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◇ まどろむ夏 ◇
○.
野原は甘い蜜の香り、見えない羽音がせわしなく、限りある夏の空を飛んでいた。
――はやくはやく、急がなきゃ。もっといっぱい、蜜を探そう。あそこにもあるよ、楽しまなきゃもったいない。夏は今だけ、今は夏だけ。
そう歌っているような、虫の囁きが聴こえてくる。
俺の耳は今日も絶好調だ、きらきらとした草いきれさえ、聞き漏らさない。
「ん〜、夏だ、夏だゼ! 俺もなにか歌ってみるか、なににするかな……」
自然と唇にうかんだのは、ウサギに伝わるメロディではなく、もっとのんびりとした節だった。
あれ、これって、クマの歌だ。最近よく耳にするから、覚えてしまったのだろうか。
「……ま、いいか!」
たしか林檎がころころ、とか、ごろごろ、とかだ。歌詞なんて適当でいい、俺しか聴いてないんだから。
うろ覚えの歌をくちずさみながら、あたたかい地面を蹴って進むうち、南の丘が見えてきた。夏の太陽にこんがり焼かれ、湯気のたちそうな木々が待っている。文句も言わず、むしろ嬉しそうに空を目指す花々も、もう目の前へと近づいてきた。
「あっ……!!」
発見した瞬間に、歌が止む。まるっこい背中を見てにんまり笑い、考えるより先に足が駆けだしていた。
誰よりも駆けるのが得意な、自慢の足を、空と太陽に見せつけるように。走る、飛びつく。
「イヴァン、やっぱりここに居たな!」
「おわぁっ」
っぴょーん! と勢いよく抱きついても、背の高いクマはびくともしなかった。最近ますます背が伸びたようだ、肩に抱きついてぶら下がれば、俺の脚は宙に浮いてしまう。
「……なんだ、ギルくんか……えへへ、びっくりしたぁ」
声を上げてから、俺だと確認するまでのテンポがおかしい、どうしようもなくズレてる。俺は足をぶらぶらさせて、「遅い!」と怒りながらも笑った。
「よいしょ……ギル、また重くなったねぇ」
「もう大人だからな!」
「もうすぐ、でしょ?」
言うわりには軽々と俺を抱き上げ、ぶらついた足裏から何かをはたいてくれた。あぁ、草がいっぱいついてたのだろう。優しい手から、はらはらと落ちていく。
「ん、いいにおいだね、苺畑に行った? またひとりで隠れんぼしてたの?」
「ちげぇ、天敵から身を隠す練習をしながら、見回りだ!」
「ふぅん……耳にいっぱい、タンポポつけて? まだ咲いてたんだねぇ」
抱きしめられることにはずいぶん慣れたが、やはりクマの腕は少し緊張する。自分から抱きついておいて勝手だが、降ろせ降ろせと身をよじって、ふたりで草のじゅうたんに座った。
「もうこれしか咲いてなかった、お前にやる、オクリモノだ。忘れないように、そこ、刺しといたんだ」
「……クリのモノ? なぁに、それ」
イヴァンは俺の耳に口を近づけ、耳飾りのようなたんぽぽをひとつ、もしゃもしゃと食べた。
最近は俺の真似をしているのか、こうしてよく草花を食べる。クマは雑食だから、腹をこわしたりはしないだろう、見ていてちょっと面白い。
「おい、食べるなよ! オクリモノって……なんだかよく知らねぇけど、オヤジが言ってたんだ。大好きなやつに、ドウゾってするんだ」
「君のお父さんて、いろいろ知ってるねぇ」
唇に花びらをくっつけた、間抜けづらに言われても――。だけど、まぁ、家族を褒められて悪い気はしない。
「おう! オヤジはなんでも教えてくれて、オヤジの言うことに間違いはないんだぜ」
食べてはいけないのなら、と、鼻先をくっつけ、今度は香りを楽しんでいるらしい。ふんふんと陽気な音が、耳に触れてくすぐったかった。
「俺ももうすぐ大人だから、オヤジみたいなオスになるんだ!」
「はいはい、それは毎日聞いてるよ……ねぇ、ギル、教えて」
「なんだ? 知らない言葉、あったか?」
春に出会ってから、俺たちは少しずつお互いの言葉を交換し、今ではしっかり意思の疎通ができるようになっていた。そもそも発音が異なっていただけで、同じ森の言葉を使っているのだと分かってから、さほど理解に難しくはない。あとはイヴァンが、単に言葉を知らないだけだ。
分からない言葉があるなら、また教えてやろう。そう思って耳を立てたら、イヴァンは意外なことを訊いてきた。
「大好きなやつ、って、僕のこと?」
「…………えっ」
「僕のこと、大好きなの?」
きょとん、と首を傾げて、目をきらきら光らせている。
「ち、ちがう! そんなこと言ってないだろ!」
「ん? そうなんだ、むつかしいなぁ」
今度はしょげて、下を向いた。くるくると変わる表情に、勝手に胸が高鳴っていく。
お前のために取ってきた花だ、だけど自分では、意味なんて考えようともしていなかった。なんとなくだ、なんとなく。
耳に飾ったなんとなくが、次第にくすぐったくなってきて、顔が熱い。全部イヴァンに押しつけたくなる。
「……やっぱそれ、食べていい、ぜんぶ食っちまえ」
「ほんと? ありがとう」
「……おいしいか? おいしいだろ? 俺様が取ってきたんだから!」
「ん〜、べつに、おいしくはないんだよねぇ。ほんとはクマのごはんじゃないし」
「ちえっ」
やっぱりオクリモノなんてするんじゃなかった、損した気分だ。
でも、イヴァンは嬉しそうにしている。それなら、やっぱり良かったのかもしれない。
耳のたんぽぽが全て食べられてしまうまで、クマの肩に、頭をのっけて待つ。ぷうぷう意味もなく息を吐いて。肩ごしに見る風景はのどかだ。
いつの間にか、どこかから蜂が飛んできていた。イヴァンの背に止まりそうになるので、わっ、と慌てて睨みつける。
こっちに来るな! 思いをこめて睨みつけているうち、またどこかへ飛んでいく。
「……イヴァン!」
「わっ……なぁに、ごちそうさま」
また反応がズレてる、俺はけらけらと笑う。
「今な、ハチが飛んできて、俺が、」
「なに、何が飛ぶって? なんて言ったの」
「これだから、耳の短いやつは!」
ウサギだったら絶対に聞き逃さないのに。クマには特別にやさしく、ゆっくりと言ってやらなければいけない。
俺はイヴァンのまるい耳を、ちょい、と引っ張って、直に声を吹きこんでやった。イヴァンはふんふんと真面目に聞く。
今日も丘の上には俺たちしかいない。クマを恐れているのだろうか、月の森に暮らすものは多いはずなのだが、イヴァンといる間は不思議と、他の動物とは出会わなかった。
にぎやかなのは声を持たない虫たちだけ。バッタが飛び跳ね、チョウが舞う。
草のじゅうたんが豊かにそよぐなか、ふたりしかいないのに、体をくっつけて秘密めいた話をする。なんだか愉快で、くすくす笑えた。
「……な? 俺ってすごいだろ」
「ん〜、わかんない」
「なんでだよ!」
「だって、知らない言葉が多いんだもん」
耳だけでなく、頭も悪いのか。俺は呆れかえって、あーあーと大きくのけぞった。そのまま腰に手をあて、考えこむ。
こいつがものを知らないのは仕方ない、小さな頃に家族とはぐれて、それきりひとりぼっちだと聞いた。
この平和な森に流れ着いたのが幸運だった、クマには天敵もいないし、おまけに雑食だし。のろまのくせに、こんなに大きく育って、おめでたい奴だ。
しかし、よく考えれば、やはり哀れでもある。俺にはつい最近まで家族がいた、オヤジがいて、何でも教えてくれた。俺は自分の意思で群れを出てきたけれど、こいつは違う。
気づいた時にはひとりぼっちで、あんまりものも知らなくて。恐れるものがなく、心配ごとも無いのは結構だが、そのかわり何にもすることがない。
退屈はよくない。なぜかはうまく説明できない、でも、きっとよくない。俺が、なんとかしてやらなければ。
「よし……今日からお前にいろいろ教えてやる、覚悟しろよ!」
腰に手をあてたまま、胸を張って背を伸ばした。
「カクゴ、って?」
「俺は厳しいからな、俺がいいって言うまで、お前は諦めたらいけないんだぞ」
「う? うん……」
「ほんとに分かってんのか? いいって言うまで、ずっと一緒に特訓するからな!」
「ずっと……いっしょ……?」
しばらく考えている様子のイヴァンだったが、突然、ころんと横たわった。ちょっと空を見てから、また、ごろん。寝返りを打って野原に突っ伏し、ぐしぐしと頭をすりつける。ぴたっと止まって動かなくなる。
「……は?」
謎の行動を見てしまった俺は、目が点になり、心の底からハテナが飛び出した。あまりにも謎すぎて、長い耳をぐにゃっと曲げる。
俺が、何か変なことを言ったのだろうか。まるまったクマの背中を観察するが、見れば見るほど分からない。
イヴァンはこちらの困惑に気づくはずもなく、のんびり草から体を起こし、両手で自分の頬を挟んだ。それからやっと俺を見て、照れくさそうに笑うのだった。
「ごめん。なんかね、なんか……嬉しくなっちゃったの。僕、がんばるね」
「そ、そうか……やる気があるのは、いいこと、だな?」
「うん! それで、なにを教えてくれるの?」
やっぱり、クマの行動は謎でいっぱいだ。俺、大丈夫かな、付き合えるのか。そう思いつつも、気を取り直して耳をたてる。
「まずはハチのことだ! あいつら刺すから、気をつけなきゃいけないんだぞ。ええと……」
そこらへんに落ちてた小枝を拾い、土のやわらかい場所まで移動する。イヴァンものそのそついてきて、とすんと座った。
ちょうどいい高さだ。イヴァンの膝に腰かけ、俺は地面に絵を描いていく。
「だからな、ハチっていうのは……黒くて、甘いミツをつくる……羽は、こんな形の……」
「あっ、僕も見たことあるよ」
「そうだろうな。そして、体のさきっちょに……これ、尻尾じゃないぞ、針に見えるか?」
「うん、見える。君って、とっても絵が上手なんだね。すごいなぁ、いいなぁ」
「……これぐらい、描けて当然だゼ」
後ろからおっとりした声を出して、イヴァンがゆらゆら体を揺らす。俺の体も一緒に、ゆらゆら、楽しい。思わず尻尾が動いてしまう。
「それで、この針が……ぴぇっ?!」
褒められて気分が良くなり、調子よく続けようとした、その時だ。
「ぴ? あ、ゴロゴロ雲だ」
北にそびえたつ山々のうち、一つの峰に黒い雲がかかっている。目で確認するよりも先に、その音を聞きつけた。
クマの耳には届かないのだろうか、確かに聞こえた気がするのに。狼狽えて隠れる場所を見回すうちに、今度こそ、聞き間違えようのない雷鳴が、ぴしゃん、がらがら、と轟く。
「夏って感じがするね、こっちには来ないみたいだけど。ねぇギル、黒い雲はどうしてゴロゴロ言うの? ギル……あれ?」
俺はクマの懐にもぐりこみ、あたたかい体にぎゅうっと抱きついていた。音が聞こえないよう、ぺたんと耳を伏せ、必死にしがみつく。
「ギル、怖いの?」
「うるせぇ! 怖くなんか、ッ?!」
慌てて顔を上げるが、もう一度響いた雷の音に、すぐまた下を向いてしまう。なんてことだ、情けない。
これだけは苦手なんだ、べつに俺だけじゃない、子どものウサギはみんな苦手だ。
「うぇ……オヤジ……」
「ウサギって不思議だね。黒い雲も不思議だなぁ、なんでゴロゴロ言うんだろう……ギル、大丈夫だよ、僕がいるから」
雲のかかった山は、ここから離れている。雨の匂いもしないし、大丈夫だろう。理屈でそう分かっていても、体は別だ。
こんなとき近くにイヴァンがいて、良かったのか、悪かったのか。隠れられる場所があったら、隠れてしまうじゃないか、習性だから仕方がない。
「ギル、いっしょにいるよ……ね? 僕のおなかの下にいればいいよ。あれがこっちに来ても、隠れてれば平気でしょ?」
「……そしたら、お前はどうするんだよ」
ゆったりと背中を撫でてもらい、少しずつ落ち着いてきた。だけどまだ離れられなくて、顔をうずめたまま、くぐもった声で俺は言う。
「俺が平気でも、お前が平気じゃなかったら、どうすればいいんだよ」
「僕? 僕は大丈夫だよ、クマだもん」
おずおずと顔を上げれば、イヴァンはまったく根拠のない自信を見せ、にこにこと笑ってみせる。優しい表情だからこそ、強さが見えた。
俺を安心させるためにか、イヴァンが体をゆするから、俺たちはまた、ゆらゆら、ふわふわと揺れて、くっついた体があたたかい。
くっ、と胸がつまる。余裕を見せつけられた気がして、悔しい。足を鳴らしたいような気分だ、でも、こいつに怒っても仕方がない。
俺はお前に怒ってるわけじゃないんだ。一緒にいたい、雷は嫌いだから、くっついていたい。
でも、じゃあ、胸がつまるようなこの気持ちは、むずむずして駆け出したくなるような気持ちは、いったい、どうすればいいのだろう。
「……ばか、のろまなクマのくせに!」
「あれれ、もう怖くないの?」
ぱっと立ち上がった俺を見て、イヴァンはおかしそうに笑った。まったく、イヴァンのくせに。
「最初っから、怖くなんかない!」
背伸びして、真っ直ぐぴんと立てた耳。その上を、風がぴゅうぴゅう吹いていく。
雲なんか、風に乗ってどこかへ行ってしまえ。太陽と青い空だけでいい。黒い雲なんか大嫌いだ。
――でも、白い雲は、ふわふわしたイヴァンに似てるから、少しだけなら、あってもいい。
空を見上げて、俺はそんなことを思った。そんなことを思うのは、初めてだった。
「あっ、そうだ、川に行かなきゃいけないんだった」
「練習か?」
「うん、お魚を捕る練習するよ。一緒に行く?」
冬に向けて蓄えなければいけないのは、ふたりとも同じ。イヴァンはやっぱり、血の出るものも食べなきゃならないそうだ。こうして穏やかに過ごしていると、つい忘れそうになるが、やはりクマはクマなのだった。
こんなに優しいイヴァンだが、俺たちウサギからしたら、おぞましく思えることをする。正直、想像もしたくない。考えてしまうと、心臓の音がうるさくなる。
俺があんまりドギマギするからか、イヴァンは最近、魚を捕る練習をはじめた。それならなんとか、俺の心臓も耐えられる。魚には、少し悪いような気もするけれど。
「……つきあってやるか」
「やったぁ、行こう」
大きなクマがむくりと起きる。っぴょん、とその背に飛びつくと、視界がはれて最高だ。
「もう、自分で歩いてよ〜」
「出発進行!」
「まったく、重たいのになぁ」
「イヴァン、あの歌、うたえよ」
「あのウタ、って?」
歩きはじめた背の上で、うろ覚えのまま、でたらめに歌ってみせた。林檎がころころ、ごろごろとかいう、のんきなクマにお似合いの歌を。
イヴァンはひどく愉快そうに笑い、一緒になって歌いはじめる。白い雲みたいな、ふんわりした声、俺はこの声を気に入ってる。
でたらめな歌と、本当の歌、へんてこだけれど重なって、一緒に森を歩いていく。まるで、ふたりしか知らない新しい歌が出来たみたいで、嬉しくってたまらない。
心が踊って、広い背中を蹴った。ぽんぽん蹴っても平気だ、痛くも痒くもないらしいから、何度も飽きずにリズムを打った。
「あはは、ギルと一緒だと、ほんとに楽しいなぁ。それにしても、暑いねぇ……今日は水が気持ちいいだろうなぁ」
「水浴びしに行くんじゃないだろ、ちゃんと練習しなきゃ駄目だからな! ……あっ」
「どうかしたの」
川のせせらぎが、すぐ近くにある。水の音にまじって聞こえた足音に、一瞬、俺は言葉を失った。
穏やかな流れが見えてきた。きらめく水面は今日も眩しく、対岸の景色は、光とともに波打つようだ。懸命に目をこらして、音の出処を探す。
たしかに聞いた気がした、懐かしい足音を。
「……群れだ」
最後尾を行くウサギと、目が合った。いや、俺の勘違いかもしれない、何の反応もなく走り去っていく。
手の届かない対岸にいたのは、初めて見かけるウサギの群れだった。あっという間に森の中へと消えてしまうが、後ろ姿がちらりと光る。
ずっと探していた、白いウサギの群れだ。やっぱり、月の森に住んでいたのか。
「なぁに、なんて言ったの」
「……なんでもない」
「え〜、教えてよ」
「なんでもないったら、なんでもない!」
彼らはクマを避けたのだろうか、それとも、よそ者の俺か。考えても分かりっこない。この森にいれば、いつかまた会う機会はあるだろう。
会いたい、そのはずだ、ずっと探していたのだから。なんだろう、どうして嬉しくないのだろう、すっきりしない。
「……俺、降りる!」
「ん? 勝手に降りればいいじゃない」
「水浴びする!」
「えっ、ずるい」
「だめだ、お前は練習しろ」
頬を膨らませたイヴァンを笑って、背から飛び降り、俺は川へと駆けていった。
水は、期待したほど冷たくはない。水鏡に映った困り顔を、ばしゃばしゃと蹴散らした。
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