今にして思えば、最低な男だった。
白い石畳と共に、この数年間の言いようもない虚しさを踏み締める。
愛していると簡単に口にする癖に、いざというときは決して彼女を助けてはくれない。
何よりも側にいて欲しい時には姿をくらますのに、どうでもいい時は安い口説き文句を降らせて適当に満足させてしまう。
そういう、ろくでもない男だった。
ジリジリと肌を灼く陽光に目を細める。
日本とは違うカラリとした夏の空気が彼女の身体を取り巻いて、深く空気を吸い込んだ。
攻撃的なまでの太陽の匂いが気管から肺を通って、内側から8月に満たされてゆく。
イタリア、シチリア島。
タオルミーナ市街の喧騒を抜けた先には、ただ雄大な海岸線が続いている。
"崖の街"と称されるだけあってタオルミーナから海岸線まではロープウェイで下りる必要があるものの、その回り道すらも情緒があった。
街を中心にして東側には、島全体を見渡すようにそびえ立つエトナ火山。
西側には太陽のヴェールに覆われてキラキラと輝く白磁の砂浜。
そして、脳天を突き抜ける爽快なレモンの香りが辺りを賑わす。
左手に広がる地中海はどこまでも遠く、世界の果てまで続いているようで。
こんなところまで来てしまった自分の行動力に、なまえは今更ながら驚いた。
どうかしてる、正気じゃない。
それでも、あの男の帰りを大人しく待っていることにも、もう我慢ができない。
ふらりと帰ってきてはまたふらりと姿をくらましてしまう男の姿を脳裏に浮かべ、彼女は憤懣と寂寥をないまぜにしたような気持ちを抱えて、紺碧の海岸線を先へ急いだ。
マッツァーロ海岸の付近に家を持っている。
向かいにイゾラ・ベッラ島が見える崖の中腹にあって、海岸までは歩いて5分程。
いつだったか、連絡も無しにふらりと帰ってきた骸がそんなことを口走ったことがある。
名前以外はほとんど何も素性を明かさなかった彼が唯一漏らした私生活が、シチリアの話だった。
まだ日本に渡る以前に彼が拠点を置いていた場所だと聞いた記憶があるが、いかんせん古い話なので確かではない。
それでも、彼女は陽炎のようにあやふやな記憶だけをパスポートに挟んで、ここまでやって来た。
彼に会って何をしたいのか、ということに簡潔な答えを出すことは難しい。
しかし、言ってやりたい罵倒だけは山ほどあった。
ビーチへ繋がる石畳の階段で足を止める。
つう、とこめかみから首筋へ流れて行く汗をレースのハンカチでぬぐった。
午後3時。
最も太陽がその輝きを増す時刻。
お気に入りの腕時計の文字盤を確認して、辺りを見渡した。
3時─、すなわちシエスタの時間である。
人通りはない、ビーチにはパラソルすらも立っていない。
周囲は静寂に包まれて、ただ眼前にグリーンがかった碧い海が揺れているだけ。
まるでこの美しい島に自分一人だけが取り残されてしまった気がして、白いワンピースに包まれた胸の内がざわつきだす。
不安。
そう、不安なのだ。
飛行機に乗った瞬間から、いや、むしろ日本での生活を全て捨てて航空券を取った時から。
ここに骸がいるという確証はない。
家の話とて、数年前に聞いた話だ。
今でも彼がその住居を大切に守っているかどうかは解らない。
もっと言えば、そこに確かに彼の拠点があったとして。
それでも、彼が今もそこで生活をしているかどうかは解らない。
ぞくぞくと、不安の種は取り除いても取り除いても無限にその芽が顔を出す。
ここに骸がいなかったとして、この旅が空振りだったとして、そうなったらあの男はきっと「馬鹿ですねえ」と笑うことだろう。
寂しさに耐えて、大人しく日常を消費していれば必ず会いに行くのに、と。
─そんなことは分かっていたこと。
じわ、と滲む汗を額に感じながら瞳を閉じる。
脳内で不愉快に薄い笑みを浮かべてこちらを哀れむ男の姿を打ち消して、深く息をついた。
何もない毎日を繰り返してさえいれば、骸は必ず彼女のワンルームマンションに帰ってくる。
なまえ自身が彼を求めて追いかけて行く必要はどこにもない。
それは確かな、そして揺らぎのない事実である。
それでも。
不安に揺れる瞳を慈しむようにゆっくりと瞼を上げる。
そして、なまえはレモンの実ほどの不安と焦燥を抱えて、ビーチへと足を踏み出した。
ジャリ、ジャリ。
細いヒールの先が小石にとられて歩きづらい。
ビーチと言うものだからてっきり砂浜なのだと思い込んでいたが、近くで確認すると、そこは砂というよりは砂利で満ちていた。
ジャリ、ジャリ、右足、左足、また右足、と。
落ち着かない心を押さえ付けながら、きょろきょろと一面の静寂を見渡す。
自分一人だけが無遠慮に大きな音を立てていることが変に気にかかって、余計に焦りが増してゆく。
さぱん、さぶん、ざざ、
寄せては返す波の音ですら、その音を潜めているように感じられる。
音もなく照り付ける太陽の下、海に冷やされた風が音もなくワンピースの裾をさらっていった。
やっぱり─、
音のない浜辺に諦めかけて、白磁の海岸線の向こうへ目を向けた。
三日月のように緩やかな曲線を描く海岸の端は、サンタドレア岬で行き止まり。
諦念に心を侵食されながらも、岬の端へ目を凝らす。
あそこまで行って、海岸の端に立てば諦めがつくだろうか。
陽炎に歪むその場所は、ひどく不安定な人影が佇んでいるようにも見えた。
きっとあれは、その場に立ってこの恋に別れを告げる自分の残像だ。
そんな自嘲を含んだ笑みを口角に乗せて、もう一度岬へ視線を差し向けた。
同時に、ざああ、と一際大きな海風が駆け抜ける。
風にあおられた麦わら帽子が飛ばされないよう、慌てて手で抑えた。
不確かで儚げなその影は突風にあおられることなく、まだその場から姿を消さない。
「─、」
突然にやってきた海上からの夏風が彼女のスカートを揺らす中。
海岸線の端の残像も時を同じくして髪を揺らす。
それはまるで動物の尾のように一つに結わえられていて、海の底のような深い色をしていて、
「─骸!!」
気がついた時には、駆け出していた。
走り難いサンダルを脱ぎ捨て、帽子も放り出して、この数年間ずっと抱えていたもどかしさまでもを放り出して。
滴る汗なのか涙なのか、よく解らない水滴すらも気にならない。
ただ、目前で残像のように気配もなく佇む男だけを見据えて。
人生でこんなにも必死で腕を伸ばしたことなどない。
そう断言できるほどに、その無力な左手を精一杯に残像へ伸ばす。
骨が軋み、神経が痺れても構わない。
あの男を取り逃がすくらいならば、腕の一本などこの島の太陽に捧げてやってもいい。
そうして、その伸びきった左腕が彼の身体を捉えた時。
スカートが大きくめくれ上がってゆくことを気にも留めず、彼女はゆらゆらと揺れる藍色の尾を力いっぱいに握り締めた。
「……」
「……なまえ」
「つかまえ、た……、」
手の平が指通りの良い髪の感覚を得る。
良質なテグスのように輝きを発する歪みない髪の束。
藍色の髪を血の滲むほどに握って、ようやく彼女は顔をあげた。
「久しぶりですね、なまえ」
幻のように綺麗な微笑みを浮かべている男。
六道骸、彼女が追い求めてきた男である。
ともすれば、そのままサラサラと夏の幻になって消えてしまいそうな雰囲気を漂わせる彼を、絶対に逃がすまい、と強く抱きしめた。
かすかに汗の匂いと、むわりとした蒸気がその白い肌から漂ってくる。
普段であれば不快だと一刀両断する男臭さを吸い込んで、なまえはようやくと落ち着いて呼吸ができた。
この存在が不確かな男はまやかしなどではない。
ここに存在するのは、確かに実体を伴った骸であると。
「ふざけないで」
「はい」
「勝手にどっか行っちゃうし、いつ帰ってくるかわかんないし、ひどい時なんか年単位で帰ってこないし、いつも私が……、私がっ!寝てる間に消える、し……、」
「ええ、すみません」
「もう絶対許さないから!」
誰も許可を出していないにも関わらず、コントロールの効かない涙腺は勝手にぼろぼろと大粒の雫を流してゆく。
その輝きを細い指で掬って、彼はもう一度すみません、と微笑んだ。
申し訳なさそうに眉を下げてはいるものの、きっと心の底からすまないなどとは思っていないに違いない。
その程度のことで反省するような男なら、そもそも何年も彼女を置き去りにしたりなどしない。
本当に、サイテー、サイアク、ろくでなし。
本当は、もっと他にも言ってやりたい悪態があったはずなのに、いざ本人を前にすると溜め込んでいた怨念が上手く吐き出せない。
本当、サイテー。
そんな恨みつらみを内心で何とか吐き出しながらも、なまえは更にぎゅう、とそのやや頼りない背中に回した手に力を込めた。
「先に言っとく。帰れって言われても帰らないから」
「それは……困りますね。君も多少は気づいているでしょうが、僕は真っ当な仕事をしているわけではない。南イタリアと言えば、僕が何に関わっているか分かるでしょう?」
骸が何か妙な仕事をしているというのは、ずいぶんと前から気がついていた。
スマートフォンだのPHSだの、そんな物をいくつも持っている上に名前以外のことはほとんど明かさない。
帰りはいつも不定期、一目で尋常でないと分かるアクセサリーの類をじゃらじゃらと身につけている。
クスリの運び屋とか、盗品売買とか。
薄々と何か良からぬ仕事なのだろうと予測はしていたが、まさか"それ"だと言うことにはここに来て初めて思い到った。
南イタリア、シチリア島。
かの有名な「ゴッドファーザー」のロケ地に使われていることからも、その答に用意に結び付く。
シチリア島から発祥したマフィア。
全ての裏社会の頭目、といったところか。
「知ってる。」
しかし、彼が一体何に関わっていようと彼女にとってはさして大きな問題ではなかった。
大切なのは、骸という一個体が二度と行方をくらまさないこと。
ただそれさえ約束されれば、仕事も住居も戸籍の有無もなにもかも、どうでもいい。
そんなことをいちいち気にするようならば、とっくに彼との関係など破綻している。
「私、ただの観光旅行にするつもりないから。そもそも、帰りのチケットも取ってないし。」
「しかし……」
渋るように眉根を寄せる彼に、苛々と聞き分けのない感情が沸き上がる。
骸の言いたいことは察しがついている。
不安定な仕事、血生臭い毎日、いつ死んでしまうか分からない身の上。
その世界に彼女が引き込まれてしまわないよう、これまで身辺事情を明かさずにきたのだ。
そんな中途半端にお人よしな所がろくでなしの所以であるとも知らずに。
「もう骸の言うことは聞かないから!!」
自然と声が大きくなってゆく。
この期に及んで逃げ出すなんて許さない。
そんな執念とも言える炎が彼女の内側でぐらぐらと燃えている。
ざざ、ざぶん。
裸足の足がコバルトブルーの波に冷やされた。
それでも、灯り始めたその火は消えることもなく、午後の太陽の加勢を受けて抑えが効かない。
遂に自身の薄い胸板を力任せに殴りはじめた彼女を見て、骸は一つ、諦めたように息をついた。
「おやおや……もう守るべきものを背負うのは御免だと思っていたのですが。」
やんわりと彼女の拳を受け止めて、その両の手の動きを封じる。
彼の碧い瞳に映るのは、瞳を真っ赤に泣き腫らしたか弱い女。
性格こそきついものの、何の力も持たないただの人間である。
ようやく自分の部下たちに手がかからなくなってきたというのに、と思わず苦笑がこぼれ落ちる。
それでも、彼は小刻みに震えるなまえの背を抱いた。
弱く面倒な人間を背負い込むことなど御免だが、彼女の人生をどこの馬の骨とも知れない者に預けることの方がもっと不愉快である。
常日頃から、彼女との関係はすっぱり切ってしまった方が自分もなまえも楽だ、と気がついてはいたのだ。
彼女のことは、嘘偽りなく好いている。
しかし、自分の正式な恋人としてこちらの世界に迎えてまで守る価値があるかと自問すると、それには素直に疑問を挟む余地があった。
とはいえ、いずれ彼女が他の男と順調に家庭を築き、子を育み、そして死んでいくと考えただけで堪えようのない嘔吐感が喉の奥からせり上がってくるような感覚が襲う。
結局、だらだらと遠距離恋愛のまね事を続けている内に、こうして彼女の方からここへ来てしまった。
ここが年貢の納め時、ですかね。
誰に言うでもなく呟く。
海風にたなびく長い横髪を耳元にかけて、呆れたように口角を上げた。
そうして彼は、軽やかに彼女から身体を離したのであった。
まるで、聞き分けのない女への敗北宣言であるかのように。
「正直、ここまで根性のある女だとは思っていませんでした。」
「わたしも、ここまでぶっ飛んだことできるなんて思ってなかった。」
「でしょうね。……なまえ、目を閉じなさい。」
「え?」
「いいから、さあ、」
意味が分からない、と首を傾げている彼女の瞼に手を翳し、その瞳を閉ざさせる。
そして、完全になまえがその視界を閉ざしたその刹那、パチン!と骨ばった指を声高に鳴らした。
「どうぞ、」
おそるおそる、といった風に瞼を開く。
特段、変わったことはない。
目前で骸が顎に軽く手をやって品定めをするようにこちらを見ていること以外は。
「ふむ……まあまあ、ですかね。」
「な、なに?何なの?」
「君があまりに味気ない服を着ているので、少しいい服を着せてみただけです。」
「は、」
何を馬鹿なことを。
そんな平凡な思考は、足元でたなびく絹のレースを視界に入れた瞬間に、一瞬にして吹き飛んでしまった。
上質な絹のホワイトドレス。
腰のあたりで軽くウエストが絞られて、裾へ向かって白い波のように風をはらんで広がってゆく。
頭に被せられたヴェールはビーチと同じく白く輝き、いつの間にやら左手には銀のリングが瞬いていた。
裾野からヘッドドレスの先まで全て純白に揃えられた衣装と確かな輝きを主張する指輪に、一つのエンディングへの帰結が頭に浮かぶ。
そんな、まさか。
軽くパニックになりかけた頭を整理しようと視線で彼へ助けを求めても、当の悪戯の主犯は訳知り顔でこちらを見下ろすだけだ。
「骸……!」
「君に問いましょう。僕と添い遂げる覚悟はありますか?」
決断を問うその声は、どこまでも甘く傲慢である。
放置したと思いきや、突然の気まぐれで考えを改めて結婚までを求めるなんて。
そのひどく自己中心的な思考に呆然と瞳の色を停止させながらも、彼女の答は既に決まっていた。
「それはこっちの台詞だから!!このろくでなし!!」
豪勢にレースのあしらわれたスカートの重みにも負けず、彼の細身の身体に飛び込んでゆく。
それを少しよろめいて抱えながら、骸は満足そうに、そして同時に覚悟を決めたようにも見える複雑な表情を浮かべた。
この世界で生きていながら、所帯を持つことの愚かさ。
そしてそのややむずがゆい胸のぬくもり。
それらが融けて混ざって一つになって、その藍色の心臓に楔を打ち込んだのだ。
もう、彼女を守るという運命からは死ぬまで逃れられないと。
しかしそれは、なんと甘美な楔であろうか。
「最初に言っておきます。命の保障はしません。僕は最後まで君を守りはするが、それでも必ず守りきれると約束はできない。そういう世界で、そういう仕事です。」
「何度でも言うけど、どうでもいいって言ってるでしょ。いつ帰ってくるかもわかんない恋人を待ちつづけて生きるくらいなら、明日にでもあんたと一緒に死んだ方が何倍もマシ。」
例えそれが、どれほど惨たらしい最期でも。
何も怖くない、と言わんばかりに勝ち気に笑んで、そうっと骸の顔に両の手を寄せる。
白い手袋に覆われたその手は、地中海の太陽の祝福を受けたかのように燦燦と高潔な輝きを持って彼の輪郭を包みこんだ。
ゆっくりと、波の打ち寄せるリズムに合わせて引き寄せられて、彼女に合わせて軽く腰を屈める。
こつん、と触れ合った額は、これまでの空虚な時間を即座に埋めてしまった。
じわじわと広がる熱がこの場所がシチリア島であるとなまえに直接語りかけてくる。
こんなところまで骸を追いかけてきた事実は、決して無駄ではなかったと。
「これでも僕なりに、君を愛していますよ」
「……今日は、珍しく安っぽく聞こえないね。」
「嘘のない言葉ですから。」
彼と住まいを同じくして、その先に何が待ち構えているのかは平和の中にしか存在を許されなかったなまえには想像する術もない。
それでも、今、この瞬間。
例え無骨な銃口がどこかから自分たちを狙っていたとしても構わないとさえ思えた。
それはきっと、この幸福の大きさに比べればレモンの実ほどの苦難でしかないはずなのだから、と。
(伸びてくる腕/六道骸)
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