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◇◆ HOTEL RAPHAEL ◇◆



 Now I care for nothing, my son, since I have let thee go, the light of mine eyes.







 俺はこのホテルで、ロシアに飼われている。

 どうでもいいようなデニムと、天竺シャツに袖を通す。用意された衣服のなかに、靴はない。そこまで気が回らなかったか、裸足で歩けということだろう。

 部屋専属のボーイは、いつも無害な顔でこちらを見るが、俺が何を言っても理解できないようだった。それは言語の問題ではない、俺達≠フ特質からして、考えられないことだ。

「……煙草」

 一文無しで、言葉も通じない。部屋からは出られず、煙草の一つも自分では調達できない。

「うん、買ってきたよ」

 小さな箱を俺に手渡して、紙袋を抱えた男は簡易キッチンへと向かう。広い背中を見ながら、これは本当にロシアなのだろうかと、俺は疑問を抱く。

「あとは何が欲しい?」
「……ビール」
「そう言うと思った、ほら」

 男は紙袋をがさがさ揺らして、取り出した瓶を掲げてみせる。得意げな顔に、軽く殺意がわいた、が、俺は黙って火をつける。

 与えられたばかりの煙草を喫った。見慣れない銘柄だ、草のような味がする。ビールの味は飲まなくても分かった、どこでも見かけるロゴは、もはや無国籍と言っていい。どちらも、手掛かりにならない。

 ここは、いったい何処なんだ。地図ぐらい置いておけと、ホテルの名前を睨みつけた。それはグラスの縁に金字で描かれている。ビールを注げば消えてしまう文字の綴りにも、まったく覚えはなくて、内心で頭を抱える。天井では白いファンが、けだるげに回り続けていた。

「ギルベルト、何してるの?」
「あ? 見れば分かるだろ」
「ソファに座って、煙草を喫ってるの?」

 子どものような喋り方で、ふっと笑い、吐息の余韻にだけ、妙に男らしさが透ける。俺は訳が分からないほど苛々して、舌打ちしながらソファに沈んだ。

「ギルベルト」
「撮るなよ、撮ったら殴るからな」
「だったら、名前を呼んでほしいな」

 どうやら自分の名前を呼ばせたくて、わざと俺の名前を連呼しているようだ。あの夜からずっと、ロシア≠ナはなく、人名のイヴァン≠使えと強制してくる。

 要求を無視したまま、俺が目を閉じていると、耳障りなシャッター音が聞こえた。古いカメラで遊びながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる気配がする。

 潮騒は相変わらずだ、近くも遠くもなく寄せて、海はずっとそこにある。吹き寄せてきた風を、何かが遮った。波の音を背景に、気配が、俺の鼻先まで接近した。

 しめった唇が触れて、唾を飲んだら、まだ舌の奥に、ピンク色の果汁が残っているのを感じた。あざ笑うように喉を流れていく。――馬鹿にされている、そう思った。

「……ぶっ殺す」

 頭に血が上って、壊れたように唇を追いかけてしまった。どうしたことだろう、殺意すら、甘い睦言のように響くのは。こんな一瞬が、度々あった。

 南国にだって、たまに透きとおった風が吹く。すると修羅場のはずの有り様が、ただのハネムーンに見えてしまう。――極端なんだよ、お前も、俺も。

「撮らないのか?」

 つい挑発してしまい、最低な気持ちで笑ったら、何処もかしこも卑屈に震えた。

「撮れないよ……その顔、好きすぎて」

 目をひらいたら、予想した以上に酔いしれた顔が、すぐ側にある。

 俺の目の前に立っているこの男は、本当にロシアなのだろうか。ここまで狂ったやつではなかったはずだと、何度も記憶を洗ってきた。

 ろくに喫えなかった煙草をもみ消す。草の匂いがくすぶっているなか、イヴァンの笑顔に鼻先を近づける。

 ――ここは、いったい何処なんだ。表面だけでは分からない。だから、記憶の深みに沈む。目を閉じれば、視界の端で青くきらめいていた海が、消えた。