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 ふたりで抱き合っている間は、他の全てと関わりがない、蜜のような時間にひたれるけれど。現実の森へと帰ってきた時、あまりにも美しくて、言葉をなくした。

 空は赤く、暗い時間が来る前に、輝きを燃やしきろうとしている。赤い空と、紅葉した木々、季節の一瞬があざやかに燃える。

 ぼうっとして見下ろせば、自分の体も、真っ赤に燃やされてゆくところだった。なんて綺麗なのだろう、でも、指先に震えが走る。

 たったひとりになったような、そんな気持ちがしたからだ。すぐ隣に、ギルがいるのに。

 空に鳴き声が響いて、顔を上げる。南へと発たずに、この森で越冬する鳥たちだと分かった。帰る場所がここにあるから、ゆったりと鳴いている。

「見て、鳥がいっぱい……ギル?」
「ん……」
「ねぇ、ギル、聞いてよ。見て、空がすごくきれいだよ」
「ん……イヴァン……」

 すでに夢の世界へと旅立っているのか、ギルの返事は不確かだ。
 ひとりで夕空を見ていると、うれしいような、さみしいような静けさに包まれた。

「……僕らも帰ろうか」

 返事はない、腕にもたれて眠り込んでしまっている。くうくうと安らかな寝息を聞く。
 ギルを大事に抱え、僕は歩き出した。

「ほんとに大きくなっちゃったなぁ」

 寝入って力の抜けた体は、尚更に重く感じられた。よいしょ、と肩にかつがなければ、上手く抱き上げられない。起こさないように気づかいながら、ゆっくりウサギの巣穴を目指す。

 遠く、北の山が、うっすらと雪をかぶっているのが見えた。その景色も、次第に、夜に隠れていこうとする。

 全てが夜に消える前に、赤く染まった自分を見つめて。それからわざと腕を晒して、夕陽に手首を焼かせてみた。僕も夕焼けの一部になれば、かなしい気持ちにならないと思って。

 白い体が、優しい赤に染まる。ギルも一緒だ。森も、僕らも、同じ夕陽につつまれている。それなのに、みんな一緒なのに、どうして胸が締めつけられるのだろう。

「ギル……ぼくね、本当は分かってるんだと思う、どうすればいいか。言葉にならないだけなんだ、僕はあんまり言葉を知らないから」

 ウサギの巣穴に辿り着く。なかはこざっぱりとして、枯れ草が綺麗に敷きつめられていた。ギルらしいなぁ、と笑みがこぼれる。

 そうっとギルの体を横たえて、寒くないよう枯れ草を寄せた。草からふわりと香った、夏の匂いが、なんだかもう懐かしい。

 片づいているのは良いことだ、それなのに、気持ちが焦る。訳もなく、ひとつの思いが、頭から離れなくなった。
 この先のことは、もうとっくに決まっているのではないか。そんな思いが離れなくて、苦しい。

 夏が過ぎ去れば、秋になり、やがて北風が冬を連れてくる。僕たちの気持ちとは関わりがない。風景と香りが変われば、成すべき事がおのずと分かる。

 自然の流れに逆らっても仕方がない、自然のままの僕でいたい。何が起きても目を閉じないこと、それが、生きるということだと思うから。

 きっと二人とも気づいていて、言い出せないだけなのだ。そんな気がしてならなかった。

「言葉にならない気持ちも、本当の気持ちだってことに、変わりはないんだよね……」

 上手く言えないからといって、迷いがあるわけじゃない。今はその時を待っているだけ。きっと、もうすぐだ。

 ギルの寝顔を見ていると、僕の心はざわつくどころか、穏やかさを取り戻していく。もっとどうしようもなく、かき乱されるかと思ったけれど。のんびりやのクマで良かったと、少しだけ笑った。

 かたちの良い額を撫でて、寝息がとぎれないことに安心してから、ウサギの巣穴を後にした。

 瞬く間に夕暮れが終わった。すぅっと溶けていく宵闇のなか、風が吹けば、厳しい寒さが体を支えてくれる。
 下を向かずに、しゃんとしろ、と、北風に言われたようだった。背筋を伸ばして、夜空を見上げる。

「あ……もう、冬の空だ」

 雲ひとつない空なのに、僕の吐く息が白くて、雪の気配まで近づいてくるようだ。白い息が消えれば、そこに点々とした光がある。

 澄みきった星空が、教えてくれた。星の光に、瞳がすっきり乾いていく。

「きれい、ぴかぴかしてる」

 冬を待ち望んでいたわけではない、けれど、冬の訪れを知らせる星は、美しいとしか言い様がなかった。

 自然と遅くなる足取りで、自分の住処へ向けて、とぼとぼ歩く。森の木々も、葉の落ちきった枝が目立つ。

 帰り道には、必ず川岸を通らなければならない。しん、と静まりかえった川原で、せせらぎの消えた水面を覗きこんでみれば、もう凍りはじめていた。紺色の夜空をつるりと流したような、まだ脆く、壊れやすそうな氷だった。

「ふわぁ、本当に冬なんだ」

 薄く張りつめた氷に、そっと触れた。手が冷たい、当たり前のことに、胸がじんと震えだす。

 僕は、しばらくここに居ようと決めた。そういえば冬をきちんと見たことがないと気づき、少しだけこの空気を吸ってみようと思った。雪が積もって、長い眠りに就く前に。

 しんしんと冷えていく夜空に、星の瞬き――散りばめられた星々が、きりりと冷たい風のなか、砂粒ほどの小ささで、心に降り積もりそうなほど輝いている。音もなく。

 この森に雪が降って、僕が眠ってしまった後も、ずっとこの星が瞬いていたらいい。ギルが、この星空を見上げることがあればいいな。

 冬の間も、ずっと一緒だ。同じ森で生きていることに、変わりはない。これから訪れるものは、別れじゃない。

「……なんだか、星って、ギルみたい」

 小さく見えていても、こんなに眩しくって、身を焦がすように光っていて――ギルに似てる。だから、見惚れてしまうのかな。

 綺麗なものを見ていると、僕のなかがいっぱいになるような、反対に空っぽになるような、不思議な感覚につつまれる。それは、ギルと一緒にいる時と同じだ。

 僕は、はっと気づいた。そうか、星だけじゃないんだ。

「わかった! きれいなものは、みんなギルに似てるんだ」

 花も、雲も、ギルみたい。美味しい木の実や、真っ赤な落葉も。あの丘で感じた、光と風の思い出すら、僕のなかでは全てがギルに繋がる。綺麗なものはみんな、彼と同じで眩しい。

 そうなんだ、じゃあきっと、雪もギルに似てるだろうな。

 なんだか賢くなれた気がして、僕は嬉しかった。

「あ、お月さま……!」

 昇ってくるのが遅かったのか、それとも僕が気づけなかっただけなのか。東の果てに、ちょこんと座ったような月が在る――夜のなかにいるのに、山々は光を取り戻し、ぼうっと照らされている。

 満ち足りた気持ちだった、もう何も要らないと思った。

 初めて特別な想いで月を眺めた、あの日に。『今よりもっと良い生き物になりたい』と、僕はそう願ったのではなかったか。だとしたら、僕の望みはもう叶った。

 君と出会えたから、少しだけ賢くなれて、きっと前よりも良いクマになれたはず。その証拠に、ほら、こうして幸福を見つけられた。