前編
高校、大学と付き合っている人がいた。
降谷零。
どこの完璧超人だっていうくらいに頭がよくて、運動神経抜群。
人当たりはちょっとペケだけど、基本的には攻撃しなければ反撃してくることはない。
そして顔がいい。
ハーフということもあって外国人の外見を持つ彼は、この日本で生きるのに少々コンプレックスもあるようだが、自分は日本人だと日々豪語していた。
大学卒業して、仕事を始めた頃、警察学校に入学した零くんとは会える機会が極端に減った。
それでも、休みに外で過ごせるようになったときはよく会いに来てくれたし、同じ教場だと言っていた友人も紹介してくれて、いい関係を過ごせていたと思う。
今思えば、仕事を始めていっぱいいいっぱいになった状態の時に、彼と頻繁に会わなかったことが功を成したのではないだろうか。
完璧超人の零くんからしたら、私の悩みなんて絶対に微々たるもので、もし相談しようものなら怒られていたと思う。
そうしたら絶対に私は意固地になるし、初夏は少し体調が悪かったのもあって、恐らく破局までの道のりは最短距離を爆走していた。
だから、秋間近まで持ったのは、幸運だったのかもしれない。
社会人となって約半年が経ち、彼が警察学校を卒業する前、夏真っ盛りの頃、私は彼に呼び出された。
どこの交番に勤務か教えてくれるだろうか。
そしたら、話せなくてもいいから、一度くらい前を通り過ぎたいなぁ、制服姿の零くん見たいなぁ、なんて未来に思いを馳せつつ、久々の恋人との逢瀬にうきうきしていた。
でも、会った時、彼はいつもの表情で迎えてはくれなかった。
「…零くん、どうかした?」
暗く、真顔の彼。
この半年は、会える機会が少なかったこともあって付き合い始めたばかりの頃のような楽しい時間ばかりだった。
久しぶり、の前に、思わず聞いてしまった。
あぁ、と頷いた彼は、待ち合わせ場所から一歩も動かない。
どうしたのだろう、とやや俯いている表情を見るために私は彼の顔を覗き込んだ。
ばちり、と目が合って、彼は表情を歪める。
どうしたの、だろう。
らしくない。
そう思っていると、彼は徐に口を開いた。
「別れよう」
その言葉に、私は目を見張った。
「…れい、くん?」
何を言ったのか一瞬理解できなくて、私はただ、彼を見ていた。
「別れよう、ひな」
もう一度言われた言葉に頭を酷く打ち付けられたような衝撃があった。
「わたし、なにか、した?」
そう聞くと、いや、と否定される。
「僕がもう付き合えない」
歪めた表情のまま、吐き捨てるように、彼は呟く。
「もう、君とはいられない」
ガラガラと足元から崩れ去っていくような気分だった。
このうだるような暑さの中、血の気が下がるのがわかる。
ガヤガヤと五月蠅かった街の喧騒もなぜか耳に入ってこなくて、まるでひとりぼっちになったようだった。
「…そ、か。
わかった…」
気が付いたら、そんな言葉が口をついていた。
本当はなんで、って、どうして、って聞きたかったのに。
でも、私の言葉を聞いて、目を細めた彼はじゃあ、と言って去っていく。
その背は一度も振り返らなくて、彼にとっても私は、もうそういう存在なのだと思い知らされた。
どうしたらいいのかわからなくて、私はひとまず近くのベンチに座った。
何が起きたのか、何が直接の原因になったのか全くわからなかったけれど、七年間大切にしてきたこの想いを、終わらせなくちゃいけないんだと、それだけは、わかった。
「あはは」
もう、何をどうすればいいんだろう。
あまりにも唐突すぎて、涙も流れなかった。
家に帰ってから、零くんのものがたくさんあることに気付いて、どうしようかと思った。
メールで連絡したらもうアドレスを変えたのか、それとも受信拒否されてるのか返ってきてしまう。
電話をする勇気はなかった。
代わりにヒロくんにメールをすると、すぐに彼から電話が掛かってきた。
「ひなちゃん?
どうしたの、ゼロの荷物って…」
どうやら、ヒロくんには何も言っていなかったらしい。
仲のいい二人の事だから、てっきりそんなことも共有していると思っていたけれど。
否、もう零くんにとっては共有するほどの事でもないのか、と自虐的になってしまう。
「…今日、零くんと会って、」
その後の言葉が紡げなくて、息を飲み込む。
「ひなちゃん?」
気を使ってくれる、優しい声だった。
時折、どうして零くんとヒロくんが友達なのか謎に思っていたこともあるけれど、この二人はこの二人だったから、バランスを保てているんだろう。
そして私は、そのバランスを保てる相手にはなれなかったのだ。
あぁ、醜いな、私。
ヒロくんに嫉妬してる。
「…別れたの」
「え…?」
ヒロくんも驚いているのか、二の句が繋がらない。
「メール送ってみたけど、エラーで返ってきちゃったから…。
ヒロくんから聞いてみてくれないかな」
「あ…あぁ、ひなちゃん、大丈夫?」
「ふふ、ヒロくん心配性。
大丈夫だよ。
面倒掛けてごめんね、またね」
そう言って電話を切る。
きっと、ヒロくんと連絡を取ることもなくなるだろう。
零くんがいたから続いていた関係だ。
そうすると、途端に会う友達もいなくなってしまったように思う。
高校でも大学でもそれなりに人付き合いはあったが、しょっちゅう会うような人間関係は構築されていない。
「…気持ち悪い」
吐くほどではないが、吐き気がこみ上げる。
二人掛けのソファに寝転がって、ただ吐き気が収まるのを待っていた。
夜、ヒロくんから荷物は破棄していい、とメールが返ってきた。
そう言われると、すぐに行動する気にもなれなくてそのまま放置してしまう自分がいた。
零くんと別れて一か月ほど経った頃だった。
もともと生理不順で二か月来ないことも多かった。
だが、三か月も来ないとなると流石に不安になったので私はひとり婦人科に向かった。
初めて来た婦人科は当たり前だが女性ばかりで、時折居づらそうに男性が女性に寄りそうにしている。
幸せを掴み、恵まれたひとたちだ。
奥さんを見つめる眼差しは不安と一緒に優しさが伝わる。
「二城さん、三番のお部屋にどうぞ」
そう言われて、一通りの検査を受けた後、女性の医師は私と向かい合って笑った。
「体調は問題ありませんでしたか?」
「え?」
「妊娠三か月ですよ」
そう言った彼女は、一枚の紙を見せながら、今後の注意点をつらつらと教えてくれた。
お医者様の言うことだ、ひとことも聞き漏らしてはならない、とその言葉に耳を傾ける。
「もしも、現在の妊娠を望んでいなくて中絶する場合、早めに教えてくださいね。
二十二週を超えると手術ができなくなります」
中絶、という言葉が、唐突に頭を正気にさせた。
先生と話をした後、どうやって帰ったのかは覚えていない。
ひとり、ソファに座って思い耽る。
お腹の子は、零くんの子だ。
今まで生きてきて、彼以外と関係を持ったことがない。
逆算した時期に行為をした覚えもある。
彼はいつも避妊をしてくれていたが、それも絶対ではないと聞くので間違いないだろう。
私は、どうしたいのだろう。
別れたひととの子供だ。
私は、この子を愛せるだろうか。
お腹に手を当てると、わかる訳がないのに、赤ちゃんがドクドク、と脈を打っているような気がした。
あぁ、この子はもう、ここで生きているのだ。
中絶するのは、この子を殺すということだ。
私は零くんと別れたけれど、まだ、彼のことを嫌いになれていない。
ならば、認知されなくていいから、彼との子を産もう。
彼がひとりで別れを決意したように、私もひとりで決意をしよう。
そう思ってからの行動は早かった。
実家に顔を出して、両親に妊娠したこと、シングルマザーとして生きていくことを決めたと告げる。
当然反対されたし、相手の男は誰だという話にもなった。
私は零くんとの付き合いを両親には告げていなかったので、相手がわかる筈もないのだ。
「相手のことは言わない。
でも、嫌いな人との子供じゃないから、私はこの子を愛せる。
二人が反対しても、ひとりきりででも、私はこの子を育ててみせる」
現実問題、シングルマザーは厳しいと聞くし、私はまだ新卒の身だ。
会社からの当たりもきつくなるだろう。
それでも、私は決めたのだ。
両親との話し合いは数回に渡ったが、結果私の粘り勝ちだった。
母は強しとはこのことか。
恐らく違うが、そんなことを思った。
そのあとは、想像通りの地獄だった。
会社に妊娠を告げれば渋い顔をされたし、祝いの言葉とは裏腹に当たりはきつくなった。
不幸中の幸いだったのは、社全体の方針としてオフィスの縮小、在宅勤務の強化があったので、多少体調が悪くてもパソコンに齧り付いて仕事ができたことだ。
私のそんな様子を見て、渋い顔をしていた人も態度を和らげたのはありがたかった。
仕事の合間に自治体や病院の書類をにらめっこ。
贅沢できるような金銭状況ではないので、貰えるものは貰わねばと手続きもした。
とにかく知識もなにも足りない状況なので図書館やネットで確認できる情報は端から確認する毎日だった。
それでも折れずに済んだのは、小さな我が子のエコー写真と、腹の内側から感じる生命のおかげだ。
零くんの荷物も、存在自体も忘却できるほどに仕事とこの子のことに集中できたのが、この時期の私の人生の幸運だった。
予定日は四月末。
ゴールデンウィークだと病院が高いなぁ、なんてことを考えていたせいだろうか。
陣痛ははるかに早くやってきた。
三月末。
予定日よりにはまだ一か月あるし、と思っていた私は、破水した状況で病院へと搬送された。
病院で丸一日の戦いを終えたときに聞こえたのは、命の灯だ。
ギリギリ正常期ではあるが、予定日よりも随分早く生まれた我が子はすぐに保育器へと突っ込まれた。
男の子ですよ、と口頭で教えてもらって、僅かに見えた肌の色は彼ほどではないけれど褐色のものだ。
あぁ、受け継いじゃったね、と嬉しいような、悲しいような。
高校で褐色の肌、ミルクティーブラウンの髪を持った同級生が居たことを、母は覚えているだろうか。
覚えていないといいな。
家から離れた高校に通っていたから、彼や彼の両親と連絡を取る機会はないだろうが、少し、心配になった。
無事退院した後、一か月は実家で過ごさせてもらった。
名前ははじめ、漢字は朔。
褐色の肌にダークブロンドの髪。
パッチリと開いた目はたれ目で、彼と同じ蒼い色を宿していた。
流石に父親が外国人だとはバレてしまった。
危険な目に遭ったんじゃないか、と心配されたが、本当に何もなく、ちゃんと愛した人との間に出来た子だと辛抱強く伝えることで、どうにか納得してもらった。
自宅で試行錯誤しながら朔と向き合う日々。
一日が積み重なって一週間、一か月、一年と経過した。
泣きたくなる日もあったけれど、生きてこれたのは間違いなくこの子がいてくれたからだった。
ある日、幼稚園に通うようになった朔に聞かれた。
「ねぇママ。
僕のパパはどこにいるの?」
そう聞かれて、私は答えられなかった。
ただ、大切な我が子をぎゅっと抱きしめて、ごめんね、と繰り返す。
この子は彼に似て頭がいい。
高校か大学になっても気になるなら、自分で調べる程度のことはするだろうし、その時私はきっと説明しなくてはならないが、今は、蓋をさせてほしかった。
仕事と育児に忙殺されていた私は、未だに零くんへの気持ちの置き場を見つけられていない。
その日、朔が寝ている間に私は漸く零くんの荷物を朔の手の届かないところへ片付けた。
まだ私には、捨てられる勇気は持てなかった。