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目を覚ました時、私は、自分がどこにいるのかわからなかった。
知らないベッドに寝転がっていた。
顔に掛かっていた布を外し、ふら付く頭を押さえながら起き上がる。
部屋を見回してみても、そこはやっぱり知らない場所だった。
玄関の扉を開けて外に出ても、知らない場所だった。
「どこ…?」
ぽつりと呟いたときに、がさ、とひとが動く音が聞こえた。
音のした方を振り返ると、ひとりの男性が目を見開いて立っていた。
近くにはなにか色々広げられていて、業者のひとが修理か何かしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、彼はくそ、と吐き捨ててから私の腕を引いて駆けだす。
「え」
足が縺れて転びかけると、今度は担がれる。
何が起きているのかわからず、未だに頭がふら付くせいか思考回路が追い付かない。
非常階段を何フロアか降りたとき、上からの轟音と熱風が降りかかってきた。
男性の手から離れ、床に叩きつけられたが、幸いにも踊り場が近かったので少し痛む程度だ。
「っぐ…」
寧ろ、重症だったのは男性の方だ。
上の階から降り注いだガラスが足に突き刺さっている。
「え…」
「怪我は!?」
自分の怪我を顧みず私の傍に寄ってきた彼は、眉こそ痛みを訴えているが、目はしっかりと自我を保っていた。
「だいじょぶ、です」
「っはぁー…」
大きく息を吐いたその人は、上から何か崩れたような音が聞こえて、すぐに立ち上がる。
「自分で立てる?
流石に背負ってあげられそうにないんだ」
長い髪を耳にかけて、そういう彼に私は頷く。
「よし。じゃあ、外を目指そう」
二人で非常階段を下りる。
時折聞こえる轟音と熱風が肌と精神をヒリヒリと焼くようだった。
外に出たとき、マンションの周りは人だかりができていた。
「萩原…!」
そう言って駆け寄ってきたのは、制服を着ているひとたちだった。
どうやらこのお兄さんは萩原というらしい。
私は自分が出てきた建物を見上げる。
高層階から黒煙が上がっているのを見ると、どうやら先ほどの轟音の元凶はあれらしい。
「彼女は…?」
「作業を始めようとした時、彼女が現れたんですよ。
ひとまず彼女を現場から離そうと思ったところで、タイマーなのか、外部操作なのかわかりませんが爆発しました」
くそ、と呟く彼はどこか悔しそうに表情を歪ませる。
「松田の方は終えている。
…偶然とはいえ、人的被害はゼロだ。
よくやった」
いえ、と彼は首を振った。
「それで、彼女は…」
一通り話が終わったところで、主に話していた二人が私の方へ視線を移す。
「既に住民は避難させたと思っていたが…」
完全にルームウェアで部屋にいた格好の私は、首を傾げる。
恐らく二人の会話から察するに、私はあの爆発している付近の部屋にいて、髪の長い人…萩原さんが逃がしてくれた、というところか。
「君、名前は?」
恐らく上司と思われる人が、体も私に向き直して問う。
名前。
思わず反復して、私は口を噤む。
私は、誰だ?
そうした瞬間、ひな、と耳をつんざくような声が聞こえた。
わなわなと震える女性が、私の近くまで掛けてくる。
その目は慄くような、信じられないものを見る目。
でも、どこかに狂気じみた喜びも見える。
この人は、誰だろう?
そう思って見ていると、その傍にスーツの男性が駆け寄る。
「ひな…」
私のことをひなと呼んで、女性の肩を掴んだそのひとも、似たような表情で私を見ていた。
「ひな…わたしの、ひな…?」
「え…」
わたしの、とは。
恐らく四十代の女性と男性はじっと私を見ていた。
わなわなと震える両手を私に差し出す女性に、その肩を抑える男性。
わからない。
このひとたちは、誰?
「…だれ?」
私がそう言うと、二人は目を見開いた。
「なに、言ってるの。
お母さんでしょう?
帰ってきてくれたんでしょう、ひな?」
帰ってきたって、なに。
知らない。
この人も、この状況も。
頭を振ると、女性は表情を歪めてどうして、と叫んだ。
「どうして!どうして!!
帰ってきてくれたんでしょう、お母さんのところに…?
あの藪医者、やっぱり信じるんじゃなかった!
おいで、ひな。
私の大事な子!」
藪医者?
何を言っているの。
訳がわからず、思わず萩原さんの服を掴む。
彼がちらりと私を見たのがわかったが、口を開くことはなかった。
「母さん…!」
声を張って女性を止める男性が、再び信じられない、という顔で私を見る。
なんなんだ、一体…。
「…ひな、なのか?
本当に?」
「私…?」
男性も私をひなと呼ぶ。
でも、ひなって誰?
そもそも、私の名前は、なに?
「…君の名前はなんて言うんだ?」
私の心を読んだかのように、萩原さんに名前を聞かれて、私は頭を振った。
「…私、わからない。
私、なんていうの…?」
私の呟きで状況を察したのか、上司と思われる方の判断は速かった。
「萩原。
お前は彼女と病院に行け。
ついでに治療してこい。
…お二人は、詳しくお話を伺わせてください。
藪医者と言いましたね。
この子がかかっていた病院はどちらですか?」
米花中央病院、と告げられて私は萩原さんと救急車に乗った。
足の治療をしてもらいながら、救急隊員に私のことを説明する。
恐らく記憶障害だと思われること、直近で米花中央病院にかかっているであろうこと、現れた女性と男性の言うことが正しいなら、私は二城ひなという名前だということ。
無線で連絡を取りながら、救急車は進んでいく。
外の様子がわからなかったから時間はわからなかったけれど、そこまで時間はかからなかった。
少し廊下で待つことになったけれど、診察室に通された。
萩原さんは重傷じゃないから、と今は私についていてくれている。
怪我の治療をしてほしいと思うと同時に、一緒にいてくれるのは心強かった。
私を見た瞬間、部屋にいた医師は目を見張った。
口の中で、なんということだ、と呟いたのが聞こえる。
心電図やらMRIなどで検査を受けた後、問診を受ける。
何も覚えていないこと、目を覚ました時に頭が重たかったことだけを告げれば、難しい表情でパソコン…おそらく電子カルテになにか打ち込んでいく。
打ち込んだ後、一度深呼吸してから、壮年の医師は私の方へ向き直った。
「…私は、今日往診先のあなたの家であなたの診察をしました」
重たく開かれた口に、私と萩原さんは黙って続きを聞く。
でも、その次に紡がれた言葉は目を見開くしかなかった。
「診察結果は、午前九時二八分、脳死による死亡を確認」
「…え?」
しぼうを、かくにん。
…死亡?
「二城さん、あなたは七年前交通事故に遭い植物状態でした。
一昨日から容態が悪化していて、一般的に助かる見込みである時間を経過したため、死亡の診断をした形になります」
七年前、交通事故に遭った。
一般的に助かる見込みである時間を経過。
死亡。
親からしてみたら、奇跡の生還…なのだろう、きっと。
自分の腕を見る。
七年寝たきりということは、当然栄養は取れていない。
よく階段を降りてこられたものだと思う。
明日筋肉痛で動けなくなりそう、と頭の片隅で思った。
「…先ほどの心電図、MRI等。
すぐに結果が見れたものから結果を言うと、今のあなたは健康そのものです」
記憶の方は、いわゆる逆行性健忘症らしい。
思い出すのは明日か、それとも何年も先か。
ひとまず、一度は死亡と診断された身の上だ。
身体的に異常がないか数日入院することになった。
上司と私の家族への連絡をしてくる、と萩原さんは案内された病室を後にする。
そろそろ怪我の治療行ってくれないかな、と心配になるが、彼はまだ自分の治療に専念するつもりはないらしい。
萩原さんが戻ってきたとき、一緒に上司の方と両親と思われる二人がやってきた。
「ひな、体は大丈夫なの?」
母という人にいきなり距離を詰められて、私は思わず身を引いた。
先ほどよりは落ち着いたのか、声を張り上げることはない。
「…ごめんなさいね、記憶、ないって…聞、い」
両親というひとたちは、二人とも瞳を濡らしている。
正直、気まずさしかなかった。
ボロボロと目の前で涙を流されるが、何の感慨も湧かない。
「…ごめんなさい。
私の為に泣いてくれてるんだと思うんですけど。
どうしても、理解ができなくて」
もう、なんて言えばいいのかもわからなかった。
今の私にとってこの人たちは、どう考えても他人でしかないのだ。