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○.

 いつもの森、いつもと同じ道を行く。ふんふん、鼻をならして歩く。最近、なんだか変な気分だ。

 ふんふん、ふん。浮かない僕の足取りに、終わりかけの夏の日差し。けもの道は半分だけ日に照らされている、いやに静かな陽だまりだった。
 暑さを避けて、もう半分の日陰を行くが、僕の背が高いせいで、頭だけは日なたに置いていかれる。

 うつむき、自分の影ばかりを見て歩く。耳の影はまるく、憂鬱そうに上下に揺れた。

 西の山野から、南の丘へと移動するのには、いつもこの小道を使っている。今日はなんだか体がかゆくて、山野の泉で、いつもより念入りに水浴びをした。尻尾の先まで綺麗にしても、まだどこか、むず痒いような心地がする。

 体がおかしいと、気分までへんてこになるものなのだろうか。かなしいような、つまらないような。
 ふんふん、不満げに鼻をならして、あっちへこっちへ、ふらふら。あんまりのんびり歩いていたので、濡れた体もとっくに乾いてしまった。

 今は背中が痒いような気がする。ふと顔を上げた時、道端の若木が目に留まったので、のそのそと近づき、体をこすりつけてみた。
 よいしょ、よいしょと、ひとりで呟きながら、懸命にやってみる。僕の手はけっして短くないのだけれど、どうしてか痒いところに上手く届かないから、背中が痒いと大変なのだ。

 若い木肌はみずみずしく、堅さがちょうどよい。なんだか少しだけ、すっきりしたかもしれない。木の幹に背中をもたれて、瞳は空を見上げた。

 夏が終わるだなんて信じられない、空はより青く、雲はますます白く見えるのに。

「……あ、ウサギみたいな雲」

 すくすくと育った雲が、光のなかで身をくねらせ、上空にいくつか線を引く。すっと伸びた二本が、まるで耳のようだった。

 なんだろう、急に瞳が、きゅうっと小さくなるみたい。変な感じだ。僕の目から何かが溶けて、空に吸いこまれてしまったのかな。自分の身が縮むかと思うくらい、白さが眩しい。

「…………、」

 しばらく空を見ていた僕は、半分くらい、夢の世界にいたと思う。空と僕とで、言葉を使わないおしゃべりをしていた。
 一羽の鳥が視界を横ぎるのをきっかけに、はっと現実の森に戻った。雲はいつの間にか形を変えている、空との会話はこれでおしまい。

 ふたたびけもの道へと戻り、歩きはじめた。ふんふん、鼻をならしながら。
 薄暗い森の出口が見えてきた。明るい場所へと抜ければ、南の丘だ。辿り着いて、深く息を吸いこむ。

 海から来る風が、びゅうびゅうと吹きさらし、光をまきあげ天を統べる。丘は、風と光の王国だった。

「……ギル」

 まばゆい緑のそのなかで、風に臆さず、胸を張り、どこか遠くを見つめる。そんな若いウサギの姿があった。
 僕は急に頭のなかが空っぽになり、考えることを忘れ、しばらく彼を見つめた。

 ――まるで風景の全てが、彼のためにあるようだ。

 君は、今、ひとりで、何を考えているの。君が丘に立っているだけで、空を見つめて、ぴんと背をのばすだけで。僕はどうして、空っぽになるの。

 風と光のなか、君のひとりぼっちが、こんなに眩しい。それはきっと神様が、この森をつくったワケと繋がっている。
 森が生きていること、僕たちが息をしていること。僕が君に見惚れる瞬間に、全ての理由が繋がっていく。

「……きれい」

 ウサギの長い耳が、ぱたぱた、機敏に動いて、僕の存在に気がついた。明るい笑顔をふりまきながら、ギルがこちらを振り向くと、風景がそれにつられて、きらきらと瞬く気がして。

「どうしたんだ、イヴァン」

 離れていても、彼より耳の悪い僕でも、名前を呼んでくれたとすぐに分かった。

 言葉にならない気持ちがあふれて、また、ふっ、と鼻がなる。

「ギル!」

 息が切れるのにも構わず、一目散に駆けていった。

「なんだよ、ベソかきそうな顔して……うわっ」

 どてん、と倒れた僕に、驚きの声が上がる。倒れたというか、わざと転んだというか。僕としては寝転がったつもりだけど、ちょっと勢いが良すぎたかもしれない。

「……かゆい」
「は?」
「背中がかゆいの、困ってるんだ」
「…………ぷっ」

 草の上にぺたんと片頬をつけながら、ギルの笑い声を聴いた。それだけで、もう、どうしようもなく落ち着く。
 ギルはくすくすと肩を揺らし、なかなか笑いが止まらないようだ。

「なんだ、そんなことかよ」

 お腹をかかえて、ひとしきり笑うと気が済んだのか、「よし!」と気合いを入れた。僕の隣に座りこみ、繊細な手つきで、こしこしと背中を掻いてくれた。

「ん〜……もうちょっと強くても大丈夫」
「どうせ俺の力は弱いからな」
「そんなこと言ってないよ! ……ん、きもちいい、ありがとう」

 いつの間にか、僕はもう鼻をならしていなかった。不機嫌な風はどこかへ吹き去り、ほこほことした気持ちが沸き上がってくる。

「どうしたんだ、ずいぶん早いな。まだ空が明るいぞ?」

 痒いところに触ってもらうと、うずうず、体が騒ぐ。我慢しなきゃと背をまるめて、頬を草原にすりつけて。僕は今、すごく我慢をしている、だけどすごく気持ちがいい。

「え? 僕、君と約束をしていたんだっけ」
「おいおい、月を見ようって、お前が誘ったんじゃねぇか。月が昇ってくるところ、見ようって」
「……あぁ、そういえば、そうだったね」

 ギルは動かし続けていた手を休め、僕の背中を何度か叩くと、そのまま顔を伏せてきた。突っ伏して、すぴすぴと鼻を動かす、吐息が当たってあたたかい。

「ギル、怒った?」
「……なんで?」
「僕が忘れっぽいクマだから、怒ったんじゃないの」
「だって、お前はちゃんと来ただろ」

 忘れてたって何だって、お前は遅れず来たんだから、俺は怒ってない。そう言って、愛らしい吐息をかけてくる。

「……ギル〜」
「うわっ、なんだよ急に! 俺様のカッコイイ耳がつぶれたら、どうしてくれんだ!」
「ごめん〜」

 我慢できずに半身をひねり、背中にいたギルを抱きとめた。ちゃんと向かい合ってから、真っ赤な瞳を見つめたくて。

「なんだって、そんな、情けない声だすんだよ」
「首もかゆい……気がする……」
「はいはい、これでいいのか」

 胸のなかから両手をのばして、首の後ろに触れてくれる。
 ふぅ、と気の抜ける僕とは反対に、ギルは真面目だ。いたって真剣に、こしこしと手を動かしている。

 真っ直ぐ見つめる、この目が好き、なんて可愛いんだろう。

「あぁ、きもちいい、ありがとう……」

 真面目な顔を、うっとりと見つめて、僕は胸がうずく感覚にひたった。

 なんだか最近、変な気分だ。もっと味わいたいような気もすれば、我慢ができずに鼻をならす時もあって、自分でもよく分からない。こんな気持ち、ギルにも伝えられるはずがない。

「もういいよ、疲れたでしょ」
「全然、平気だ……でもなんか、眠くなってきたな」
「すずしくって、気持ちがいいね」

 自分の手をぺろりと舐めて、ついでにギルの額も舐めた。お礼の意味をこめて、丁寧に。

 以前はこうして抱きしめることも、舐めることもひどく嫌がったけど、最近はそうでもない。たまに本能を思い出すのか、ウゥと唸って逃げ出してしまうこともあるが、どうやら今日は平気らしかった。頬や、首筋まで、ぺろぺろ舐めても怒らない。

「どこかに行くより、昼寝でもして日暮れを待つか?」
「あぁ、それがいいよ。それなら、約束の時間に遅れない」
「もう会えたんだから、約束も何もないだろ? ……ふっ、ホントお前って……変なやつ」

 すずしいのは風のおかげだ。海で生まれて、山を乗り越え、また新たな海を目指す。風が迷いを吹きとばすように、雲をはらしてゆき、辺りがぱあっと明るくなった。

 隠れるものの無い丘で、照らされるギルが怯えないよう、僕は大きく手を広げ、彼の上へとかざす。

 ギルは何にも気にしていない様子で、穏やかに目を閉じていた。君はもう子どもじゃないから、怯えたりはしないのかな。

 真っ白な顔に、僕のカタチの影が落ち、それでも指の隙間から、滝のような光が降りそそいだ。さらさらと零れおちていく夏の終わりが、幾筋ものせせらぎになって、僕らの隙間を埋めていく。

「だって、君との約束は、やぶりたくないんだ……」

 君の前では、良いクマでいたい。ううん、君の前でこそ、僕は良いクマでいられるみたいだ。

 自分を、より良い存在にしてくれるのが、本当の友達なのだろうか。そう思いながら、僕はギルの頭を舐めた。長い耳の間だけだ、耳に触ると怒られるから。

「わすれんぼうのクマのくせに……」

 ねむたそうな声だ、すっかり耳を伏せている。

「ごめんね」
「あやまるな……怒って、ない……嫌じゃないから……」
「うん……おやすみ」

 空が、新しい雲を連れてきた。やっと手を下ろして、僕も目を閉じる。

 緑の上で、ふたつの体をくっつけて、ついでに鼻先もくっつけて。時々、くすりと鼻をならしながら、一緒にまどろむ。
 ギルも少しだけ、僕の顔を舐めてくれた気がしたけど、確かめる間もなく眠りに落ちた。

* * *