小説なんかでよくある話といえばいくつかある。その中に自分が全く別のものになっているエピソードがある。最近だと、夢の中で入れ替わっていた男女の話なんかが有名だろうか。

「……。」

まあ、ああいう非日常は小説などのフィクションだからこそ成り立つ話。普通はそういうものだ。

「………。」

いざそういうことが我が身に降りかかる時は、神様頼むから事前にアポイントメントを取って欲しい。何でって、受け入れる覚悟をさせて欲しい。そういう事は急に起こるから非日常、確かにそれは正しい。正しいのはよーーーく分かってはいるが、

「……にゃ。」

起きたら猫になっている現実は、どう受け止めたら良いのだろうか。





今日は朝から調子が良くなかった。風邪ではないのだが、熱っぽい感覚。とりあえず薬を飲めばやり過ごせるだろうと思ったが、事務所に着いた途端にプロデューサー…つむぎちゃんにばれた。甘かった。

『こんなにお仕事いっぱいじゃ、休めませんもんね。』
俺の額に手を当てながら呟いた彼女は、とても申し訳なさそうな表情だった。ライブ以降、315プロには出演オファーや取材がぐんと増えた。事務所としてはとてもありがたい事ではあったが、それと同時に全員が休む暇もなく過密スケジュールをこなしていた。

つい先日、しののめがダウンしたのを聞いた。だから心配をかけまいとしたのだが、結果として悲しませてしまった。そんなつもりは、無かったのにね。


そんな訳で、急遽今日明日のスケジュールを全てずらして、何とか休みを確保してもらった。ゆっくり休んで下さいねと事務所から送り出された。

俺はというと、自宅へではなくつむぎちゃんの家へ向かった。何故だろうか、1人だけの部屋に帰るのが心細かったのだ。
事務所にはまだ報告をしていないが、つむぎちゃんと俺は付き合っている。付き合っているとは言っても、たまの休みに一緒に猫カフェに行ったりする、ゆったり穏やかな関係だ。


使い慣れた合鍵で、部屋の中へ入る。彼女の使うシャンプーかはたまた香水か…。ふわりと香る、その空間が俺は好きだった。
上着の中から、着信音が鳴る。はざまさん達から体調不良を心配するメッセージが来ていた。2日間しっかり休みますよと簡単に返し、上着に戻す。

そこで体力の限界が来たようで、ぐらりと視界が回った。
勢い良く倒れ込んでいるはずなのに、周りがおどろく程はっきりと見える。ああ、あの棚の猫の置物は…この前行ったカフェの。

そこで、意識が途切れた。
目を閉じる瞬間、笑うはずのない猫の置物が、笑った気がした。





そして、冒頭に戻る。

目が覚めた時、床がやたら近いとは思った。そして、天井が高い事も。
"あー…気を失ってたわ、"
耳に届いたのは、にゃあという鳴き声。あれ、つむぎちゃん猫なんて飼ってたっけか…、そんな事をぼんやりと考えながら身を起こし、首を巡らせる。

近くにある姿見の中で、茶色の猫が、見ていた。正確には、自分の姿が映るはずの鏡に、山下次郎ではなく、猫が居るのだ。

手元を見る。つやつやとした肉球のある手が見える。猫だ。背後を見る。茶色の尻尾がゆらゆらとしている。どう見ても猫だ。


パニックを通り越して、俺は呆然としていた。こういうのは、そう、つむぎちゃんみたいな可愛い女の子が陥った方が面白い。というかそれを愛でる側で居たいんですけど。どうしてこうなった…。


この状況は、非常にまずい。自宅ならまだしも、勝手知ったる他人のもとい恋人の部屋だ。何か起きる前にここを脱出しないと、でもどうやって?

ぐるぐる回る思考に割り込むように鍵の開く音がする。
ぎくりとしても、もう遅かった。

明るくなる室内。俺は驚いた表情のつむぎちゃんと目があうなり寝室へ逃亡、しようとしたのだが一歩叶わず、あっさりと捕獲されるのだった。


「…何処から入ってきたのかね。迷子、…首輪、ないよね。」
よいしょと膝上に乗せられると、見つめられる。普段だってこうやって近くで見ることはあるのに、いつもと違う距離感にどきりとする。気恥ずかしくて尻尾をぱたぱた揺らすも、彼女には全て可愛い仕草に見えているのだろうか。

「猫さん、」
"なーに、つむぎちゃん。"
にゃあと答えると、小さく首を傾げる。
「…撫でても、良いですか?」
別に断る事でもなかったので、自分から彼女の手へぐいと頭を押し付ける。我ながらあざといことをしていると思った。仕方ない、猫なのだから。
彼女の細い指が頭を撫でる感覚は、人の時に撫でられるそれとはまた違っていて、なんというか、心地が良い。あ、もうちょい右耳かいて。





ひたすら撫でられた後、俺はつむぎちゃんが用意してくれた餌をがっついていた。そして餌をくれた当人はというと、絶賛入浴中だ。


皿からちらりと顔をあげる。そりゃ彼女が入浴しているのだから、気にならないわけがない。正直に言えば、見たい。というか、この姿なら見れる気がした。きっと、怒られないだろう。

などと考えながらも、俺は餌を前にして離れられずにいた。完全に色気が食い気に負けているのだ。それによく考えたら、猫の姿である以上、ご対面以上のことができるわけでもない。それはそれで、生殺しであった。……なんだ、この敗北感は。



食事を済ませると、そのままベットへ上がり小さく欠伸をする。満腹になると自然と眠気がきた。そのままうとうとしていたら、いつの間にかつむぎちゃんが背後から抱きついてきた。


「……猫さん、今ね、お仕事がいっぱいで、毎日毎日がびっくりするくらい早く終わっちゃうんです。」

猫を相手にぽつぽつ話をしていく。答えが返ってくる事は、期待していないのだ。

「お仕事がいっぱいなのは、良いことなんです。だけど、私は皆さんに、忙しい思いをさせてて。…昨日東雲さんが体調崩して、今日は、次郎さんが、具合、悪そうで、」


そういうと、ぎゅうと俺を抱く腕に力を入れた。つむぎちゃんちょっと苦しい、そう鳴いたが、あまり抗議にはならなかった。

「……次郎さん、ごめんなさい。」

休ませてあげられなくて、ごめんなさい。そう言いながら、彼女は静かに泣いた。
頼む、泣かないでくれ。君に泣かれると、どうしようもなく耐えられない。そう思うと彼女の腕の中で無理矢理身体の向きを変えようとした。じたばた動き出した俺に驚いて一瞬緩まる力、それを逃すことはしなかった。


今のこの姿では、頭を撫でてあげることも、抱きしめてあげることもできない。だけど、涙をぬぐってやる事はできる。そう思いながら、俺はひなたちゃんの目元をぺろりと舐めた。ん、しょっぱいね。

「…猫さん、慰めてくれるの?」
返事の代わりに、にゃあと鳴いてみせると、赤くなった目元にふわりと笑顔が浮かんだ。そう、それで良い。君には笑顔が1番だ。


「猫さん、今日の事は2人だけの秘密ですよー…。」

じゃないと、こんなに猫さんと一緒だったって言ったら次郎さんが猫さんに嫉妬しそうですし。そう呟くと、俺をもう一度抱き寄せ、あっという間に寝息を立て始めた。

"…おやすみ、がんばりやさん。"

さっきまで泣いていたとは思えない位穏やかそうな顔に満足げにうなずくと、額に口を寄せ、一緒に目を閉じた。

朝起きたら、人の姿に戻っていたら、いっぱい頭を撫でてあげよう。そう、考えながら。



(朝起きたら、目の前に驚いた顔のつむぎちゃんがいた。その姿があまりにも愛おしくて、何も言わずに抱き寄せた。)

(…良かった、ちゃんと人に戻れたようだ。)