満ちている。
 聴覚で感じるのではない、風が運んでくる、うるおいに満ちた香りがあった。気づいた瞬間、五感の全てを、嗅覚に占められた。

「あ……すげぇ、いいにおい……」

 一瞬にして、その匂いのとりこになった。

 ふらふら、足が勝手に進む。枝を、落葉を、しめった土を踏んで。何も見えていなかった、何も聞いていなかった。ただ、世界は香りに支配されていた。
 夢心地で匂いを辿り、森をさまよう。

 川だ。すべすべとした川原の石を踏んでから、今更のように気がついた。俺が立っているのは、東の草地と、南の丘との境目だった。
 しばらく雨が降っていないせいか、水量は落ち着いている。ぼうっと流れを見つめた後で、向こう岸に視線が映る。

 そこに居たのは、見知らぬ白いウサギだ。目と目が合った瞬間、彼女は耳をぴんと立てた。
 真っ直ぐな瞳は、まるで、ずっと俺を待っていたようだった。

 風が運んできたもの、ここまで俺を惹きつけたものは――メスの匂いだったのか。

 かぁっと血が上り、一気に霧が晴れていく。今まで目を背けていた事が、頭のなかでちかちかと発光し、もう無視できない。

「あ……」

 気づけば、俺の手には何も無かった。木の実をどこかに落としてきてしまった、あんなに集めたのに。

「あぁ、あ……」

 がらがらと音をたて、積み重ねたものが、崩れ落ちるような心地がした。
 足が震え、けれども目が離せない。向こう岸の存在に出会うために、俺は今ここに居るのだと、分かってしまったから。

 そうだ、俺はずっと探していた。やっと思い出した、今までどうして忘れていたのだろう、この森に来た理由を。

 生まれ落ちた場所に、たまたま、俺の居場所がなくて。そのままの自分を認めることができなくて。
 つらくて仕方なかった時に、『月の森には、お前の毛並みによく似た、白いウサギの群れがいる』と、鳥に教えてもらった。

 オヤジは寂しがりながらも許してくれた、誰も俺を引き留めることは出来なかった。そして俺は、群れを出て、こうして今ここに居るんじゃないか。

 風が背中を押してくる、心とは関係なく、血が騒ぐ。メスの匂いに魅きつけられ、全身がぶわりと逆立った。

 風が、進め、と囁いてくる。ざわつく体の中心で、よろこんでいる俺の本能――今、足の震えは疑いようもなく、這い上がってくる震えが体中をつつむ。

 しかしその震えは、欲望に対する嫌悪感をもはらんでいた。もう一度、自分の本心に耳をすませる。俺は混乱しきって頭を抱えた。そうだ、俺は、進みたくないんだ。

「……!!」

 必死の咆哮は、なかなか声にならない。

「…………あぁぁ!!」

 行け、と囁いてくる声に、全身を奮い立たせた。全力で、嫌だと叫んだのだった。
 ばっと身を翻し、本能の命令を振り切って、ありったけの力で地面を蹴る。どこでもいい、どこかに逃げたい。
 近くの茂みに飛び込んで、鋭い枝先に血がにじむのにも構わず、狂ったようにかきわけていく。

「……ッ、は、どこ、に」

 茂みを抜けると、見慣れないけもの道に出た。どこに逃げればいい、まだ背後から、あらがい難い香りが迫ってきている。

 誘惑を跳ね除け、夢中で走った。叫んだせいで痛む喉をさすり、ぞわぞわと悪寒がまとう首筋を、掻きむしる。

 もっと速く、逃げなければ追いつかれる。俺は何から逃げているのだろう。はぁはぁと息を切らしながら、時折り悲鳴を上げそうになった。

 それは、自分が自分でなくなってしまう恐怖だった。自制心を失い、体が暴れだしそうになる。自分を抑えられなくなる、本能への抵抗だった。怖い、誰か、そばにいてくれ。

「イヴァン……!」

 名前が口をついて出たのを、慌てて手で塞ぐ。うぅ、と唸ってしまう。
 体がおかしい、ざわざわする。膨らんで、破裂しそう。そこらじゅうに擦りつけたくなる。気味が悪い、恐ろしい。

 無我夢中で走るうち、俺はイヴァンの巣穴にたどり着いた。

「い……イヴァン!!」

 なかに飛び込んでしまいそうになったが、すんでのところで耐え、名前を叫ぶ。一時も休まず駆けてきたので、肩が大きく上下する。

 我を忘れて、ほとんど森を横断してしまった、どうしてこんな距離を走れたのだろう。

「ん……なぁに、大きな声……」

 ゆっくりと、目をこすりながらイヴァンが出てきた、その姿を見た瞬間、唐突に涙があふれそうになる。

「お、俺……おれ……」

 言葉にならず、どん、と体ごとぶつかるように抱きついた。

 昼寝でもしていたのだろう、イヴァンの反応は鈍い。んん、と悠長な声を出して、その次に鼻を鳴らす。
 あの誘惑の香りが薄らいだ代わりに、周囲には血の匂いがただよっている。

「ギル……けが……? だめだよ、そんな匂いさせてたら、怖い獣に食べられちゃうよ」
「こわ、こわい……おれ……」
「なに、何かあったの?」

 いつの日だったか、雷を怖がる俺をかくまってくれたように、大きな腕を広げてくれる。よしよし、と頭を撫でてくれるが、そんなものじゃ効かない。

「あれ、しろ、イヴァン……ほかほかするやつ、しろよ……!」
「え? ほかほかするやつ、って、なぁに」
「いいから、やれよぉ……」

 胸がほかほかするあの安心感が、今すぐに欲しい。

 自分が何を言いたいのか、分からないまま。口走る言葉は、あうあうと唸る声にまぎれて、意味をなさない。

「ぎゅっ、て……あ、おれ、したくて……うぅ、嫌だった、怖い……俺、お前と……」
「分かんない、聞こえないよ」

 ねぇ、と近くに寄せられた耳を見て、何も考えずに反射で噛んだ。

「いたっ……! ギル、怒ってるの」
「おれ、おこって、る、のか……?」

 たしかに怒りに似ている。恐怖を覚えるのは、自分自身に対してだった。全てをめちゃくちゃに踏みにじりそうな、衝動だ。

 俺が唸りながら抱きつくから、イヴァンは困りはて、すっかり眉を下げていた。

 説明できる気がしない。どうして分かってくれないんだ。俺はイライラして、尻尾が勝手にびくつき、もうたまらない。抱きつく力をさらに強める。

* * *