01
 風が止まっている。雨上がりでもないのに、むっとした熱気に包まれて目が覚めた、南国は朝から湿度が違う。

 イヴァンが何かの数を数えている。秘密の暗号を読むかのように、プールサイドに這いつくばって。大きな体が屈んでいると、溶けそうな夏のなかに突然、氷山の一角ができたようだ。

 よろめきながら、ふらふらと近寄って、その背を軽く叩いた。汗の感触が手に伝わってくる。

「ギルベルト、いっぱいアリがいるよ」
「……いるな」
「それだけ?」

 俺の腕を引いて、もっとよく見ろ、と促してくる。仕方なく隣にしゃがみ込んで、蟻がタイルに列をなし、黙々と歩いているのを見た。それだけだ、特に何もない。俺の汗が、行列のすぐ近くに垂れた。

「こんなに大きいの、初めて見た」
「嘘つけ」
「ほんとだよ、僕の家にはいなかったよ」
「……暑い」

 氷山どころか、近づくだけで暑い。薄地の白い半袖シャツに、がっしりした体躯が透けている。まるで体全体から、ふわふわと発熱しているようだ。

「ロ……じゃねえ、イヴァン……水が無いんだが」

 居間の水差しを、誰が空にしたのか、お前は分かっているはずだ。

 くる、っとこちらを向いたイヴァンの、嬉しそうな顔に吐き気がする。実際に、眉間の筋がヒクついた。絶対に吐いたりするものか、水分がもったいない。

 朝起きてからまだ何も口にしておらず、渇きが胃のあたりで収縮している、吐き気はそのせいでもあるのだろうか。

「あれ、飲む?」

 イヴァンが指さしたものは、木陰のテーブルに置かれていた。グラスのなかで、濁ったピンク色をして、とろとろと光っていた。甘みの強そうな果実の香りが、ここまで香ってきそうだ。

「水は……?」
「飲んで、たくさん」

 この男は上機嫌であるほど、有無を言わせない口調になる。

「……もらう」

 この際、液体なら何でもいい、薬品や酒じゃないだけマシだ。甘ったるさを覚悟したら、ぐ、と喉が鳴った。

 外でも食事ができるよう、屋内よりは簡素な円卓が置かれている。生成のクロス、椅子の台座も同色の布張りで、どちらも日に焼けている。くつろぐには良さそうだが、背後に鬱蒼とした緑があり、近寄りがたかった。

 まだ朝だというのに、陽射しが圧倒的な色彩を浮かびあがらせている。棗椰子ナツメヤシ、竜舌蘭、夾竹桃――ブーゲンビリア。

 どこでまでも伸び上がりそうな植物たちは、白い石造りの壁に閉じ込められて、濃厚な呼吸をする。
 花と緑に囲まれたプールを、さらに壁が囲っていた。このスイートは、小さな箱庭なのだ。

 あたりに高い屋根はなく、唯一、椰子の葉の隙間から見える建物だけが、要塞のようにそびえている。おそらくホテルの本館だろう、しかし、ここからは少し距離がある。回廊で繋がっているようだが、配置も何も分からなかった。部屋から外に出たことはない、扉は、俺の意思では開かない。

「それを飲んだら、君に、髪を切ってほしいな」
「……俺の?」
「ふふ、僕の」

 自分の前髪をつまんで、しめると毛先がはねやすいそれを、こんなに伸びたよ、と笑いながら示す。なぜだか子どものように、誇らしげに。

 影すら灼けつく陽の下で、プライベートプールは風もないのに波打ち、俺達のシャツに青い波紋を映していた。イヴァンは透明な汗をかきながら、すっと手を伸ばしてくる。長い指も汗ばんでいた。たやすく俺の首まわりに添わせ、笑顔で言う。

「……暑いね」

 ――汗をかくのも嬉しくて仕方がないのか、馬鹿らしい。

 完全に、ここの暮らしを気に入っている様子だ。イヴァンはふわふわと笑いながら、露骨に無表情になっていく俺と、同じ汗をかきたがる。毎日、毎日。

「触るなよ」

 俺は神経が過敏になっていた――それは、不思議な感覚だった。汗が吹き出て、何もやる気が起きず、怒りすら鈍感になっていく日々の底に、まだ何か、ひりひりと神経を刺激する何かがある。暑さが、俺の感覚を研いでいる。

 太陽の熱が、俺から表情を奪う一方で、俺の意識を高めてもいる。まるで、痛みのように。目覚めた瞬間から、俺は切迫感とともにあった。

 苛々と首元の手を払い除けながら、肌をひりつかせてイヴァンを見つめている。そんな俺に対して、音も無く立ち上がったイヴァンは、どこか感情の抜けた目で微笑んでいた。

「はやく、飲んで」

 逆光のなかから、声がする。そうして俺を置いて、部屋のなかへと歩きだしてしまう。

 俺はテーブルに近づいた。足がふらふらする、一歩一歩、焼けたプールサイドを踏みしめて歩く。濃い草いきれのなかでグラスを手に取り、喉の渇きと矛盾するような、ピンク色に輝く果汁を飲み干した。――いや、まだ底の方に、数滴が残っていた。

「……お前らにもやるよ」

 口元をぬぐいながら、ゆっくりとグラスをかたむけ、手のなかのジュースを零した。列をなす蟻の数匹が、甘い果汁を浴びて動けなくなり、手足をばたつかせている。それでも行列は続くようだ、溺れる彼らを、気に留めるでもなく。

「はやく来てよ、ギルベルト」

 気が遠くなりそうな陽射しのなか、俺は顔を上げ、ふらふらとおぼつかない足取りで、イヴァンのもとへ向かった。