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◆左手のセギディーリャ
幕が開いたら、乾きが満ちる。どれほどの時間が経っただろう。ぼてりとした重さの緞帳は、眠気を誘うワインレッド。満員の観客にも酔いそうだ、照明が落ちると、着飾った色は混濁を極める。
劇場はまだ新しいらしく、座席の布地には光沢があり、肘置きの木目にも傷ひとつない。新品の香りがする、どこからだろう。それともこれは、劇場という空間特有の、非現実のにおいだろうか。
頭上には、偽りのシャンデリア、そして眼下には、虚飾まみれの人と人と……舞台上の彼等は、“人”と呼んでいいのかどうかも分からない、“役者”という生き物だ。嘘のなかでしか息ができない。
左側に座るギルベルトは、幕が上がる前から会場内に目を走らせては、時折り何かを書き留めていた。誰かを探し、見つけて、観察する。それが本日の仕事なのだろう。
僕の席からは、彼の利き手が見えない。おそらく、それはわざとだ。隣に座る僕に遠慮なく頬杖をついているから、利き手側に置かれた手帳は死角なのだ。
馬蹄形の劇場は、客席がよく見渡せる。彼はまた、手帳にペンを滑らせた。しかし、そんなことはどうでもいい。
オーケストラピットに詰まった演奏者たちの、譜面台だけが仄かに明るく、うつむいた顔が照らされている。爪弾かれるピチカート、跳ねる足音にはとっくに興味を無くした。
自国の舞踊ならば喜んで観たい、群舞の整然さにおいては、何よりも勝ると誇っている。だけど、今夜の自分はただのお付き合いだ、演目を選べたわけじゃない。退屈しのぎに何かをしようにも、こう暗くては。すました横顔を盗み見ることくらいしか、楽しみがなかった。
不意に、彼が顔を近づけてきて、僕に何かを耳打ちしようとする、こういう気だるげな仕草が似合う。僕は首を傾け、彼は視線を前方に向けたまま、囁く。
「……見ろよ、右端の役者……俺のこと見てるぜ」
舞台に目をやれば、本当に、群衆役のひとりがこちらを見ていた。若い女性だ、ジプシーに扮するためだろう、黒く髪を染めている。
「よっぽど暇なのか? 笑えるな」
ささやかな微笑に鼓膜が震えた。そえられていた右手は離れ、胸ポケットに伸びそうになって、止まる。
残念、劇場内は禁煙だよ。なんだ、君だってもう退屈しているんじゃないか。
僕等は何時まで、此処にいればいいのだろう。
「僕だって、さっきから君を見てるよ……飽きちゃったな、このお芝居」
すこし沈黙してから、隣の肩が揺れた、先ほどよりも派手だ。声こそ漏らしはしなかったけれど、可笑しそうに笑う彼は、僕の耳朶を軽くつねって、再び秘密を吹きこんでくる。
「もうちょっとだけ、お利口にしてろ」
芝居も、こんな仕事もくだらない、次の休憩で抜けよう。そう囁いて、首筋をひと撫でしていく右手。
そうだね、早いうちに退散しよう。どうせ演目は僕達には関係なく続く。
ふたりだけの内緒話、君のかすれた声の方が、彼女のアリアよりも甘やかだ。
右手をそっと捕らえてみた、客席が明るくなるまでは、このまま僕の好きにさせてほしいと願いながら。
ギルベルトと腕を組み、舞台の上から彼を見初めた女性に、敬意をこめて熱い視線を送った。役者としての才能は分からないが、僕のギルベルトに目をつけるあたり、なかなか良い趣味をしていると思う。
ちょうど独唱が終わるところだ。熱い拍手を贈ると、彼女は舞台袖に引っ込んだ。
* * *
「ギルベルト、待ってよ。歩くの早いよ」
「お前がとろいんだよ。だいたい歩幅が狭い、長い足してんのに……背筋のばして歩け」
劇場を出て、冬の並木道を歩いていた。木枯らしが吹いて、一枚きり、残っていた木の葉をさらう。
凍えそうな光景が、なぜかきらめいて見えた。嬉しい、いったいなにが、こんなにも胸をはずませるのだろう。
隙間なく黒い雲がたちこめて、星の代わりに街の灯りが、まやかしのように瞬いている。しんと静まった外気は、なにもかもを頼りなく見せていた。吐きだす息は白く、夜空は遥かに遠い。
それなのに、風に踊った木の葉が、前を歩く彼の姿が、訪れたばかりの冬を染める。気分が高揚する。雪が降る前から、嘘みたいに白い、白銀の後姿を追いかけている。こんなに近くて、こんなに遠い。
緻密に張りつめて、はらはらと剥がれ落ちそうな、脆い距離をたどった。硝子よりも透明な憧れに、怯えながら。でも、ずっと、この季節を待っていた気がする。
「……まって」
「何してんだ? 来いよ、隣に」
ときめきに、追いつけない。凍えるのは怖くて、だけど知りたい。氷が融ける瞬間に、火を灯す温度に、触れてみたい。
「はやく来い、イヴァン」
公園のなかを通り抜ける途中、あたりは薄暗く、いつの間にか人影もない。寒々しい木立を背景に、ぽつんと街灯が建っている。今にも消えてしまいそうな光の下で、彼は立ち止まってくれた。
「ごめんね」
「遅い。……寒いじゃねぇか」
冷えきった手が、頬に触れてくる。
「手袋は?」
「なくした」
「どうして」
「理由なんてねぇよ、いらないだろ」
じんじんと頬につたわる冷たさに、なんとかしなきゃと思ったけれど、どうしていいか分からない。赤い瞳に見つめられ、ふっと浮くような感覚にとらわれる。
ギルベルトはしばらく黙っていたが、やがて、いつも以上に白い顔でうつむき、両手を広げる。もう一度ちいさく謝って、僕は、丁寧に彼を抱きしめた。
「……隣り合って座れば、さっきみたいに触れてくるのに、」
「……」
「俺が歩きだすと、隣には来ないんだな。どうしてだ? なんで、俺を先に行かせて、自分は後ろから見てるんだよ」
「……理由なんて、ないよ」
「真似すんな!」
「本当にないんだよ……いや、ひとつだけ、」
街灯の、鈍い光の下、煉瓦敷きの路面に影が落ちている。ふたつの影が。
「君の背中が綺麗だから」
凛とした冬のなかでも、曇りがちになる憧れ。だけど僕には美しく見える、息が詰まるくらいに。その気持ちに嘘偽りはないのに、君に伝えられる気がしない。
誰にもわたしたくない、離さない、だけど、いつも遠い。
「……だから、手をのばしたくなる」
その背を撫でたら、わずかに身じろいだ。僕の手もそんなに冷たいのだろうか。
「…………いくじなし」
乱暴に引き寄せられて、ひんやりと唇が重なる。
身体中が透きとおってしまう感触に、言葉がみつからない。
「あれ、」
「いただき」
「……片方だけでいいの?」
嵌めていた手袋が、するりと抜きとられた。左手、利き手に奪ったそれを着けて、彼はなぜか得意そうに、良いのだと笑う。
「ほら、手」
「……うん」
さしだされた右手をもらうと、繋がれた手は、そのままポケットに突っ込まれる、もちろん僕の上着の。
「もう行くぞ、寒い」
「うん」
やっと隣にならんで、歩きだす。彼は夜空を見上げて、僕は震える木々の、その向こうを見つめて。
行き先は分からない、ここは僕の知らない街で、今夜は彼に付き合おうと決めたのだ。"飲もう"と言われれば飲むし、"愛せ"と言われたら、それを叶えたい。
上着のなか、荒れたままの指で、何度か手を繋ぎなおした。整った横顔を、温もりが交わるまでの間、横目にちらちらと盗み見る。白く染まる吐息がどこか懐かしい。そういえば、この横顔も好きだったなと、思い出させてくれた。
君が言ったことは嘘かもしれない、手袋を失くしたなんて。透明な季節に僕を繋ぐための、優しさかもしれないと、そう思った。僕はいつでも、真実に気づくのが遅い。
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2014/11/11 初出 うこ