○.
風が吹いたら耳を立てろ、へこたれずに足を鳴らせ。ウサギは臆病な動物だと言われているが、まったく間違っている。意思は強いし、勇気だってあるんだ。
しめった風のなかで、俺は耳を立てていた。毛先まで銀色をした、念入りに手入れしてツヤツヤの、自慢の耳だ。遠くの音も近くに聞こえる、何にも聞き漏らさない。大人のウサギは、危険を素早く察知して、足を鳴らして仲間に知らせるんだ。
「……もう大人だ、なんだってできるんだ!」
大きなひとりごとが、緑の草原へ吸いこまれていった。身をかがめたまま、ひときわ大きくひらいた葉っぱに、鼻先をちょんとつけてみる。しめっぽくて、良い匂いだった。雨が降りそうな時だって、俺様はご機嫌だ、ふふんと鼻をならす。
もうすぐ、あいつがここに来る。今日もばっちり準備は出来てる。
あいつの習慣はもう読めた。川原で水浴びしたあとに、この草原で体を乾かし、ついでに昼寝をする。今日だって、きっと来るはずだ。
「はやく来ねぇかな〜、尻尾が震えるぜ」
ぷぅっと愉快に息をついて、少しだけ顔を上げた。
丘の上に咲いた花たちは、春の初めと比べて花びらが厚く、風にゆれる姿も、しっかりと根をはった印象だ。今日は曇っていて肌寒いが、雲の向こうで、太陽がひっそりと微笑んだ。
雲の白さ、静かな色がふくらんで、さえた光が丘をつつむ。草の色も、花の色も、青白く透きとおっていく、とてもきれいだ。
こないだまで紫の花をつけていたあざみが、頭をぽわぽわした綿毛に変えていた。たんぽぽより少し遅れて、綿毛を飛ばすのだ。葉っぱの棘に触らないよう、爪の先で、そっとつついてみた。ぽろぽろっと種が落ちて、面白い。
もうすぐ春が終わる、俺も夏の準備をしなければ。群れを出る前に、ちゃんと教わってきた。夏の間はいっぱい草を貯めて、冬に備えなくてはいけない。
「大丈夫だ、なんにも心配いらないぜ、オヤジ。俺はもうすぐ大人になるから。もうすぐ、もうすぐだ」
記憶のなか、心配そうにこちらを見ている顔に向けて、ひとりで呟いた。
不意に森の木々がざわめいて、鳥たちが飛び立った。色づきはじめた夕方の空を、群れをなして渡っていく。もう帰りの時間なのか、それとも、獣が近いのだろうか。
警戒して耳をすますと、拍子抜けするくらい幼い足音が、てこてこと近づいてきている。
あいつだ! また草むらに伏せて、様子をうかがう。するとすぐ、あのクマが姿を現した。薄暗い森をぬけて、ぽかっとひらけた丘に立つ。毛並みが濡れていて、ぴとぴと雫をこぼしていた。
「また鼻歌うたってやがる、のんきだな」
ご機嫌な仔グマは、体を横たえる場所を探して辺りを見回し、ゆっくりとそれに気がついた。
「わぁ、なんだろう、きれい」
鼻歌が止まって、のんびりした声が響く。
それは花で編んだ冠だった、さっき暇つぶしに俺が作ったものだ。気を引くために置いてみたが、まさかこんなに上手くいくなんて。音をたてないよう、気をつけて見てはいるが、ついつい尻尾が動いてしまう。
「誰のだろう、もらってもいいかなぁ……」
呟きながら、それに近づいていく。作戦通りだ。一歩、二歩、三歩――、
「おわぁっ」
四歩目、いかにもクマらしい間抜けな声を上げて、どしんと尻もちをついた。穴に足をとられたのだ、もちろん、俺が掘った穴に。落とし穴作戦、成功だ!
「へへ! 見たか、穴掘りはお前らクマより得意なんだぜ!」
「あれ、君は……」
喜びにぴんと耳を立てて、一度だけその場で跳びはねる。急に現れた俺を見て、クマはさぞかし驚いたのだろう。赤くなった顔で、ぽかんと口を開けて、けっさくだ。
「また俺様の勝ちだな!」
勝ち誇って、身をひるがえそうとした時だ。
「あ、ねぇ、待ってよ!」
クマが素早く体を起こしたので、少しどきっとした。大丈夫、距離は十分にとってある。追いかけられても、全速力で走れば逃げられるはずだ。
「……コレ、君の? はい、かえすよ、小さなウサギさん」
てっきり怒ると思ったのに、クマは穏やかに、俺のつくった花冠をひろった。嬉しそうに笑って、なんだか、もじもじしている。
いや、そんなことは、どうだっていい。こいつは今、俺のことを何と呼んだのか。
「いつも、遠くから僕を見てるよね、どうして? こっちに来て……そんなに遠くにいないで、一緒に遊ぼうよ」
「……おい、俺のこと、仔ウサギって言ったか?! ちがう、ちがうぞ!」
「えっ、なんて言ったの、よく聞こえないんだ」
これだから、耳の短い動物は駄目なんだ。俺はそう思いながら、三歩ばかり近づいてやって、手を腰にあてて威嚇する。
「俺はお前みたいな、幼稚なやつとは違うんだ!」
「……オウチ? ぼく、そんな名前じゃないよ?」
どうやらクマとウサギの口は違うので、発音がかなり異なっているらしい。仕方なく、もう半歩だけ近づいてやる。
「俺様は忙しいから、お前みたいな子どものクマとは遊ばない!」
「え……君だって、まだ子どものウサギでしょ?」
「……ちがう! ちがうって言ってるだろ!」
こいつと話してるとイライラする。俺は足をだんだんと鳴らして、その場から走りだした。逃げるんじゃない、ただうちに帰るだけだ、もうすぐ雨が降るはずだから。
「あ、待ってよ、コレ……」
後ろから呼びかけられても、決して止まらない、止まるもんか。しめった空気のなか、風よりも速く森を走った。群れのなかでも、誰よりも速かった、自慢の足だ。
「こどもじゃない……こどもじゃない……!」
しめった香りだけではなかった。とうとう、空から最初のひとつぶが、俺の体に落っこちてくる。鼻の頭がツンとして、少し痛い。
悲しい気持ちに気がついて、ますます勢いよく地面を蹴った。
本当は子どもだ、分かってる。でも、あと少しで大人になれるんだ。体はもうほとんど変わらない、知恵だってつけた。それなのに、どうしてあんな奴に見抜かれたんだろう、悔しい。
群れを出ると告げたとき、オヤジには、まだ無理だと言われた。大人になるまで待てと言われたけど、俺はもう我慢ができなかった。
オヤジも、弟も、きれいな金色で、俺だけみんなと違っている。誰かに出て行けと言われたわけじゃない。でも、俺は嫌になってしまったんだ。
かわいそうなウサギでいることが、嫌になってしまった。自分を好きになりたかったんだ。
あんまり速く走ったので、勢いあまって、林のなかから抜けてしまった。いつの間にか、北の野原まで来ていたらしい。石ころが多くて、名前もないような草ばかりが生い茂った。この先は月の森ではない、北の山々が連なっている。
はぁはぁと息がきれて、足を止めて周りを見た。
降りはじめた雨のなか、春の野原が青ざめていく。そこいらじゅうの草葉が水滴をはじき、さざめきたって、にぎやかだ。嬉しそうに囁きあっているみたいで、ざわざわする。
俺は草の言葉なんて分からない。野原のなか、俺はひとりぼっちだった。
思っていたよりも雨は冷たく、すぐに、自慢の耳がべしょべしょに濡れた。早く巣穴に帰ろう、巣穴に帰れば寒くないから。
なぜだか胸がざわついて、訳も分からず、足を鳴らしていた。たん、ばたん、勢いよく地面を叩く、踏みつける。
「……大丈夫だ、もう、子どもじゃない」
俺はもう大人だから、大きなクマにだって負けないし、雨が降ってもへっちゃらだ、ひとりで何でもできるんだ。
本当は不安でも、本当は子どもでも、やってみるしかないと思った。何でもやってみて、ひとつずつ自信をつけていけば、きっと自分を好きになれる。
うぅ、と勝手にうめき声が出た。怒ったときの声だ、俺は、怒っているのだろうか。もう一度だけ、だん、と足を鳴らしてみる。ひやっと首筋に風が吹いたような、なんだか不思議な感じがした。
「……のど、かわいた」
もうこんなに濡れてしまったから、急いで帰っても意味がない。少しだけ寄り道しよう。いっぱい走って、おまけに怒ったりしたので、喉がカラカラだ。
川へ向かうことにして、俺は歩きはじめた。歩きだしてから気づいたが、とても疲れていて、走れそうにない。幸運なことに野原と川は近く、もう川原の石ころが見えてきている。水を飲んで、少し休もう。
「うへ……にごってる、まずいかな」
足を滑らせないよう、気をつけて進んで、水面に顔を近づけた。ばしゃばしゃ、雨にかき混ぜられている水は暗くて、川底も見えない。ちろ、と舐めてみると、そんなに悪くなかった。雨の香りが強いだけで、きんと冷たく澄んだ味だ。
いろいろなことを忘れて、ごくんと飲んだ。あんまり水面が跳ねるため、顔を直接近づけるのをやめて、両手にすくって流し込む。少しずつしか飲めなくても、こっちの方が楽だ。
「おいしい?」
「ん、うまい」
「そう、よかったね」
「……えっ」
後ろに、こんなに近くに居たなんて。雨と川の音で、少しも気づけなかった。
いきなり体を抱きすくめられて、浮いたところで、ぎゅうっと自由を奪われる。もちろん水は手からこぼれて、俺の体を冷たく濡らす。
抱きこまれて、初めて、こんなに近くでクマの手を見た。とても強そうな腕だ。そんな、こんなことってあるか。
「ひ、卑怯だ! 待ち伏せなんか、」
「あんなに急いで走ったら、ノドが乾くだろうなって思ったんだ。当たりだね、やっと捕まえた」
クマがなんと言っているのか、全てを理解したわけじゃないが、ふんふんと嬉しそうな声に、頭が沸騰する。
「ずるいぞ、離せよ!」
「なぁに、なんて? 分かんない。君って、思ったよりも大きいんだね。でも、かるーい、かわいい!」
離せ、離せと手足をばたつかせるが、動じない。最終手段で腕に噛みついてみたが、痛くも痒くもないようで、俺は自分の非力さに愕然とした。
「怖がらないで、仲良くしようよ、お友達になって」
楽しそうに何かを言うと、俺の耳を、べろんと舐めた。
腕が強くて、びくともしない、逃げられない。もう一度、クマの舌で舐められる。
「……ひっ」
急に目の前が白黒して、体がつぶれるような錯覚をした。痛い、心臓が痛い。壊れそうなくらい、どきどきと跳ねている、怖い。
「ご、ご、ごめんなさい」
「え?」
「やだ、嫌だぁ……! 離せよ! あ……っ、ごめんなさい、なんでもするから、食わないで……!」
全身ががたがた震えて、もう何も出来なくなった。だらんと垂れ下がった足先まで、細かな震えが走っている。体中をクマのにおいで包まれ、うっ、と鼻先すらびくついて、たまらず俺は泣きだした。
「う、うぇ……わぁっ……! ヤだ、うぅ、うぁ、」
「えっ、え? どうしたの、顔が濡れてる……雨とは違うにおいだ……もしかして、泣いてるの?」
「うー、うぅー……っ」
抱えられたまま、座り込んだクマの膝に乗った。腰を落ち着けて、俺を食べるつもりだろうか。冗談じゃない。
足の裏が地面について、必死でもがいた。けれど駄目だ、岩の上では、つるつると足が滑る。それでも滅茶苦茶に動かしていたら、爪先が何かに触れた。川によって削られた、ひらたい石だと気づく。
かちかちと、爪が石をひっかく嫌な音がして、次の瞬間に痛みが生まれる。血の匂いだ、足の先から流れだしている。俺はもう、気絶しそうだった。
「た、たすけて……オヤジ……」
ふんふんと鼻を鳴らしている獣に、今にも喉を噛まれるのではないかと怯えて、ぎゅっと目をつむった。
「泣かないで……君が泣いてると、胸がぎゅうってするよ……あれ? ケガしてるの? そうか、ここが痛いから泣いてるんだね」
クマは立ち上がると、抱きかかえたままの俺の足へ、冷たい水をかけはじめる。なぜだろう、あぁ、きれいに洗ってから食べるのか。せめてもう一度、家族の顔が見たい。
「雨も降ってるし、僕のおうちへ行こうか」
「……っ、く……ひ……か、帰りたい……」
「うん、帰ろう、寒くないところに行こうね。もう大丈夫だからね」
涙と雨で、顔はべしょべしょだ。いつも綺麗に手入れしている耳も、今は雨水に濡れて、だらんと力なくぶら下がっている。
大きな獣に捕らえられて、どこかへ連れていかれようとしている。何かをずっと囁いてくるし、意味は分からない。そんな状況で、俺は恐怖しか感じなかった。クマが何を言っても、食べる算段をしているとしか思えない。
食べられたくない、もっと生きたかった。大人になった体で、野原を駆け回りたかった。つまらない自尊心を満たすために、クマなんかにちょっかいを出すんじゃなかった。どんなに後悔しても、もう遅い。
「ここが僕の巣穴だよ、寒くない? 足を見せてね、手当てをするから」
気がつけば、暗い穴のなかにいた。敷きつめられた枯れ草のおかげなのか、晴れの日のような匂いがしている。しかしそれよりも、ずっとクマの匂いが強くて、がんがんと頭が痛む。
一カ所だけうず高く積まれた草の上へ、クマは俺の体を置いた。手が離れても、俺はショック状態で逃げ出すことができない。頭から爪先まで震え、かちかちと歯が鳴っている。
なんだか冷たいもの、緑色をした植物の汁を塗られて、ひらたい葉っぱを足に巻かれる。恐怖が高まりすぎて、ぼうっとしてきた。何も考えられない、何も聞こえない。
「やっぱり、寒いのかなぁ。震えが止まらないね。僕のおなかが、いちばんあったかいよ。こっちにおいで」
「ひっ……」
「もう寝ようか、明日、さっきの丘まで送ってあげるから……あぁ、君のお花、川原に置いてきちゃった……ごめんね……おやすみ、小さなウサギさん」
力強い腕に俺を閉じこめて、大きく口を開けた。ヒッ、とまた臆病な声を上げてしまうが、どうやらあくびをしただけらしい。クマはそれきり何も言わず、やがて寝息をたてはじめる。
俺は一晩中、クマの近くで震え続けていた。怖くて、ただ怖くて。いつの間にかもう寒くなく、体があたたまっていることにも気づかないで、眠れずに夜を明かした。
朝になっても雨はやまず、しとしと、霧のなかに水滴を隠したような、静かな音をさせていた。
朝靄にしらんだ野原に連れていかれ、クマの腕から下ろされた瞬間、俺は弾かれたように走りだした。
「また会おうね、さようなら」
一度も後ろを振り返らず、自分の巣穴に飛んで帰った。そうして、無事に解放された理由も考えず、寝床に突っ伏して、陽が高くなるまで泣き続けた。
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