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○.

 誰かの吐息が頬にふれ、森のなかへと去っていく。そう感じるくらい、優しい月明かりと、夜風だった。寄り添うような闇があって、支えるように星空が明るい。

 僕は夕ごはんをすませて、あの子と出会った丘へ来ていた。しっとりとした夜露に、足元が濡れている。花が飛ばす、あの白いふわふわも、今は見えないようだ。

 右手にあたたかい夜風を感じて、左手でしんとした空気を感じた。空腹を満たして、やすらいだ気分でいるのに、時々、釣り合わなくなる気がする。左右の足が、ふわふわと安定しなくて、でもそれは気のせいだ。僕はちゃんと両足で、夜の丘に立っている。

 よろこびと、さみしさが、春の香りに溶けあっていた。去年までは感じることのなかった気持ちが、いつからか僕をつつんでいる。複雑な気持ちの、正体がつかめない。僕は幼いから、きっと知らないことがまだ多いのだろう。

 知らないことを探しに、歩いていってみようと思い、てくてくと丘をのぼっていった。

「あ、まんまるだ」

 見上げたら、空にはまるい月がある。顔を上げたまま歩いていると、ゆらゆら、どこまでも僕についてきた。丘のてっぺんまで来たところで、よいしょっと腰を下ろすと、月もその場に落ち着いた。

「こんばんは! よかった、今夜はおしゃべりする相手がいるや」

 誰もいない丘の上で、僕は満月に話しかけた。誰かに声を聞いてもらいたかったからだ。
 あの子に会えなくなってしまって、元々ひとりぼっちだったのに、前よりも寂しさを感じていた。

 雨の日にここで別れてから、何日も経つけれど、一度も姿を見かけていない。東の草地にも、西の山野にも、北の野原にも行ってみた。もちろんあの川原にだって、毎日のように足を運んでいる。けれど、どこにもウサギはいない。

「何かあったのかな……僕が、何か悪いことをしたのかな」

 仲良くなる前に、嫌われてしまったのだとしたら悲しい。まだ名前も知らないのに、もう会えなかったらどうしよう。

 胸のなかの想いが、はちきれそうになった時、月がぱちぱち瞬いた気がした。

「……あれ?」

 目をこすって上を見るが、雲ひとつない晴れた夜空だ。首を傾げていると、急にあたたかい風が吹き下ろし、頬をかすめて、空へと戻る。

 あぁ、ここは月の森≠セからだ。この月はきっと特別な月。それじゃあ、僕は今、神様に会っているのかな。

 気づいたことを飲み込んで、静かな理解として、体に広がっていくのを待つ。きっとそうだ、違いない。
 僕は、空に向かって、もっと話してみようと思った。

「あの……僕に、イヴァンという名前をくれたのは、あなたですか?」

 月は何も答えずに、ただ光ってみせてくれた。変わらない月光が、さやさやと丘に降りそそいでいる。

「あの……この森はとても暮らしやすいです、ありがとうございます。元いた場所よりも、ずっといいです。暖かくて、あんまり雪も降らないし……。姉さん達とはぐれたのは、寂しいけど……」

 腰を下ろした場所で足をのばして、さらに落ち着ける姿勢をつくる。うぅんと首をまわせば緊張がほぐれて、のびのびとした気持ちになった。

「寂しいけど……もう、慣れちゃった」

 巣穴で一緒に寝た晩のこと、雨に混じっていた、ウサギの涙を思い出す。しとしと、僕の体にも降って、あたたかかった。

 そういえば、僕はもうずっと泣いていない。ここに来たばかりの頃は、毎日泣きながら暮らしていたのに。

 ぺろん、と意味もなく、自分の手を舐めてみた。クマがくつろいでいる時にする仕草で、心の底から、やすらぎを感じている証拠だ。
 あの子と会えない切なさも、群れからはぐれた悲しみも、つかの間、忘れることが出来た。きっとこの月明かりのおかげだ。

「あれ? ここ、白くなってる……」

 腕の内側、ひときわ柔らかい肌の上が、少しだけ色を変えていた。ちょい、と前髪をつかんで見てみると、そこも前より白くなっているようだ。

 僕は群れの仲間よりも、蜜みたいな色味が濃くて、以前に訊ねたことがある。
恥ずかしいから、みんなと同じになれないかと嘆いたら、『大人になったら変わる』と教えてくれた。

 明るい金色をした家族のなかでも、特に姉さんは色素が薄くて、まるで百合の花のように、白く見えることもあった。僕の体は、そんな姉さんの色に似てきている。

「そうか……僕はもうすぐ、大人のクマになるんだ」

 夜空から、月が見守ってくれていて、僕の気持ちは静まっていった。それと同時に、わめき、叫びたいような気もした。だけどもやっぱり落ち着いて、ふぅっと息をひとつ吐く。

 そうか、それはそうだ、いつまでも子どものクマではいられない。

 ここの暮らしはとても良くて、もう困ることはあまりない。独りというのは厄介で、出来ないことも多かったけれど、いつの間にか出来るようになった。出来るようにならないことは、たぶん必要のないことなのだ。

 僕は今日までなんとか生きてきた、これからのことは分からないけど、なんとかやっていくしかない。自分のことが、好きか嫌いか、そんなことは考えたこともない。僕はいつでも僕らしく、のんびりやのクマらしく、ゆったりとした日々を過ごしている。

「神様、お月さま……僕は、クマに生まれて良かったと思います。こんな月のきれいな夜は、特にそう思います。……だけど、ときどき、なんていうか、おなかが空くんです」

 また、ウサギの涙を思い出していた。夜露はもっとひかえめに、僕の体をしめらせている。

「僕はときどき……僕じゃない、違う何かになれないかと、そう思ってしまうんです」

 今よりもっと良い生き物に、なれたらいいのに。そう考えることは、良いことだろうか、悪いことだろうか。いくら考えても答えは出ない。だけど、そもそもひとりぼっちじゃなかったら、そんなことは考えない気もした。

「……今日はもう帰ります、また会えたら嬉しいです……おやすみなさい」

 最後にそう言って、月の丘をあとにした。ちゃんとお別れの挨拶をしたのに、優しい光は、帰り道も一緒についてきて、僕を巣穴まで見送ってくれた。


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