つむぎが風邪をひいた。

山村さん曰く「夏風邪なので、2日しっかりとお休みしてきますね!」と言っていたらしいから、そこまで酷くはないのだろう。

事務所には小さい子供もいる上に、大勢のアイドル達が出入りをするから、風邪を蔓延させる原因となりかねない彼女の休養は、対応としてはある意味当然でもあった。
今日も桜庭さんから、世間で夏風邪が流行っているとの事で、事務所へ出入りする際には手を消毒するようにとのお達しがあったばかり。各アイドル達は自衛に努めていた。



それなのに、だ。

「……なーんで来ちまったかな。」

何故俺は、彼女の自宅の前にいるのだろうか。





"ごめん、風邪引いちゃった"
"大丈夫か?"
"だいじょぶ、咳が出るから今日からちょっとお休みもらうね。事務所に風邪を持ち込むわけにはいかないし"
"仕事のことは心配するな。…なんかあったらすぐ連絡しろよ?"


この後つむぎから、可愛らしいペンギンのありがとうございますとお休みなさいスタンプが送られて来たのが最後で、トークは止まっている。
一応朝に具合を聞いてみてはいるが、既読にはなっていない。もう夕方くらいの時間帯だが、もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。

つむぎが周りにうつさないように仕事を休んでいるのに俺がここに来てしまっては、彼女の配慮を無駄にしてしまうというのはよく分かっていた。それでも来たのは、自分に風邪がうつることよりも、純粋に心配だったからだ。



彼女から預かっている合鍵を使い、中へ入る。どこかの窓が開いているのだろう、俺のそばを風が抜けていった。

「…つむぎ、寝てるか?」

静かに靴を脱ぐと、そっと室内へ足を踏み入れる。手に下げたビニール袋のカサリという音が、静かな室内に響いた。

「…あ、?」

いるべきはずの住人が、寝室にいない。しかし、もぬけの殻であるベッドにある掛け布団がめくれているのが、少し前までそこに彼女がいたことを示していた。

――もしかして、入れ違ってしまったか?そう思うと少し息を吐いた。

「……どーすっかなぁ、これ。」

手に下げたビニール袋を掲げる。中には、熱が出ても食べれるようにと思いゼリーとスポーツドリンクが入っていた。
とりあえず、冷蔵庫へ入れておこう。報告は後でメッセージを送っておけば良い。…俺が来たことをつむぎが知ったら、きっと怒られるだろうな。そんなことを考えながら寝室を出ようとした


「え、とう…ま?」
「――は?」

洗面所の扉が開き、中からつむぎが顔をのぞかせている。まさかの遭遇に、俺も彼女も硬直してしまった。

沈黙を、ぴちゃりという水音が遮る。はっと我に帰ると、彼女の濡れた髪が目に入った。

「っ、おい、タオル貸せ!風邪引いてんだろ?!」
「え、な、ちょっ…待っ、」

有無を言わせずに彼女が首に下げていたタオルを掴むと、ばさりと頭からかぶせる。抵抗されたが、俺は御構い無しで髪を拭いた。

「あんたさ、何で髪洗ってんだよ。風邪引いてんだろ。」
「寝てたら、汗で気持ち悪くて。シャワー浴びてすぐ乾かそうと思って…。」
「そう、かよ。」
「…心配性。」
「……悪かったな。」

タオルでつむぎの顔は隠れていたが、くすりと笑われた気配がした。少しむっとしたけれど、心配していたのは事実だから、気づかないふりをした。

「冬馬、いつ来たの。」

タオルを外してやると真っ先に言われた。じっと見上げる目が、言いたいことはわかるでしょうと告げていた。…当たり前だ、彼女は事務所へ風邪を持ち込まないために休んでいるというのに。

「…悪ぃ、勝手に来て。」

言いつけを守れなかったのは俺だから素直に詫びた。でも、心配していたことは分かって欲しい。だから、彼女の手を取るとぎゅっと握り、視線を合わせた。

「あのさ、」
「…なんだよ。」
「髪、乾かしてよ。」
「は?」

折角だから、それくらいやって貰えたら嬉しい。そう言いながらへにゃりと笑うつむぎに、俺も思わずつられて笑ってしまう。


「…そうだな、タオルで拭いただけじゃ、風邪引くな。」
「もう風邪引いてるけどねぇ。」
「ったく、それだけ言えるなら十分元気だな。」

えへへと笑う彼女の頭を軽く撫でるとドライヤーを取りに行く。
戻ると、つむぎがソファに腰掛けながら、俺が持ってきたビニール袋を手に嬉しそうにしていた。

「…誰かに心配してもらうって、なんだかくすぐったいものだね。」
「そうか?」
「そうだよ。…どちらかというと、私が心配する側であることが多いしね。」

事務所とかでもね、そう言いながらつむぎは苦笑した。
…確かに。仕事の時の彼女は、自分のことよりも俺たちアイドルのことを第一に考えている。プロデューサーという立場上仕方がないのかもしれない。

「だとしても、今くらいは俺に心配されてろ。」

その、一応、…恋人なんだから。

「……そう、だね。ありがとう、冬馬。」

ぱちりと瞬きした後にこぼれた彼女の笑顔が、あまりにも可愛いものだったから、少しだけ喉がなった。

「…っ、髪乾かすぞ。」

少しぶっきらぼうに後ろを向かせると、ドライヤーを起動する。
そうでもしないと、

(――耐えろ、俺。)

彼女の唇を、奪っていたかもしれないから。

流石に、それは今じゃない。



title:誰そ彼