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◇恋を埋葬する
雨は、まだ降り続いていた。
屋根をつたい落ちるその音は、もうずいぶん弱くなり、ぽとん、ぽとんと、時間を薄くしめらせている。
もしも、目には見えない"雪融け"にも、音があるのなら。それはこんな音かもしれないと、そう思いながらコートを脱いだ。上着が必要になる季節は、まだ始まったばかりだ。まだ、春を想うには早すぎる。
想うためには、想う気持ちに見合うだけの、離別が必要なのだ。春を待ち望むには、長い長い冬が必要だ、色彩を失う冬が。
それは生きていく上での、いろいろな事にあてはまる。
そう、例えば、煙草を吸うことなんか、まさしく。
「久しぶりだね、ギルベルトくん」
「あぁ、そうだな」
「会うなり一服かぁ」
「悪いな、今日はずっと吸ってないんだ」
我慢したあとの一服は旨い。そう告げて、ぽつんと灯した小さな炎に、細やかな雨垂れの音が重なっていく。
弟や、親しい友人たちの前でなら、会うなりシガレットケースを取り出したりはしないのだが。家族でも友人でもない、イヴァンの前では、俺も選ぶ行為が変わる。
「冷えてきた」
「ここはまだ暖かいよ」
「どこと比べてるんだよ、当たり前だろ」
イヴァンの手から本を奪い、表紙を確かめる。知らない作家だ、どうでもいい。ソファの後ろに投げ捨てたら、「ひどい」と、呆れたような声で笑われた。
一服をしている間は、間で、俺はお前のことを考えているのだ。よそ見をしてもらっては困る。
「……変わりないな?」
「そうだね、相変わらずろくでもない毎日だよ。うん、君も元気そう」
「おう、元気に下働きしてるさ、こき使われすぎて風邪ひく暇もねぇ」
冗談を言いあいながら、二人ともすこし眉尻を下げて、安堵した。
見慣れないホテルの部屋、いつも適当な場所で落ちあうと、たいてい俺は一服しながら、自分の男をじっくり観察した。
くたびれているときもあるし、やたらと整った身なりをしているときもある。どちらも仕事のせいだ。お互い、仕事以外にすることなんて無く、それに不満を言うこともない。
右手の火が消えるのを待たずに、左手を、自分にとっての利き手をのばした。
頬に触れられて、心地よさそうにしているイヴァンが、俺にはとても可愛く見える。
その、可愛さが、何か、どうしようもない欠落のようにも見えた。それがきっと、俺にとっての特別なのだろう。欠けていることに、引き寄せられてしまう。それはまぎれもなく、恋だった、俺にとっては。特別な感情だ。
後悔なんてするもんじゃない、絶対にしない、でも、惹かれあってしまった日のことを思い出すと、いつも半端な気持ちになる。
知らないなら、知らないままでいられたのに。偶然、この頬の暖かさを知った。手触りを、好ましいと思ってしまった。
二人が自由な存在であったならば、嬉しいだけで済んだのだろう。思う存分、好き合えると。それなのに、そうではないのだから、誰かに文句を言いたくもなる。
後悔ではないけれど、小石につまづくような、何かが胸につかえているような気持ちが、いつもつきまとう。
「今は忘れようよ」
「なにを」
「知らないよ、君が考えてることなんて」
「……は?」
「なんでもいいけど、考え事は、今はどこかに置いといて」
イヴァンはまた呆れたような声を出した。しかし、しきりに指を擦りあわせているから、違う、これは焦れているのだと、俺はそう理解する。
俺も苦笑して、灰皿をひきよせた。火の始末が終わると、今度は俺の体がひきよせられる。
「……あぁ、会いたかった」
「いつもいつもそれ言って、よく飽きないな」
「ひとりごと、だもん」
余計なことは言わせたくない、それは俺も同じだ。寂しがらせてしまったのだなと、心苦しくなる。だけど、そうだな、もう言うのはやめよう。そんなことを言っている暇はないのだから。
「さぁ、はじめるか」
「うん……なにを?」
「……とか言って、もう脱ぎはじめてるじゃねーか、お前」
お互い少しずつ、自身の衣服のボタンを外した。生まれていく相手の隙間に、キスを落としながら。
二人とも何がおかしいのか、笑いが絶えない。
やがて空気をくすぐるような、吐息まじりの笑みだけが震え、部屋には再び雨音が帰ってくる。
はじめよう、再会を。儀式なんて大それたものじゃないが、それに近い行為を。
会えない時間の寂しさなど、ひとことも口にはしなかった。二人とも忙しすぎた、そのくせ背負うものが豊かすぎて、露ほども悔いを感じない。他に道など、無い。
お前の一番は俺ではない。
俺が一番、大切に想うものも、お前ではない。
俺は、俺を形づくるもののために、すなわち国民と、彼等を支える大地のためだけに、この身を費やす。時間を消費する。
それでも無限に力はわいてきた、磨り減るものなどなかった。存在意義に従うことは、いつでも幸せに充ちているのだから。
――恋は違う、この身を磨耗させる。
溺れれば、破滅しかない。お前の一番になれるわけでもない、お前を一番にしてやれるわけでもないのに。お互いを捧げ、恋のために生きるなど、不可能だ。
自由にならない己の運命を嘆く、と、人間ならば、そう言うかもしれない。
だが、俺達は人間じゃない。命にすら終わりがないのだから、嘆いても意味がない。
だから、他にどうしようもないから、二人で何度も葬った――恋を埋葬してきたのだ。
俺の胸に顔をうずめている、どこかぎこちないイヴァンの顎に、手をかけ、ぐいと上向けた。
もう熱に浮かされたような顔をしていて、ひどく満足させてくれる。
「あいかわらず、可愛いな」
「……ギルベルト、させてよ」
「ん?」
「好きにさせてよ、止めないで」
返事のかわりに、髪をぐしゃぐしゃにかき乱してやる。すると悔しそうに舌をのばし、ぶ厚い舌をできるかぎり尖らせて、胸の先にふれてきた。濡れていて、熱い。
「ん……」
「ぼくの好きな声、もっと聞かせて」
胸への刺激そのものが心地よいのか、イヴァンの懸命な姿が悦に入るのか、判断ができない。おそらく両方だ。
たまらなくなって、ぎゅうぎゅうと抱きつくと、それも悪戯だと勘違いしたのか、イヴァンは俺の両手首を強くつかみ、動きを殺してくる。そうして、溶けそうな目で、ぼうっと俺の肌を見下ろした。
手首の痛みと、熱い視線に、震えが走る。
あぁ、ぞくぞくする。
「好きにしたい、のか、俺のこと」
「……ん」
「それは、お願いか? それとも命令か」
「……わかんない」
素肌が、すうすうして、ものたりない。呼吸するたび、胸が上下して、胸の尖りが空気に冷やされ、期待はぐんぐんと上を向く。
「わかんないよ、難しいこと訊かないで」
憮然とした顔は、一度手を離してから、しっかり指と指を絡ませてきた。やっぱりそれも、痛いくらい強い。
「……お前の困ってる顔が、可愛いんだよ」
大きな背をまるめて、眉を下げ、必死になって。イヴァンのそんな姿を見ていると、俺のなかで眠っていたものが、ふつふつと目覚めていくのが分かった。
「お願いも、命令もしない、嫌だよ。だって君は……」
そうだな、俺はどちらにも従わない。
「……じゃあ、キスしろ」
「ん」
でも、今この瞬間だけは、全てを許そう。
指とおなじく、舌と舌も触れ合って、すぐに馴染む。当たり前のことだ、何度もこうしてきたのだから。
何度も愛しあい、何度も忘れ、この気持ちを葬ってきた。ひとたび忘れ去れば、決して振り返らず、未練も残さない。
お互い好きなだけ仕事にうちこんで、利害が一致しない場合には、憎みあったりもする。
そうして、墓標すら完全に消え去ったように思えた頃、ふたたび巡り合う。いつもそうだった、自然に連絡を取りあっている。ただの男と男として、数年に一度だけ。
凍った地面を溶かして、丁寧に掘り起こせば、死んだ恋は息を吹き返した。みずみずしく、よみがえっては、いつも驚かせてくれる。思い出せないくらい切り捨てていたのに、触れ合えば馴染んでしまう。この肌が、お前の肌を覚えている、不思議だ。
「手、離せ……俺を、抱きしめろ、掴むんじゃなくて」
「うん」
「もっと、つよく、こわしてもいい」
「……ギルベルト、すきだよ」
そんなこと、知ってる。
眠っていた恋は、目覚めるたび、初めてのように鮮烈に輝いた。なにより美しく見えて、何度でも心を揺さぶられて、手放せなくなる。
溜息をつきたくなる切なさを無視して、夢中で唇を求めつづけた。
こんな瞬間を、何度も味わえるのなら、痛みなど知ったことじゃない。
恋が生まれ変わる瞬間を、何度だってこの目に焼きつけたい。そのためなら、感情なんて何度でも殺せる、こうして、生まれ変わる喜びが待っているのなら。
イヴァンはとてもやさしい、今だけは。
俺も、やさしくしてやれる、今だけは。
ほかの誰に対しても、こんな気持ちにはならない。どんなに愛したとしても、死と再生なんかを、好んで繰り返そうなどとは思えない。途方もなく疲れる、無意味だ。
それでも、お前だけだ。この身を捧げる存在は他にあるが、この心を砕くのは、お前にだけだ。
――くだいて、とかして、ひとつになるまでかきまぜよう。
朝には死んでしまう、恋のために。
何度でも葬られてやる、お前のためなら。
ぽとん、ぽとんと、雨垂れの音がする。裸の素肌に沁みていく。
一旦、口づけを休んで、こつんと額をくっつけた。
やさしい雪解けのなかで、いま息を吹き返したばかりの命は、しずかに笑っていた。
* * *
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※2014年……ハマりたての頃に、自分の解釈をぶつけた話でした、こういう二人でした。
※この頃だけ、週に一度のペースで短編を上げていました。その後オフ活動を始めたこともあり、いつの間にか長編を書く機会が多くなりましたが、短編もまた書きたいです。
※書いた当時の後書きを見つけたので、蛇足ですが、次頁に載せました。