パンドラの箱。それは神が人類最初の女性に持たせた、この世のあらゆる災厄を収めた箱。彼女はその箱を開けてしまい、世界に災いが溢れたという。



「過去の話?」

事務所の会議室で資料に目を通していた次郎さんが、顔を上げる。その表情からは、言葉にはならない感情が読み取れた。

“315プロにスカウトされる前のお仕事に関わる前のエピソードを教えてください”

そう言って私は、数日前アイドル達に今後の仕事に関わる資料を渡した。次郎さんはたまたまその時居合わせなかった為、今日手渡しをしたところである。

「……嫌でしたか?」
「嫌、というか、」

うーんと唸ると、ガシガシと頭を掻いている。視線は、少し揺れていた。

「因みに過去って、どの位前の話が良いわけ?」
「えっと、予定としては前職の前のお話辺りを予定しています。」
「つまり、教師になる前の話ってことか。」

はあ、成る程ねと資料をめくりながら次郎さんが大きく息を吐く。

「ねえつむぎちゃんさ、どうして過去を知りたいと思ったの?」

資料をデスクに置くと、彼はこちらへ寄ってくる。視線は、ずっとこちらに向けられていて、逸らすことを許されていない気がした。

「私は、今までお仕事ぶりや普段の姿を観させて頂いて、皆さんのことをよく知ってきました。……だけど、もっと皆さんのパーソナルに関わることも知って、深く理解したいと思ったんです。」

口から出た言葉に嘘はなかった。だから、と続けようとした言葉は横に突かれた腕によって遮られた。
私の背は壁に追いやられ、ばんと壁に手を置く音が、嫌に耳に響いた。

「あのさ、」

次郎さんの目元が、細められる。

「つむぎちゃんに、俺の過去を受け止めるだけの覚悟はあるの?」

そういう次郎さんは、今まで見たことない顔をしていた。戸惑いと葛藤と、僅かばかりの拒絶、その全てが混ざり合った表情だ。

「……俺が天涯孤独だってこと前に話したけどさ、過去にそういうことがあったって分かった上で、更にそういう事するの?」

意地が悪いなぁと笑っていたが、私を試すような口振りだった。
どんな茨の道でも、何が飛び出しても、踏み込んで受け止める覚悟はあるのか、暗にそう問いかけている気がした。

「……知りたいんです。私は。」

私は、腕に抱えていた資料をぎゅっと握り締める。

「今まで沢山、山下さんを観てきました。ライブだけじゃなくて、イベントや映画やドラマのお仕事で、色々な山下さんを私は見させて貰いました。……もう、私が知らないのは貴方の過去だけです。」

気持ちを抑えるために、一度息を吐く。

「でも、怖い気持ちが無いって言ったら、嘘なんです。怖いですよ、何が飛び出してくるかなんて予想出来ませんから。凄く酷いことを言っているのも分かっています、それでも、……貴方の事を知りたいって思うのは、駄目ですか?」

きゅっと、唇を結ぶ。次郎さんの瞳が、少しだけ驚いたように揺れた気がした。

「……あのさ、つむぎちゃん。」
「何ですか次郎さん。」
「君って割と冗談が通じない?」
「え、?」

ぽかんと口を開けると、えいとチョップを食らう。若干力が入っていて少しだけ痛かった。

「そんな思い詰めるんじゃないの。流石にそんな重々しいのは出さないよ。……まあ、俺もちょっと悪ノリしすぎたね、ごめん。」

言いながら頭を撫でられる。その手は暖かくて優しかった。

「次郎、さん。」
「これ締め切り迄まだ時間あるでしょ?家に持ち帰って考えてみるよ。」

そう言いながら彼は私から離れて、資料を持って出て行こうとする。私はその背中へ呼びかける。

「次郎さん!」
「……なぁに、プロデューサーちゃん。」
「私、ちゃんと受け止めますから。」


彼は資料を持った手を振りながら出ていく。ばたんと扉が閉まると、私は椅子へ崩れ落ちた。

(冗談なんて言っていたけど、あれは――。)

視線と問いかけは、本物だった。

パンドラは、神から預かった箱を好奇心に負けて開けてしまったという。今まさに、私は彼女になろうとしている。それでも私は、彼の過去を知りたいと願ってしまう。

「……酷い人間だな、私は。」

ぽつりと呟いた声は、誰にも届く事なく溶けて消えた。



(最後に残るものが何なのか、まだ誰も知らない。)