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 ふわり、風向きが変わる。一瞬、夢かと思う。
 嬉しすぎると、どうして、夢みたいだと思うのだろう。きっとふわふわするからだ、ふわふわ、体が浮くような心地がするから。

「ギル、」

 風が連れてきた香りは、もちろん夢ではなかった、振り返ればそこにちゃんと姿がある。
 いつの間にか、後ろに佇んでいたギルと、離れたまま目配せをした。

「よかった、今ね、君に会いたいと思ってたんだ」
「さっきまで一緒にいたのに、もう会いたくなったのか?」

 ギルはどうしてか、ばつが悪そうに笑っている。

「うん、星がきれいだったから。……どうしたの? よく眠ってたのに」
「……水が、飲みたくて」

 なんとなく近づくことが出来ないまま、中途半端な距離を引きずった。

 ギルが川に近づけば、僕もそうする。同じように、氷に手を触れてみる。でも、僕らは数歩分だけ離れていて、その距離が狭まることはない。

 ギルは氷を破ろうとはしない。本当に水を飲みたいわけではないらしいと知れた。

「うそ、ついた。目が覚めたら、風が冷たくて……冬が来たって分かったから、俺、お前を探さなきゃって、焦って、」

 凍っていく川に触れて、だけどまだ底のほうには、わずかな流れがあるのだろう。ギルの指先が濡れていた、それでもなかなか離そうとしない。彼の耳には、とくとくと流れ続ける水の音が、聞こえているのかもしれない。

「僕は、どこにも行かないよ?」
「だけど、冬眠するだろ」
「それだって、どこかに行くわけじゃないのに」
「……そうだよな、バカみたいだな、俺」

 やっと顔を上げてくれたのに、耳がへしょんと下を向いている。そんな笑顔を見せられたら困る。

「……君は、どこにだって行けるんだ、行っていいよ」
「え……?」

 僕は川の向こうに視線を移した。

「ひとりで暮らす必要はないでしょう、誰とでも生きていける。また群れに入りなよ、それで好きなとこに行っていい……行って……」
「なんで、そんなこと、」

 今度は僕の方が、耳を伏せて微笑んでいる。大人になるって、複雑だ、曖昧な表情が増えていく。

「お前は、俺がいなくても平気なのか?」
「僕のことはね、いいんだ。ギル、君はどうなの? あんなに、大人になりたがってたじゃない」
「俺は……」

 僕は一歩だけ、ギルに近づいた。

 今は川の向こうに、生き物の気配は感じられない。今夜の森は不思議なくらい静かだ。むしろ星空のほうが、囁くように語りかけてくる。気持ちが落ち着いて、ありがたい。

「子どもを育てて、君のお父さんみたいになればいい。ギルなら、すぐになれるよ。いっぱい聞かせてくれたよね、お父さんとの思い出……あんな大人になりたいって」

 黙り込んでしまうギルに、一生懸命、語りかけた。こういうことも彼から教わった気がする。

 僕に言葉を教えてくれる時、ギルはとても辛抱強かった。丁寧に、心をこめて接してくれた。真似をするわけではないけれど、少しくらいはお返ししたい。

「……なんだよ、イヴァンのくせに」

 すん、と鼻を鳴らす音がした。

「……ひとりぼっちの、くせに」

「僕は、このままでいいんだ。またひとりになっても構わないよ。僕はのろまで、臆病なクマだから……どこにも行きたくない、行かなくていいんだ。君は、ちゃんと変わらなきゃ」

 君は自分で、『変わる』と決めて、群れを出たのだから。最初に決めたことは、やり遂げなければいけないと思う。
このまま一緒にいるのもいい、きっと楽しい日々が続く。だけど、僕はずっと、今夜と同じことを考えてしまうだろう。

 一つのことで、頭がいっぱいになってしまう。自由ではなくなってしまう。それは自然なことじゃない、少なくとも、僕ではない。

 僕が僕でなくなるくらいだったら、離れたいと思った。例え離れても、ギルは僕にとって、かけがえのない存在だ。こんな考え、勝手だろうか。

 僕は自然と、姉さんのことを思い出していた。姿を思い描けば、胸が締めつけられる。それで良いのだと思えた、苦しいのが、当然のことだ。

「そんなこと、どうだっていい!!」

 突然、ギルが目の色を変えた。だん、と強く地面を踏みつけ、不快感を隠さない。ぶるぶると、握りしめた手が震えている。

「ギル……そんなこと?」

 悲しい声を出した僕を、きっと睨みつけて毛を逆立たせる。ギルのこんなに怖い顔を、初めて見る。

「なんでそんな、何もかも分かったような目をしてんだよ?! どうして俺がいなくても平気なんだ……俺のこと、嫌いになったなら、そう言え!」
「嫌いじゃないよ、でも……」

 どん、と、体に強い衝撃が走る。

「まだ分からないのかよ、俺は、お前と一緒にいたいんだ! 今はそれだけなんだ、他のことは考えたくない!」

 僕は、ギルにしがみつかれているのだと、遅れて気がついた。鼓動も、呼吸も、全てが止まりそうになる。

 どんな気持ちで、言ったのだろう。必死に声を絞り出した反動からか、大きく息を吸いこんで、震え上がる体が熱い。

 ギルは怒りにまかせて、どん、どん、と手加減なく僕の胸を叩いた。いったい彼の体のどこに、こんな力が潜んでいたのだろうと、そう思うほど、すさまじい感情をぶつけられた。

「お前は、のろまじゃない、臆病なんかじゃない! 俺が今まで言ったこと、全部うそだ……イヴァン……ごめん……」
「どうして謝るの……僕、怒ってるんじゃないよ」

 叩く手が止まり、声も苦しそうに弱まっていく。叩かれるよりも、しがみつかれる方が痛い。

 怒りの色がおさまっていく、澄んだ目のなかに残ったのは、怖いくらいに綺麗な光だった。

「……イヴァン、俺のこと、嫌いか」

 ずきん、と痛んだ心臓が、粉々に打ち砕かれた。

 直球の問いかけに、切ない想いをごまかせない。ギルはもう、ごまかそうともしていなかった。苦しさも、弱さも、隠さず見せて、胸のうちの柔らかいものをさらけ出している。

 俺だけを見ろ、と、真っ直ぐに伝える、そんな君が、好きだ。

「……っ、だいすき、だよ」

 こらえきれずに、目の前の体を抱きしめた。

 くぅ、とギルの喉が鳴るのを聞いたら、ぶわぶわ涙が浮かんでくる。首筋に顔をうずめ、そこで吸いこんだギルの香りと、体の熱さに、はぁ、と呻き声をこぼしてしまう。

 小さな頭をしっかり抱いて、鼻をくっつけ、僕は夢中で愛情を伝える。そうして、少しだけ泣いた。

 ギルは驚きに肩をすくめて、初めはおずおずと、やがて迷いなく抱き返してきた。何度も、何度も鼻先をぶつけては、離れたくないと訴えて、僕の髪を乱暴に掻き乱してくる。

 立っていられなくなるかと思うくらいの、痛み――それでも僕は、自分の気持ちを奮い立たせる。

「でもね、僕は……君と、つがいになりたい訳じゃないんだ」

 涙で言葉につまる。吐息が震えているのは、ふたりとも同じだ。どうしてこんな、かなしい思いをしなければいけないのだろう。一瞬だけ分からなくなる。

 ギルをかなしませて、僕もかなしくて。一緒にいたいのは同じなのに、どうしてだろう。震えそうになる足とともに、決意が揺らぎそうになる。

 それを引き留めてくれたのは、今まで大事に育んできた、自分自身の想いだった。春からゆっくりと時をかけて、いつしかこんなに大きくなっていたものが、こんなにあたたかいから。

 苦しいはずなのに、胸のあたたかさだけに集中すれば、ほっと笑えた。大切なひとの為なら、例えこの冬が永遠になっても、いとわない、そう思う。別れにだって、耐えられる。

「君と、つがいにはなれない。無理して、うそっこのつがいになりたい訳でもない……ねぇ、僕はね? 僕がクマで、君がウサギだから、好きなんだ。……でも、クマはもう冬眠だよ、君をひとりにしてしまう。君には、一緒にいてくれる子が必要でしょう?」

 ――涙とともに、時が流れた。

 びゅうびゅう冷たい風が吹きつけるなか、涙が乾くまで笑うつもりだったけど、少し経ってから、ギルが濡れた頬をさすってくれた。

 見開かれた真っ赤な瞳は、星みたいに真っ直ぐ光る。やっぱりまだ、どこか怖い。

「……俺、待ってる」
「ギル、」

 ぱっと体を離したギルが、これ以上ないくらい、耳を立てた。僕の瞳に、彼の体がとても大きく映る。背筋を伸ばして、手だってもう震えていない。

「なんでもお前だけで決めるな! ……ひとりで勝手に決めて、そんな目、するから……俺、腹が立つんだ」
「う、うん、ごめん」
「俺も、ちゃんと考える。どうすればいいのか考えながら、春を待つ。ひとりでも平気だ、お前に心配なんかされたくない! ……冬の間に、俺の答えを探す」

 見惚れてしまった、あんまりにもギルがかっこよくて。
 はっきりした口調で言うから、圧倒されてしまった。抱きしめていた時には小さく思えたのに、体を離すと、彼がもう小さなウサギさん≠ナはないことが分かる。

「……うん」

 僕は、ぼうっとして頷いていた。

 ギルの言葉は、ただ強がっているだけかもしれない。でも、もしも強がりではないとしたら――?
 それを確かめる術は、今のところは見つからなさそうだ。それなら、しっかり約束をしよう。

「……じゃあ、答えが見つかったら、僕のことを起こしに来てくれる?」
「ん、」
「冬眠ってすごく長いから、寝ぼけやすいんだ。君のこと、忘れないとは思うけど……目覚めた時にひとりだったら、僕、その時は……」
「ん……」

 目覚めた時にひとりだったら、そのままひとりで生きていけばいい。たぶん、たったそれだけのことだ。

 若木のようにしずかな、ギルの立ち姿を見ていると、とろんと目蓋が下がってくる。もう眠くてたまらない。僕の気持ちは全て伝えたから、後のことはギルに任せてもいいかもしれない。

「ギル、聞いてる? ……泣いてるの?」
「泣いてねぇよ、ばか!」
「じゃあ、寒いの? こっちにおいで、僕のおなかが、いちばんあったかいよ」

 ほら、と腕を広げる。一歩ずつ、どこか慎重に近づいてくるのを待って、怯えさせないように微笑む。
 だけどギルはもう、僕に怯えたりはしないのだと、ちゃんと分かってる。そっと眉尻を下げるだけだ、切なそうに。

 しがみつくのではなく、柔らかく抱きしめた。ただ相手に自分の体温を分けるためだ、見返りは求めない。君が凍えなければ、僕はそれでいい。

「イヴァン……イヴァン? まだ寝るなよ」
「うん……うん、寝てないよ」
「うそだ、とろとろしてる。……まだ寝るな」
「じゃあ、今夜はずっと、ここで星を見ていようか。春の話をしようよ」
「……ん、」

 満天の星空が輝いている、光が今にも落っこちてきそう。

 星がぼくらに降り積もって、胸がいっぱいになりそうだ。心はこんなに満ちたりているのに、透きとおっていくのは、どこだろう。体が軽い、きっと今なら風にも乗れる。


 星の瞬きが透明なうちは、まだ、目を閉じないでいたい。そのうち眠ってしまったとしても、せめて夢のなかでは、目を開けていよう。会いたいひとに、会えるように。



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花咲く丘*鏡の冬 につづきます。



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