V
 ○.

「はやく、はやく! 遅いぞ、まったく、クマってなんでそんなにのろまなんだ」
「ギル? 僕はのろまじゃないって、君が前に言ってたよ」
「……忘れた」
「わすれんぼ」

 忘れんぼうのクマに言われたものだから、俺はムキになって怒った。背に飛び乗って、耳を噛んでやれば、すぐ降参して謝ってくる。

 ふたりでころころ笑ってから、はっと気がついた。そうだ、早く出発しないと、遊んでいる場合じゃない。

 月の森にまた春がきてから、何日も経った。花は吹き荒れる風に揺れ、柔らかく朝陽を反射している。
 白い雲を綿のようだと思っていたら、ふっと雲が途切れたとき、本当の綿毛が飛びはじめた。ふわふわとただよって、緑の梢にすいこまれていく。

 草地は高く背を伸ばし、尖った葉の先が、つんつんと俺たちの足に触れる。草のなかに散った花びらは、思い思いの絵を描き、咲ききったご褒美にと、それぞれ好きな場所を彩っている。さっと吹き入る風に、ばらばらの方向へ飛ばされても、幸せそうだ。

「ねぇ、ギル、途中でおなかが空いたらどうするの」
「森に入って、食べ物を探せばいいだろ?」
「ずっと森なの?」
「……おい、お前が木に登って確かめたんだろ?! 俺は信じるしかないんだぞ」
「あぁ、そうだったね。大丈夫、ずぅっと緑だったよ」

 陽が高いうちに行かなくては。今日はどこで眠ることになるのか分からない、目的地がどのくらい遠いのかも。
 とにかく、早く歩きださないと。もう心臓が高鳴りすぎて、はじけそうだから。

「こっちの川でいいのかな」
「西の川は、俺がこの森に来るときに通ってきたから」
「そうだったんだ、初めて聞いた」
「二つの川のうち、どっちか、なんだよな。じゃあ、やっぱり東で合ってると思う」
「僕も、そう思う!」
「お前は迷子だろ、お前の感覚はあてにしてない」
「……いじわる」

 今日のように、よく晴れる日を待っていた。川の水もはしゃぎ、せせらぎの音もあたたかい。草地がさらさらとそよぐ音も重なって、俺は耳いっぱいにそれを集めて聴いた。

「イヴァン……イヴァン? 拗ねるなよ、やっと海に行けるんだから、笑え。ずっと、見たいって言ってただろ」
「うん、海は空とおんなじ色なんだってさ、ずっと見たかったんだ……えっ、ギル、」
「ん?」
「僕が見たいって言ったから、海に行くの?」

 そう、草の海ではなく、本物の海を見に行くのだ。

 川の行方を目で追っても、今はまだ緑しか見えない。この水が大きな青にそそぐ景色を、ふたりで見に行く。

「そうだよ、なんだと思ってたんだ」
「うれしいなぁ、ありがとう」

 大きな手で頬をさすられると、目をつむりたくなる。イヴァンから見えないところで、尻尾もひこひこ動いているが、それは俺だけの秘密だ。

「……本当は、お前の故郷に行きたかったんだ。だけど、覚えてないって言うし……さすがの俺も、北の山は怖いし、」

 声が小さくなっていくのを、降り注ぐ笑顔が吹き飛ばしてくれた。

「だけど、なんだか僕、うちに帰るみたいな気がするよ。海は知らない場所だけど、なんだか、同じくらい嬉しいんだ。……ギル、どうしてだろうね?」

 イヴァンの目を覗きこめば、まだ知らないはずの水平線が、瞳のなかにうっすらと横切っていた。

 海は涙と同じで、舐めるとしょっぱいらしい。本当だろうか、早く知りたい。

「……どうしてだろうな」

 親愛のしるしに、こつんと鼻をくっつけようとしたら、勢い余って口がくっついてしまった――ふわっと唇が触れ合って、ふたりとも目を丸くする。

「なに? 今の」
「……まちがえた、嫌だったか」
「ううん、ヤじゃないよ。……ねぇ、これ、新しい約束にしようか」
「約束?」
「うん、約束のしるし」

 何を約束するのか、イヴァンは言わなかったけれど、俺にはなんとなく伝わった。なかなか良い思いつきだと思う。イヴァンは時々、頭が良い、冴えたことを言う。

 いや、こいつはずっと利口だったのかもしれない。迷子だって何だって、月の森に辿り着けたのだし、何より、この俺という約束≠見つけられたのだ。

 運が良いだけかもしれないが、たぶん、いちばんには目が良いのだろう。真っ直ぐに澄んだ眼差しで見つめられると、心からそう思う。


 風が強くなってきた。そろそろ、本当に出発しよう。

 一度だけ振り返って、青い空を見上げる。真っ白なたんぽぽの綿毛が、光に浮かんでいた。








* * *



hanasakuoka







Fin.


* * *



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*Theme『箱舟に乗れないふたり』

*Thanks BGM,
《プリズム》YUKI 《Oceania》Bjork 《Esti dal》Cantemus

*作品内に登場するものについて、貶める意思も、助長する意思もありません。



*「つがいじゃないから、箱舟には乗れないだろうね」そんな呟きが、そのままテーマとなりました。
 ろぷは運命の恋人ではなく、あくまで自分たちの意思だけで一緒にいるのだ、と思っています。僕がクマで、君がウサギだから、好き。
 異種同性間の壁を乗り越えるでもなく、なんといえばいいのか、二人だけの答えを出してほしかったのかもしれません。ろぷは箱舟に乗れなくったって生き残るのです。


*洗さんの原案の段階で、「お互いに少し周りから孤立した存在として出会い、惹かれあっていく」という一文があり、それがツボだったので、こんなに萌え狂いました。可愛い話だったのに、いじくってシリアスにしてしまってごめん。

 素敵な絵も洗さんに描いてもらいました、どうもありがとう!


*世界は美しいから、ハッピーエンドしかあり得ない。そういう信条があるので、情景描写を書くのがいちばん楽しかったです。
 世界が美しいかぎり、私達の幸福に偽りはないのです。

 ひとりで歩くことのできる人だけが、誰かと一緒に生きていける。自分を見つめることのできる人だけが、誰かを愛することができる。そういうことを考えすぎて、やたらと話が長くなってしまいました。
 うさぷの冬の情緒不安定っぷりを書くのが、いちばん苦しかったです。でも書けて良かったです。


 Thanks everyone and I love you!


2015年12月29日 YUBIORI 糠夜雨子




* * *



 以下は作品とはまったく関係のない、個人的な呟きです。



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 2015年、原稿中にニュースが飛び込んできて、気が動転したまま後書きを書きました。「私は憎まない」と仰ったご遺族の言葉が印象的で……私も、負けないってどういうことだろう、自分に何が出来るだろう、心健やかでいるためにはどうすればいいんだろうと考えさせられました。

 もう1年経つんだな、と思ったばかりだったのに、2016年12月、私の大好きな街で、また悲しいことが起きました。
 私は、楽しいことがあると、悲しい出来事をすぐ忘れてしまう愚か者なので、今更のように、また考えました。

 すごく辛い時、景色が灰色にしか見えない時は、少し休んだほうが良くて。どんなに悲しい時でも、世界が美しく目に映った瞬間、あぁまだ何か出来ることがある、と、そういう心持ちになれたなら、また各々が自分にできることを頑張っていけばいいのだと。思いました。

「世界が美しい限り私達のハッピーエンドは本物だ」と、この話の後書きで語りました。綺麗事だと笑われてしまえばそれまでかもしれませんが。私は、人が何かを美しいと思うことは、絶対に誰にも奪われることのない矜持であり、自分で自分を救うための最後の砦のようなものだと思っています。

 だいたい私にとって小説を書くこと自体、セルフカウンセリングのようなもので、自己治癒目的で書いているところがあると思うのですが、この作品はそのことを改めて強く自覚させられた作品となりました。

 今後、こんなに強い思い入れをひとつの作品に注ぎ込めることが、はたしてあるだろうか? と思ったので、ここに書き残しておきました。支離滅裂に長々とすみません。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございます。



うこ