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暑い暑い夏の日。
着慣れた制服で帰り道を友人と二人で歩く。
「比嘉行きたいなー」
道路で半ば叫ぶようにして言ったのは、決して私じゃない。
「うるさいよ、そこのひと」
横に歩く友人を半眼で見つめながら呟くと、彼女はすこしむっとした顔をした後、私の腕にぎゅっとしがみつく。
そして、もう一度。
「比嘉に行きたいーっ!」
と、力の限り叫んだ。
「ちょ、離せ、この変人!」
知り合い認定されたくなくて腕を力ずくで離そうとするけど、さすが運動部。
平均的な体力の私ではちっとも離せなかった。
暫くそんな攻防を繰り返していると、彼女がぱっと手を離した。
「…ま。
無理だって事くらいは、一応解ってるんだけどね」
へにゃりと笑った彼女はふー、と息を吐きながら空を見上げている。
腕をさすれば、彼女がねぇ、と声をかけてきた。
何、と聞けば、彼女は辛そうな笑みを顔中に浮かべる。
彼女のそんな表情は初めて見るものだったから、私は言葉を発することも忘れて息を飲んだ。
「どうして私は、この世界に生きてるんだろう」
呟いた彼女の言葉は当たり前ながらなかったことにはならず、まさかそんな言葉を言われると思っていなかった私は咄嗟に返事ができなかった。
さっきまでうるさいくらいだった蝉の鳴き声が、どこか遠くに聞こえる。
どれほど時間がたっただろうか。
彼女ははっと息を飲んだ。
「ご、ごめん、なんでもない!
じゃ、また明日ね!」
そう言い残して走り去る彼女の背を見て、私はあっけにとられていた。
すぐ真後ろにトラックが迫っている事も知らずに。
騒音に気付いて後ろを振り向いたときにはもう、逃げられない距離に、トラックのライトが迫っていた。
“まずい”
そう思った瞬間、私の意識は落ちた。
目を覚ました時、私は病院のベッドの上だった。
上半身を起こせば、薬品の臭いが鼻につく。
たまたま廊下を通りかかった看護士に気付かれて、暫くすると医者が病室に来た。
脈だとかを測ったり、身体の様子を聞かれたけど、どこも悪いところはないよう感じる。
そういえば私はトラックに轢かれたはずじゃ…?
そう思い出せば、身体に何の痛みもない事がおかしく感じる。
「あの、私、トラックに轢かれたんじゃ…?」
そう聞いてみると、先生は目を丸くする。
「いや、君は海で溺れていたんだよ。
大丈夫かい?」
海?
じゃあ、一体私の記憶はなんなんだ…?
「あ…ごめんなさい、勘違い…してたみたいで」
自分の記憶に違いはないように思うが、医師が嘘を吐く理由も思い浮かばない。
私が誤魔化すと、先生と看護士さんは明日精密検査をする事を告げてから、病室を出ていった。
私はベッドの近くにあった自分の鞄の中を漁る。
生徒手帳を見れば、記憶と変わらない名前と住所が書いてあった。
でも。
携帯の中は何もなかった。
友達と繰り広げたくだらないメールも、着うたも友達のアドレスも画像データも。
全てのデータがなくなっていた。
「嘘…」
呆然としていると、虚しい着信音が響いた。
私の携帯にメールが届いたらしい。
開いてみると、件名には私の名前が書いてあった。
本文に綴られた文字を読んでみると、…なんて事だろう。
開いた口が塞がらない。
“貴女の存在は、我々の都合により、消滅させて頂きました。
これからはこの世界で一人、生きていって下さいませ。
それにあたって、我々の方で住む家と当面の生活費を用意させていただきました。
人間というものが生活費にどれ程掛かるかを我々は存じませんので、足りない分はご自分でどうにかなさって下さいませ。
では、幸福な一生が貴女に訪れますように。”
もうどこを突っ込んでいいのかも解らない。
この文の下に書かれているのがその住所って訳ですか、ん?
「沖縄県」
…え?
私はばっと窓の外を見る。
なんてラッキーなんだろう、看板がよく見える。
沖縄県立那覇病院
と、書かれているのを見て、叫びそうになるのを必死で堪えた。
最早本州ですらないなんて!
検査も無事終わり、私は退院した。
今日新たに来たメールには、バスの乗り換えと地図が添付されていた。
優しいんだか、優しくないんだか。
訳の解らない宇宙人共だ。
正体が解らないからそう言って納得する事に決めた。
そして、一つの家の前に着く。
長家みたいな感じで、どうやら奥の部屋が私の家らしい。
奥に向かいながら、私はある事に気付いた。
鍵が、ない。
流石にこれはメールでは届かない。
どうしろというのだろう。
家の前についてから、一息ついた。
ノブを回してから軽く動かして見れば、思わず安堵のため息をつく。
よかった、開いた。
心の中で呟いて中を見てみれば、何もない綺麗な部屋が広がっていた。
玄関には鍵と通帳と判子、カードが置いてあった。
他にもファイルに家の契約書などが私の名前で用意されていた。
恐らく将来私が一人暮らししたとして、ここまできれいにファイルでまとめたりはしなかったと思う。
宇宙人すごい。
興味本意で通帳を開いてみれば、
「うげっ」
思わずそんな声が出てしまう。
ゼロが、いち、に、さん……なんと七こ。
八こ目の数字を四捨五入すれば、なんと位が一つ上がる。
さっと通帳を閉じて、腫れ物を扱うように元の場所に戻した。
一度書類からは離れて家の中を見て回ってみる。
所謂【1K】の部屋に家具や布団はない。
ロフトがあるようで、収入場所には困らなさそうだ。
…何もない部屋なのに。
クローゼットの中身やキッチン、水回りを見ても何もないので、買い出しは逃れられないようだ。
「…しょうがない。
買いに行くか」
呟けば、誰もいない部屋に少し寂しげな声が響いた。
銀行を出るとき、私は冷や汗が背中に伝うのを感じた。
今まで見た事も、持った事もない金額だ。
諭吉さんが何十人もいらっしゃる。
街に向かって歩き始めれば震える足。
くそ、ビビりだな、私!
自分に向けてそう呟く。
悪魔でも心の中で。
そのタイミングで、人にぶつかった。
正確にはぶつかられた。
ぶつかった相手に引っ張られて思わず手放した鞄。
手ぶらとなってしまった自分の手を見てはっと息を飲めば、駆けていく後ろ姿。
「っ、ひったくり…!」
張ったつもりの声は、口の中で消えた。
鞄の中に、お金もカードも携帯も、鍵まで入ってる。
だめだ、あの鞄一つ失ったら、私はこの世界で生きていけない…!
そう思った瞬間、私の膝は地面についた。
「待ってろ。
なんくるないさー」
私の肩を叩いて、一人の男の子がひったくりを追いかけていった。
瞬間移動でもするかのように走っていくその後ろ姿。
格闘技でもやっているのだろうか、すぐに追い付いたその男の子は、ひったくりを蹴り上げた。
ひったくり犯はやって来た警察に連行されていった。
男の子と二人で事情聴取を受けて、鞄の中で抜けているものはないか確認するよう促された。
現金の入った封筒と、カードと、携帯と鍵。
数少ない持ち物は全て入っていた。
警察にそう伝えるとよかった、と表情を和らげる。
警察が去った後、隣にいた男の子に頭を下げる。
「ありがとう、ございます」
男の子は照れたように笑う。
「気にすんなって。
あにひゃー、本土の人間らしいんどー。
観光で来たらしいんやしが、金が無くなってひったくりしたんだって。
うちなーには、あーいう奴おらんし。
それだけ解ってくれればいいさぁ」
その言葉に頷く。
あぁ、今更になって涙が溢れてくる。
男の子は焦って、泣くなよ、と呟いた。
「ご、ごめんなさい。
…本当に、ありがとうございます」
零れた涙を袖で拭う。
仕草の隙間にそう言えば、男の子は笑っておう、と頷いた。
「もう泣くんじゃないんどー?」
ポン、と私の頭に手を置いてから、男の子は去っていった。
「お疲れー」
そう言って男の子を迎える集団。
あぁ、遊んでた最中なんだ、悪いことしたな。
遠のいていくその背中と金色の髪を見つめて、私は買い物のため、街を歩き始めた。
直近の生活で使う幾つかの物は持って帰宅する。
大半は宅急便だ。
数日のうちに全部の物が届くだろう。
部屋を見ながら買ってきた家具を何処に置こうか悩んでいると、部屋の真ん中に、包みが現れた。
「ひっ」
唐突に表れた包みにびっくりして後ずさるが狭いワンルームに逃げ場はない。
他に頼れる人もいないので、暫く眺めてから近寄ってその包みを眺める。
包みには私立比嘉中学校と書いてあって、私は納得した。
「そっか、学校…行かなくちゃだもんね」
包みの中には制服と鞄、教科書などの学用品が揃っていた。
広げ終わると、メールの着信が響いた。
メールを開いてみると、日付と地図が添付されていた。
日付は一週間後。
一月九日だ。
「私立、比嘉中学校…」
通う事になる中学の名を口にしてみて、引っ掛かるものを感じる。
「私立、比嘉、中学校…?
比嘉」
口の中でその学名を呟いていると、唐突に友人の声が脳裏に浮かんだ。
“比嘉に行きたい!”
「あっ」
解った。
思い出した。
私立比嘉中学校。
ここは、友達が行きたがっていた、テニスの王子様の世界だ。