君の香り
朝起きると、隣には誰もいなかった。
温もりも既にないあたり、日が昇る頃には既に起きていたのだろう。
すん、と残り香を嗅いでみれば、いつものシャンプーと、僅かに残る香水の香り。
シャワーを浴びる前に致したからかな、と昨夜の彼を思い出せば、お腹の奥と胸の奥がきゅんとした。
もともと彼は香水を使用することはなかったけど、仕事を始めてからは頻繁に利用している。
「安室透らしさ」を印象付けるために。
「潜入先での彼らしさ」を印象付けるために。
「彼らしさ」を消すために。
その三者をリンクさせないために、彼は立ち振る舞いだけでなく香りも意識的に変えていた。
香り酔いと違和感を残さないためにラストノートを寄せているのだから大したものである。
その香りを手元に留めたくて、どこの香水を使っているのか聞いたことがある。
彼はきょとん、とした後に、私の頭を軽く撫でながらはにかんだ。
残念だけど、市販されてないよ、と。
どうやら彼の職場のオリジナルらしい。
この香りを纏えば彼との関係を表すようなものだから、とお裾分けを貰うことも失敗してしまった。
香りと言うのは一瞬で消えるかのようで、記憶に残るものだそうだ。
香りがきっかけで記憶を呼び起こすこともあるらしく、それはプルースト効果と言うのだとその話をした時に彼が教えてくれた。
ならば、私はこの香りを嗅ぐたびに彼を思い出すのだろう。
朝起きるときに残るとすればラストノートだけだ。
どんな仕事をしてきた彼でも、私に残るのはこの香りだけだというのなら、私の知る彼は、彼の真実は、ここにあるのだろう。
あぁ、でも、少しだけ。
香水なんか使っていなかった彼本来の香りが思い出せなくて、それだけは泣きたくなるくらいに悲しかった。
仕事を終えて、社会人になってから細々と通っている喫茶店に行く。
昔は落ち着いた空気だった店内はここ半年ほどで女性が目立つようになり、すこしきゃぴきゃぴとした空気が流れることが増えた。
心地よいコーヒーの香りを肺に詰めれば、その中に微かに感じる香水。
決してお店の雰囲気を壊すことなく優しく香るそれは、正しく安室透そのものだろう。
そっか、今日はポアロでのお仕事だったのか。
そんなことを思って、お冷とおしぼりを給仕してくれた梓さんにドリアと食後のブレンドを頼んだ。
「今日はいつもより少し遅かったですね」
不意にそう聞かれて、えぇ、と頷く。
「退勤直前に取引先の営業が近くまで来たからって来社があって…」
私は総務だがら直接やりとりをすることは少ないが、来社を無視できる筈もなく、応接室に入るならお茶、入らなくても入館証、と悲しいことにやらねばならないことは多い。
結局滞在時間はそんなに長くはなかったが、一分一秒誤魔化すことなく残業を申告して帰ってきたわけだ。
「わぁ…。
お疲れ様でした。
飛び切り美味しいドリア作りますからね、安室さんが!」
「ふふ、ありがとうございます」
そう言ってもらえるだけであの瞬間の自分は救われた。
梓さんはそんな優しい魅力のあるひとだった。
この喫茶店での私と彼は、特出するほどの接点はなかった。
他の常連…上の階に住む毛利探偵や娘の蘭ちゃんたちとは仲がいいようだけど、私は彼とも、その家族たちとも会えば挨拶を交わす程度の間柄でしかない。
もともと私が常連だったこともあり、梓さんから新人さんです、と紹介してもらったポアロで彼と初めて会った時は何の冗談かと思ったほどだ。
何楽しそうに微笑んでるんだろう、この人。
頬つねっていいかな?と思う程度には。
彼が作ったというドリアは美味しかったし、食後に梓さんが淹れてくれたブレンドも非の打ち所がない。
二人とも接客は神レベルだし、なんの文句もない就業後のひと時だった。
レジを打ってくれたのは彼だった。
またお越しください、といつも通り挨拶をされて、はい、と頷く。
お釣りの小銭を渡されたときにより強く感じた独特なラストノートは、私の鼻では混ざったものなのか、混ざっていないのかは分からなかった。
ただ、唐突に朝ひとりきりで目覚める日々を思い出して、私は目頭が熱くなるのを感じた。
彼に気付かれないように、テキパキと、でもいつも通りポアロを後にした。
何日も顔を合わせないことは、定期的にあった。
今までの最長は二か月だが、現在新記録を更新している。
ベッドからも、他の部屋のどこからも彼の香りは消えてしまった。
元々私の部屋には彼の私物を置いていなかったこともあって、何の変哲もない女の一人暮らしの部屋だ。
高校から続いた彼との関係だが、自然消滅も覚悟した矢先、深夜と言っていい時間、彼は硝煙の匂いを携えて部屋に現れた。
見たこともないおしゃれなシャツにループタイ、ベストとチノパン。
私の知っている本来の彼なら絶対に選ばないその服装はどこのモデルだと言わんばかりで見惚れるものではあるが、全体的に汚れやら破損やらで台無しである。
難しい顔をしている彼を問答無用で風呂に押し込むと、ザァザァと少し懐かしい、扉越しのシャワーの音が聞こえた。
ごみ袋をくれと言われて渡したから、きっとその服はごみ袋に押し込められているのだろう。
部屋に残った硝煙の匂いが気になったから窓を開けて換気をする。
春も近くなったが、まだ肌寒い時期で部屋は一気に冷えてしまった。
温かい物でも飲もうと紅茶を入れて、私はテレビを点けた。
点けたテレビは丁度ニュースが流れていて、どうやら速報による特番のようだ。
とある大女優が犯罪者だったとか、烏丸財閥は悪の組織に資金援助を行っていただとか。
結局誰が悪者でどんな悪いことをして、どんなことが起きたの?というまるで要領を得ないニュースだったが、つまりは日本警察頑張ったよ、ということらしい。
日本警察が中心となってアメリカやイギリスの警察組織と連携し、日本で行われた作戦を皮切りに、世界各地で大規模な検挙が行われた、ということだった。
「その時世界が動いた、的な?」
「それを言うなら歴史だけどな」
いつの間にかお風呂から出てきた彼に突っ込まれる。
髪の毛は濡れたままでタオルを被っているが、薄汚い姿からはいつものイケメンに戻っている。
彼の包帯姿はよく見るが、今日はその腹筋を覆うように痛々しく巻かれている。
血が滲んでいないだけましか、なんて見当違いなことを思った。
上はその包帯と素肌を晒しているが、下はグレーのスラックスを穿いているところから、泊りではなくシャワーを浴びに来たのだろう。
ウチは銭湯ではないんだけど、とは思うが、顔を見せてくれたことは純粋に嬉しい。
寒い、と言いながら先ほど開けた窓に近寄る。
窓の外をぐるりと一瞥した様子が見えたが、特にリアクションもなく窓はカラカラと音を立てて閉められた。
どさ、とソファの音を立てて隣に座った彼の髪から水が撥ねて私の肌を濡らす。
思っていた以上にビショビショで、思わず眉根を寄せた。
問答無用でタオルドライしたあと、お風呂場に置いてあるドライヤーを持ってきて、彼の髪を乾かす。
一瞬煩わしそうに首を竦めるが、止める気はないようでその後はニュースを見ていた。
水気も飛んだのを確認した後、ドライヤーを戻して私はまたニュースを眺めた。
新しい情報もないせいか繰り返し同じことを言うニュースを見て、納得したのか彼はテレビを消した。
…それ、点けたの私なんですが。
横に座る私の首元に顔を埋めて、すん、と匂いを嗅がれる。
お風呂に入った後とはいえ、その行動をされるのは複雑だ。
あぁ、でも、身を寄せなくてもわかった硝煙の匂いは消えたな、と考えて、私は今見たニュースとリンクさせた。
「…もしかして、世界動かしてた?」
「僕は歯車のひとつだ」
否定しなかった。
そっか。
ずっと、このために頑張ってたのか、と目を細める。
乾かした髪の毛が頬に触れてくすぐったいが、大仕事を終えてきたというのなら今日は我慢するとしよう。
その背中に左手を回して、首元に寄せられた頭をわしゃわしゃと撫でる。
「頑張ったね、零くん」
そう言うと、彼は私の背中に腕を回して、これでもかというぐらいにぎゅうぎゅうと締め付けた。
そんな零くんの再来から、また彼は昔のように家に顔を出すようになった。
ひと月経った頃だろうか、ある日立ち寄ったポアロで梓さんに声をかけられる。
「ひなさん、実は来週で安室さんがバイト辞めちゃうらしいんです」
彼からは何も聞いていないが、あぁ、ここで働く理由がなくなったんだなぁ、と思った。
そうなんですか、寂しくなりますね。
そんなありふれた言葉を返した後、梓さんに送別会をすることを告げられる。
「ひなさんもお時間あったら是非来てくださいね。
安室さんも来てほしいって言ってましたよ」
どうやらその送別会は毛利探偵たちと梓さんが企画したものだそうで、来るのは鈴木財閥のご令嬢や少年探偵団がメインらしい。
面識がないわけではないが、そこに私がいるのは、私個人としては違和感だ。
だが、彼が来てほしいと言うからには来い、と同義語だろう。
「ぜひ、伺いますね」
そう返して、私と梓さんはまたいつも通りの雑談に花を咲かせた。
来る送別会の日、午後からポアロを貸し切りにして送別会は行われた。
毛利探偵は弟子の門出を祝っていて、蘭ちゃんも寂しさもありつつ笑顔で感謝を告げている。
いい家族だなぁ、と目を細める。
私自身、ポアロに通い始めてそこそこの年月が経つので、蘭ちゃんの成長を思うと感動もひとしおだ。
どうやらこの送別会、少年探偵団であるコナン君と哀ちゃんも米花町を離れるらしく、合同開催だったらしい。
関係の深いこのメンバーの中から三人も一度にいなくなるのは寂しい、と子供たちは時折涙を流していた。
夜になると、就業時間を終えた刑事の方たちも顔を出した。
私は全くと言っていいほど事件に出くわさなかったので、初めましての方ばかりである。
それでも、三人ともいい関係を作っていたんだな、と様子を見て伝わった。
ポアロの閉店時間が迫るころ、子供たちから三人へ送別の品が渡される。
彼は手作りのプレゼントを片手に、子供たちの頭を撫でながらありがとう、とはにかむ。
普段では絶対見れない表情を、心の中でシャッターを押しまくる。
来てよかったかも、なんて現金な自分は秘密です、えぇ。
そんな穏やかな空気の中、荒々しく扉が開く。
ドアに備え着いているベルがけたたましく店内に響いていた。
モスグリーンのスーツを着た男性が店内を見回して、彼を見つけた。
「申し訳ございません。
至急の案件です」
え、と呟いたのは私ではなかった。
「風見刑事?」
「どうしてあなたがここに…」
刑事さんたちが口々に言う様子を見て状況を察する。
店内に現れた男は風見というらしい。
刑事と言うことと、その様子から察するに彼の部下、なのだろう。
彼と言えば、安室さんのように少しだけ可愛げがある風に目を見張った後、目を細める。
「最後までうまくいかないな」
安室透ではない、低めの声が鼓膜を揺らす。
私からしてみれば、聞き慣れた声だ。
でも、周りの人は違うだろう。
人当たりのいい安室透しか知らなければ、その声も、その口調も、聴き間違いだと思うに違いない。
「安室さん…?」
彼に近寄ったコナン君に、彼は彼らしい表情で微笑む。
「悪いね、ここまでのようだ」
よくわからない。
わからないけど、コナン君は知っていたのだろう。
きっと、本来の彼を。
風見刑事の傍に寄って、くるりと姿を翻す。
その時にはもう、声や口調だけでなく、表情も、立ち振る舞いも全てが別の人だと納得せざるを得なかった。
あぁ、降谷零が、帰ってきた。
「初めまして。
警察庁警備局警備企画課、降谷零です」
淡々とした自己紹介は、零くんらしいが、安室透しか知らなかった人は慄くかもしれない。
そもそもが眉が吊り上がっていることもあるし、真面目すぎて融通の利かない性格と言うこともあって傍から見ればただ厳しい人、なのだ。
「け、警察庁!?」
目を見張ったのは蘭ちゃん、刑事さんたち。
「降谷零…って、松田君の!?」
そう呟いたのは女性の…佐藤刑事、だ。
懐かしそうに目を細める彼は、名前を告げれば彼女が安室と降谷をリンクさせることもわかっていたのだろう。
…とは言っても、私は何が起きているのかさっぱりわからないけれど。
分からないけど、彼の警察学校の同期とは警察学校時代に全員会ったことがある。
「あぁ。
プラーミャの事件では顔を合わせられずに悪かった。
流石に首に爆弾を付けられては君たちと会うわけにはいかないだろう?」
その長い指が自分の首を示す。
あの時あったものをなぞるかのように、怪し気に揺れた指先に視線を奪われた。
っていうか、零くん。
首に爆弾を付けられたなんて話聞いたことないんだけど。
「また現場で会うこともあるだろう。
その際はどうぞよろしく」
そう言って話を締めた彼は、風見刑事の開けた扉をくぐるために体を翻…さなかった。
「ひな」
唐突に、まさか、この流れで、名前を呼び捨てで呼ばれて、私はビクリと肩を揺らした。
彼が警察学校を卒業してから、私は彼と外ですれ違っても他人だったし、安室さんはひなさん、とさん付けだった。
家ではよく聞いていたはずなのに、外で呼び捨てにされるだけで落ち着かない、けど、嬉しいこの気持ちが少し悔しい。
元々立っていた私の身体を引き寄せられて、私はその胸に飛び込んだ。
胸板に当たって少し鼻が痛い私の気持ちなんて知らずに彼は呑気に頭のてっぺんにキスをしている。
「帰るときに連絡する。
ちゃんと温かくして寝ろよ」
「え…あ、はい」
引き寄せられた私はどもりながらその言葉に頷いてから気づく。
今日は、香水の香りがしない。
彼の…「安室透」でも、「組織の男」でも、区別するための「降谷零」の香りでもない、彼本来の香りを肺一杯に詰め込んだ。
途端に高校時代、大学時代、社会人になってからの彼との時間が戻ってきたみたいで、緊張が緩む。
「いってらっしゃい、零くん」
腰を折って、今度は私の頬にキスをした彼は今度こそ体を翻して店を出て行った。
風見刑事が店内に向かって一礼をした後、扉はベルを鳴らして閉じられた。
一瞬の静寂の後、店内は一気に騒がしくなり、ほとんど話したことのなかった私とは微妙な空気感だった今日と言う日を一掃するように、全員に詰め寄られることになった。
あぁ、この件に関してクレーム出していいですかね。
大好きな香りを携えて、今日も仕事に向かった彼の背中を思い出して、私は半泣きでみんなの質問に答えるのだった。