君の香り Side_0



食欲と、睡眠欲と、性欲。

食欲は基本的に満たしてる。
睡眠欲はなんとでもなる。
性欲は、我慢もできるが、自分で対処出来る。
それでも、ひとりで対処するには、彼女を知っている分だけ虚しくなった。

そんな虚しさも最初の内は耐えられた。
長く潜入捜査官をやれば精神がやられるというが、そんなことはないと思えるほど自分を強く持っていられた。
だが、虚しさは警察学校の同期がひとりひとり、この掌から零れ落ちていくたびに強くなっていった。

あぁ、こういうことか。

と、誰に言われずともわかった。
大切なものがなくなって、大切なことがわからなくなる。
自分は元々この真っ黒な組織に相応しい人物なのではないかと錯覚していく。
その錯覚に歯止めをかけたのが公安警察としての仕事と、彼女と言う存在だった。

睡眠時間が削られることを前提に、僕はあるときから公安警察としての仕事を意図的に増やした。
同時に、彼女の元に行くペースを増やした。

夜、日付が変わるころに彼女の家に立ち寄った。
時間がある訳ではないが、とにかく彼女に触れていたかった。



情事を終えて、気を失うように眠った彼女の横で数時間眠る。
けたたましい音で鳴るアラームを彼女が起きる前に止めて、腕の中に閉じ込めた彼女を少しの間見つめていた。
頭頂部に頭を寄せて、胸いっぱいに彼女特有の香りを詰め込んだ。
彼女と出会った高校、大学、そして警察学校時代を思い出す。
香りは、一番記憶と密になっている感覚だ。
彼女が居れば、彼女の匂いを胸に詰めれば、僕は俺を忘れない。
僕が成すことを成し遂げるだけの力を得られる。
ひとりきりでも、立っていられる。

僕は今日も、僕ではない香りを纏うけれど。
ここに来れば、僕は僕で居られることは、何よりも心強かった。






その一年は、激動だった。
刑事として先輩である探偵の元にいる少年と、殺しても殺し切れないほど憎いと思っていた相手。
そして他国の面々と共同戦線を張ることになって終結した、僕の潜入捜査。

朝方から作戦は開始されて、日が暮れる頃には大筋は終えていた。
腹部に傷を負ったが致命傷ではなく、逃げた下っ端等事態の収束に務める。

そのまま庁舎に向かって各国の作戦状況を確認しつつ自国の事務処理を行った。
室内は各報告を上げる賑やかさに、時折怒声と機材音が響いていてとても落ち着いているとは言い難かったが、この山を終えれば長年組織に苦しめられた国も、社会も、人にも光明が差す。
そう思えば苦なんてなかった。

そして、このまま泊まり込みでの作業を決めた瞬間だった。

「降谷さん。
着替えてきてください。
入浴と、長くは取れませんが休息も」
「何を言っている?」

この数年間、僕の無茶にも挫けずついてきてくれた右腕、風見に言われて僕は反射で答えた。
どこの誰に休んでいる時間があるというのか。
バカも休み休み言え。

そんな思いで言えば、少し怯んだ表情を持ち直していつもと変わらない真面目な顔にすぐに戻った。

「貴方は先週からほぼ不眠不休だったでしょう」

組織に最後まで残ったNOCは少ない。
僕とキール…水無は必然的に中心とならざるを得なかったし、確かにこの一週間はお互い心身ともに休息はなかった。

「そんなものはいつものことだ」
「それに、我々はこの日の為に、あなたの力になる為に、力を付けてきました」

そう言った風見の後ろから、手元に資料、手元に端末を持った見知った面々がこちらを見て、少しばかり表情を緩めた。

「我々を信用してください」

あぁ。
この男は、本当にいつも真面目で。
気が付けば、すぐ後ろ、すぐ真横にいて。
風見だけじゃなく、彼らも。

僕は、ひとりではなかったのか。

気の置けない仲間たちを皆失って、僕にはもう彼女しか残ってないと思った。
彼女しかいないけれど、彼女は手元に置いてはおけないから結局僕はひとりなのだと、そう思っていたのに。

「っはは」

思わず、笑いが零れた。

「心強い奴らだよ、全く」

そう呟くと、彼らは目を見張った後に、それぞれ顔を見合わせた後、破顔した。
降谷さんって笑えたんですね、は、大きなお世話だ。



朝方までの時間を貰い、事態が急変したらすぐ呼ぶように風見に告げた後、僕は車に着替えを取りに行った。
この車は、警察学校で出会ったやつらに感化された結果購入した大切な車だ。

ゼロ。

僕のことをそう呼ぶ人間はもういないけれど、彼らが生きた証は、他の刑事たちの中に、何より僕の中にしっかりと刻まれている。
後始末が終わったら、あいつらの墓参りに行こうか。

そう思った矢先に、彼女のことが脳裏に浮かぶ。
あいつらと彼女を会わせたのは数えるほどだ。
警察学校時代に何度か、卒業してからは一度だけ。
でも、彼女も横に居てほしいと思った。

墓参りの時だけでなく。
これからの僕の生活の、僕の人生の横に、居てほしいと、願った。

そう思うと居てもたってもいられず、一度庁舎を離れる旨を風見にメールをして、僕は車に乗り込んだ。



庁舎からさほど遠くなかったことと、深夜と言える時間から車通りも少なく、思っていたより早く着いた。
窓を見れば彼女の部屋は煌々と明かりがついていて、自分が酷く冷たいところにいて、彼女が極上に温かいところにいるのだと思えた。

待っていてほしいという訳でもなく、別れを告げる訳でもなく、ただ、こちらの都合のいいときに行くだけの男。
合わせる顔がないな、としみじみ思う。
それなのに、彼女は行けばいつも迎えてくれた。
あの灯のように、温かな笑顔と、その空気で。

チャイムを鳴らすと、物音がしてから扉が開く。
チェーン越しに僕の姿を確認したあとにパタリと扉を閉めた。
何の反応もなかったことに一瞬ひやりとしたが、ガチャガチャとチェーンを外す音が聞こえることに安心した。

難しい顔をしている彼女を見る目が、思わず同様のものになる。
人の感情は鏡合わせと言うのはこういうところから言われるのかもしれないが、気持ちとしてはそれどころではない。
彼女は僕のことをどう思っているのだろう。
そう思った矢先に風呂場へと連行されて、彼女の表情の真意に気付いた。
その汚い服で部屋に入るな、と言いたいのだろう。
ごみ袋を貰って着ていた服を全て乱雑に突っ込む。
この服を着ることはないだろうし、そもそもここまで汚れと破損が重なれば着れる訳がなかった。



入浴後、髪を拭くのもそこそこにダイニングへと向かえば、ニュースを見ているのか今日の大捕物の特番が流れていた。

「その時世界が動いた、的な?」
「それを言うなら歴史だけどな」

某番組名らしきものを呟く彼女に思わず突っ込めば、ぱっと僕の方を見上げた。
彼女が座っていることもあって上目遣いになっていて可愛い、とは本人には言えた試しがない。

不意に風を感じてたから窓を見てみると、全開だった。
まだ夜は冷えるのに、風邪を引きたいのか、と思いつつ窓に近寄って、周りを一瞥してから閉めた。
作戦事はいえ、まだ残党はどこかに潜んでいるだろう。
ピンポイントでここにいるとは限らないが、気を付けるに越したことはない。

いつも二人で並ぶソファに、今日も並んで座った。
髪から滴る水が掛かったのか、視界に入ってきた彼女は眉根を寄せている。
頭に被っていたタオルでわしわしと拭かれた後、ドライヤーの温風を浴び続けた。
乾かし終わった後、ドライヤーを置いて戻ってきた彼女と二人ニュースを眺める。
情報規制したところはきちんと機能しているし、少なくとも今日の時点でこれ以上の情報は出てこないだろう。
各国の様子を見たうえで明日以降どこまで情報を出せるかは検討しなければならない。

このニュースは部下たちが休ませようとしなければ得られなかった情報だ。
そういった面も含め休むのも大切だと解っているが、目の前に仕事が積まれるとついそちらを優先してしまう。
少しは気を付けないとな、と思いつつ、僕はテレビを消した。

彼女の方へ体を向けて、その首筋に顔を埋める。
すん、と匂いを嗅ぐと、いつもの彼女自身の匂いと、僅かに香るシャンプーの匂い。
帰ってきたのだな、と思う。

今回こそ死ぬのではないかと思ったけれど、腹を何針か縫う程度で済んだ。
彼女の視線は一度包帯に向かった後、何も言わないと決めたのかその視線は外されている。

「…もしかして、世界動かしてた?」

不意に言われた言葉に身体的に反応はしなかった。
だが、ニュースと、僕の姿を見て情報を繋げたのだろう。
彼女はそこそこ頭がいい。

「僕は歯車のひとつだ」

国は物事を動かす大きな何かにはなれない。
ただ、この日本を守るための歯車のひとつ。
それが、今の僕を表す全てだ。

背中に彼女の腕が回った。
同時に頭をわしゃわしゃと撫でられて、頬を寄せられる。

「頑張ったね、零くん」

彼女のその言葉に、その声に、無性に泣きたくなって。
でも、泣くわけにはいかない、と、代わりに僕は彼女をぎゅう、と抱き締めた。






作戦からひと月ほど経ってから、僕はポアロを辞めることにした。
辞め時を考え始めたタイミングで、江戸川コナンもあの探偵事務所から姿を消すと聞いたので、いいタイミングだと思ったのだ。
彼の正体を聞けば工藤新一だという。
納得するところもあるし、信じがたいところもあるが、あのエレーナ先生の娘、宮野志保も幼い姿に形を変え生きていたと聞けば、心の殻が少し和らいだような、剥けたような、そんなこそばゆい感情をを与えられた。
生きていてよかったと思えるのは、素晴らしいことなのだと理解した。

送別会には探偵事務所の面々、蘭さんの友人、コナン君の友人らに
彼女も呼んで、随分と賑やかだった。
就業時間を終えた捜査一課の面々も顔を出したこともあり、夜になればアルコールはないはずなのに二次会のような空気になった。

そろそろお開きだろうか。
そう思った矢先に、店のドアが乱雑に開かれる。

扉を開いたのは風見で、窓の向こうには見慣れた車と他の部下が二人。
あと十分あれば、平和にこの場を離れられただろうに。
うまくいかないものだ。

「申し訳ございません。
至急の案件です」

風見は僕の姿を見つけてから、その真面目な表情から言葉を放つ。

「風見刑事?」
「どうしてあなたがここに…」

そんな風見を見て、目暮警部、高木警部補が目を見張った。

「最後までうまくいかないな」

安室の声を取っ払って、呟く。
そうすれば、毛利探偵とコナン君が僕の方を振り返った。
毛利探偵は気付いていた素振りは見えなかったが、妙なところで聡い男だ。
繋がるものがあったのだろう。

「安室さん…?」
「悪いね、ここまでのようだ」

近寄ってきたコナン君に、僕は安室の仮面を取っ払って笑う。

このポアロでの、長いようであっという間の時間が終わろうとしている。
ここにいる全てのひとに謝らなくてはならないことがあるだろう。
それでも、彼ら、そして彼女らのお陰で、僕は僕の為すべきことを成し遂げられた。
この空間に、とにかく感謝したい。

風見の…扉の傍に近寄ってから、店内を振り返る。
表情だけでなく、声だけでなく、この身の全てで、降谷零として。
仕切り直させてもらおう。

「初めまして。
警察庁警備局警備企画課、降谷零です」

目を見開く人もいれば、細める人もいる。
理解が追い付かずに呆けた顔をした人もいた。

「け、警察庁!?」
「降谷零…って、松田君の!?」

佐藤刑事の言葉に、当時を思い返した。

「プラーミャの事件では顔を合わせられずに悪かった。
流石に首に爆弾を付けられては君たちと会うわけにはいかないだろう?」

首輪爆弾の形をなぞるように、首の周りの空気をなぞる。

首にあった爆弾の冷たさと重みが懐かしい。
死ぬつもりはなかった。
殺されてやるつもりも、全く。

それでも、可能性としては覚悟していた、あの日。

一度目を瞑れば、全ては過去のことだ。

再び目を開いたときには、驚きつつも、どこか納得したような表情が並んでいる。

「また現場で会うこともあるだろう。
その際はどうぞよろしく」

そう言って話を締めた後、僕は彼女の元へと歩みを進めた。

「ひな」

彼女に声をかけると、びく、と肩を揺らす。
このポアロで安室としてはずっとさん付けで呼んでいたから周りが息を飲んだのがわかった。
その細い肩を引き寄せて、腕の中に閉じ込める。
彼女の鼻が僕の胸にゴツ、と当たったのがわかったが全力で無視をして頭頂部にキスをする。
深夜に彼女のここに頭を寄せて香りを感じることが常だったからか、それとも身長差故か、落ち着く。

「帰るときに連絡する。
ちゃんと温かくして寝ろよ」
「え…あ、はい」

そう言うと、言葉をどもらせて頷く彼女が愛しい。
すう、と息を吸い込んだ彼女が、再びピクリと肩を揺らした。

気付いただろうか。
今日は、潜入捜査を始めて以来、本当に久々に、香水を付けなかったことに。

「いってらっしゃい、零くん」

ふにゃりと力の抜けた彼女が、そう言ってくれたことが嬉しくて、僕は思わずその頬にキスをした。
彼女の笑顔を見てから、僕は店を出て行った。

風見が扉を閉めて早々店内から騒ぐ声が聞こえたから、恐らく彼女は質問攻めに合うのだろう。
それでも、彼女が別の空気を入れてくれれば、コナン君や彼女、僕が居なくなる今日という日は、寂しさだけでは終わらないはずだ。

「降谷さん、彼女、大丈夫ですか?」

そう聞かれて、口元に笑みを浮かべる。

「半生を僕と共にしてきたんだ。
なんとでもするさ」

こんな僕と付き合えるだけの根性は持ち合わせているのだ。
次に帰るときに文句を言われる可能性はあるが、そろそろ、今までの夜しか会えない状態よりも環境は良くなるはずだ。
彼女とのこれからの生活を楽しみに、僕は手元にある資料を捲った。