ぴこん、ぴこん、ぴこん

パソコンから流れる通知音。
営業サポートを職務としている私には、営業さんからの指示出しのメールが分刻みでやってくる。
それを逐一対応したり、対応済みの連絡をしたりとしている訳だが。

「なにやってんの」
「これ違うんだけど」

毎日、毎日、毎日

言われては謝って修正して、そんな日々を繰り返す。
ワーカーホリックになったつもりはないが、なぜか仕事は溢れていく一方で、私の頭の中は仕事一色だ。

疲れた。
そう思い始めたのは、入社してから何か月たった頃だっけ。



帰り道。
ぼうっとしながら歩いていると、いつもとは違う道に辿り着いていた。
社会人になってから越してきた町だけど、あまり冒険をしない質なので歩いたことのない道はまるで分からなかった。
私にわかるのは駅前が少しと家とスーパーの道のりだけだ。

ここどこだろ、と周りを見渡すと、目の前には個人経営の喫茶店がある。
…そういえば、夕食まだだった。

ぼうっとしてしまったばかりに、帰り道にあるスーパーでの買い出しを忘れてしまった。
地図検索をする限りでは家から大きく離れてはおらず、たまには手を抜いてもいいだろうか、と私はその喫茶店を大きな窓から覗いてみる。
窓にはでかでかと店名が書いてあった。

「ぽあろ」

月に行ったのはアポロだっけ。
あれ、それはチョコレート菓子?

あれ、記憶があやふやだなぁ、なんて眺めていると、中にいた金髪の店員さんと目が合った。
なんて顔をしてるんだろう。
あんな綺麗な顔、テレビの中ですら見たことがない。
それくらい、整った顔だった。

店員さんは気付いたらそのドアを開けていて、こんばんは、と微笑む。

「ご来店ですか?」
「え、あ…はい」

反射で頷いてしまった。
いや、入ろうかなと悩んではいたけど。

「時間、まだ大丈夫ですか?」
「えぇ、もちろん。
いらっしゃいませ」

暖かい色の照明に、賑やかすぎない店内の様子が心地いい。
二人掛けのソファ席に案内したあと、店員さんはお冷とメニューを渡してくれた。

メニューにはよく喫茶店にある料理名が並んでいて悩むが、好物であるパスタを選ぶ。
イタリアンレストランで食べるパスタも美味しいが、おうちパスタや喫茶店パスタもそれはそれで美味しい。

家に居ると黙々と家事をしてしまうし、職場は当然仕事をしてしまう。
そうなってくると、こうやって外出するのはアリかもしれない。
多くのことから解放された気がして、少し楽になった気がする。
私は力を抜いて、ソファに体を預けた。

今度は小説を持ってきてもいいかもしれない。
なんて、“次”を楽しみにするのなんていつぶりだろう。

ぼうっとして待っていると、お待たせいたしました、と言葉を添えてサーブされた綺麗な器の上に盛られた美味しそうなカルボナーラ。

「あったかいごはん…」

湯気を見て思わず零してしまった。
そんな私の呟きを聞いて、店員さんがふふ、と笑う。
…穴があったら入りたい。
美味しそう〜とか、もう少し当たり障りなくて可愛い女子らしい感想を呟きたかった。

「是非、温かい内にお召し上がりください」
「はい…ありがとうございます…」

去っていく店員さんの背中を見送ってから、両手を合わせる。

「いただきます」

カトラリーを手に一口目を頬張ると、ソースの味が口いっぱいに広がる。
咀嚼しなくてもわかる、それだけで優勝間違いない。
めちゃくちゃ好みな味です、これ。

「おいし…めっちゃすき」

思わず呟いてしまったが、ちらりとカウンターにいる店員さんを見ても反応はない。
よかった、聞こえてなかったようだ。
こっそり肩を撫で下ろした。

でも、ここまで好みの味を見つけてしまうと自然と頬も綻ぶというものだ。
はしたなくならない程度に全力で満喫しながら…え、待って、ベーコンってこんなに美味しくなるの?
カルボナーラに入っているベーコンなんて大差ないと思っていたのに、塩気もちょうど良くてカリカリ具合も不快でなくソースとマッチして…あーもー、価値観変わる〜。

「え…幸せが過ぎるんだけど」

誰にも届かないように呟いて、両手を合わせてご馳走様でした。
どうせ食べるなら、不味いものより美味しいものがいい。
それは人間としては誰にでもある感情だと思うが、私自身、正直そこまで拘らないタイプだと思っていた。

でも、これは違う。
料理はひとを幸せにできるのだ。
一口口にするだけで、明日も頑張ろうと思えるものなのだ。
そんなことを、アラサーになって初めて知った。

そうだ。
毎週金曜日、夜はここに来よう。
どんなに仕事が辛くても、ここに来ればあったかくなれる。

食後に頼んだコーヒーがまた格別に美味しくて、テーブルに伏せて震えたのは秘密だ。
例え店員さんに変な目で見られていようとも、秘密ったら秘密だ。



***



入ってきた時とは百八十度違う表情を携えて店を出たお客さんを見送って、僕は自分の頬を揉んだ。
久しぶりにここまで自分の表情筋の暴走を恨んだ気がする。

「安室さん?どうされました?」
「いえ、ちょっと頬の筋肉が攣った気がしたんですけど…、気のせいでした!」

梓さんに突っ込まれたのを笑顔でスルーすれば、彼女はやだぁ、言って朗らかに笑った。
そんな梓さんとの会話を終えて今去った客がカルボナーラを食べた時の感想を思い出す。

おいし…めっちゃすき

そもそも、温かい食事に感動していたあたり、職務環境は自身の本職と近いものを感じる。
明日を迎えるのも疲れ切ったような暗い表情。
店の中をぼんやりと見る彼女からは、このまま放っておけばいつか自殺を選ぶのではないだろうか、そんな気配すらした。
公安警察とはいえ、国民を守る職に就いている以上は見て見ぬふりもできず、僕は声を掛けてしまった。

そんな彼女が僕の作った食事を頬張った瞬間に紅潮した表情とあの感想に、思わず頬が緩んだが、彼女からの視線を感じて気を引き締めて誤魔化した。
あんな表情で来店したお客様相手にあの表情を引き出せた自分は今日一番の仕事をしたのではないだろうか。

落ち着いたと思った頃に次の感想を呟き、また落ち着いたころにコーヒーを飲んで机に伏せっていた。
一瞬好みじゃなかったのだろうかと焦ったが、上げた顔はまた紅潮していて、僕の心臓は大きく脈打った。

こう言っては何だが、特別整った顔というわけではなかった。
寧ろ疲れ切った表情から、彼女が持つ本来の魅力は失われていただろう。
それなのに、あの表情を見ただけで、綺麗だと思ってしまった。
また会いたいと、思ってしまった。

また来てくれるだろうか。
その時は、少し話せるといい。

そんな自分勝手なことを考えて、僕は彼女の使用した食器を片付けた。