真夏に屋外へ出るなど、まともな思考ではない。
現在進行形で実感しながら、骸は首筋を流れる汗に眉根を寄せた。
太陽は燦燦とあらん限りの力でもって地上を灼き尽くさんかの勢いであるが、空模様などはあの脳天気な連中には些末事であるらしい。
遠く、プールの15メートル地点で、それ以上は泳げないのか、ひたすらに足をばたつかせて溺れているのか呼吸をしているのか判別つき難い様子で騒いでいる沢田綱吉の姿を視界に入れて、彼はスポーツドリンクをあおった。
沢田の向かいで何やら声援を送る獄寺隼人、山本武、笹川了平、跳ね馬ディーノのけたたましい声が鼓膜を打つ。
どこまで行っても騒がしい連中だ、とペットボトルをパラソルに設えられた簡素なテーブルに置いて、不機嫌げに脚を組んだ。
市民プールなどという訳の分からない空間に連れて来られた事自体が、骸にとっては機嫌を急降下させる一因となっていた。
ただでさえ暑苦しいこの季節、なぜあの暑苦しいボンゴレの連中と連れだって市民プールなぞに赴かなくてはならぬのか、と。
しかし、言葉巧みにクロームを引き込まれてしまっては、彼女の保護監督者としては付いていかない訳にもいくまい。
アルコバレーノと笹川妹、三浦ハルにプールに誘われたと嬉しそうに水着の用意をし始めたクロームを目にしてしまっては、無粋な言葉は瞬く間に封じられてしまった。
あのアルコバレーノのことだ、恐らくは彼自身をおびき出すためにクロームという外堀を先に埋めたのであろうが、その術中にまんまと嵌まってしまったことにも、骸は堪えがたい屈辱を覚えていた。
その上、気温は摂氏35度という相変わらずの猛暑ぶり。
更にはいつもの不愉快ですらあるボンゴレの連中が勢揃い。
暑苦しい笹川兄の極限コールと相まって、骸は史上最高潮にイライラとその瞳を奮わせていた。
「機嫌悪そうじゃん、カルシウム足りてるう?」
「殺すぞ」
「うわっ、なにマジギレしてんの?マジでカルシウム足りてないんじゃない?」
ひょっこりと姿を現した彼女の砕けに砕けた口調に、ガソリンが注がれたような気分に陥る。
ギリ、と赤い方の瞳で睨みつけてやるも、当のなまえはふざけた態度を崩すことなく、彼の隣に腰かけた。
ツン、と鼻をつくカルキの匂いに、骸はさらに眉間に皺を寄せる。
青と白の縞模様のプールマットが、彼女から滴り落ちる水気に侵食されて色濃く染まった。
どうも沢田たちとひとしきりはしゃいできたらしい彼女は、頭の先からつま先までずぶ濡れである。
濡れる、薬品臭い、と文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、彼はなまえの腕で堂々と眠っているおかしな生物を視認し、一旦その口を閉じた。
これは、確か跳ね馬が飼っているおかしな亀ではないか?
瞳を瞬かせて再度呑気に寝ている亀を凝視すると、その視線に気がついたのか、亀はキュウと妙な泣き声を上げた。
「君……その亀……」
「ああ、エンツィオ?さっきね、ディーノさんがプールに落としちゃって肥大化しかけたの。」
肥大化しかけたとあっさりと言うが、この妙な種の亀を水辺に連れて来る事自体がおかしいのではないか。
跳ね馬の危機管理能力はどうなっている。
ほとほと呆れてしまったが、しかしあのはしゃぎ具合では多少のリスクマネジメントがなっていないのもやむなしか。
今日は部下も連れていないようであるし、更にいえば亀が肥大化する未来を面白がってアルコバレーノが連れてきた可能性もある。
いや、むしろそちらの可能性の方が高い。
表情のわかりにくいあの赤ん坊がしたり顔で笑む姿を想像すると、軽い頭痛すら覚える。
ボンゴレはどいつもこいつも頭のネジが数本外れているにちがいない─。
それは、隣で亀のごつごつとした甲羅を撫でている娘も例外でなく。
「ほんと、超危なかったの。エンツィオがどんどん水吸って膨らんじゃって。ゴールデンレトリーバーくらいの大きさになったあたりで大急ぎで抱え上げて、女子更衣室に連れてってさあ、」
「はあ……」
「男子更衣室はドライヤーないんでしょ?」
「ええ、まあ。そうですね」
「だから女子更衣室でドライヤー当てて乾かしてきたの。ね?エンツィオ。」
彼女の膝の上へと居場所を変えた亀は、変わらず眠たげである。
ともすればこの施設を破壊しかねなかった生き物を膝に乗せ、にこにこと甲羅を撫でている彼女には、まったく嘆息しか出ない。
さすがは沢田綱吉の友人。
騒がしい非日常の賜物か、脳のネジが外れに外れまくっている。
しかし、なまえは骸が失礼極まりないことを考えていることをさして気にかけた様子もなく彼のスポーツドリンクを目ざとく見つけ、断りもなしにキャップを開けてしまっていた。
ごくごく、と喉の鳴る音が間近に聞こえる。
ああ、間接キスだ、とぼんやりと考えながら、彼は気怠くテーブルに頬杖をついた。
「人の飲み物に手をつけるとは、さすがはマフィア。頭ともども手癖まで悪いと見える。」
「ケチケチしないでよ、ちょっとくらいいいじゃん。っていうか、そんなに気に食わないなら後でアイス買ってきてあげようか?」
「ハーゲンダッツ」
「はいはいガリガリ君ね。かしこまり〜」
都合のいい耳をしている女だ。
うろんげに見返してやったが、彼女自身は何一つとして介さずにふんふんと鼻歌など歌っている。
この娘も夏の空気に頭を盗塁された類の生き物か、と呆れて息をついた。
その隙にも、プールの15メートル地点での沢田の奮闘は続いている。
遂には"10代目ェ〜!!"とお決まりの獄寺隼人の絶叫が彼らの耳を通り抜けた。
「彼ら、何をしているんですか。先ほどから騒々しい。」
「ツナの水泳指導。あいつ、まだ平泳ぎでは15メートル泳げないからさ。去年の夏にみんなで特訓してクロールでは15メートル泳げるようになったんだけど。」
「そこまでして何故練習など」
クロールで泳げるならば充分ではないか、と口を開いたが、その直後に返ってきた"平泳ぎで15メートル泳げなかったら、体育の時間に女子に混ざってばた足させられるの。"の一言で哀れみの視線を沢田に差し向けた。
女子に混ざってばた足。なんと屈辱的な。
しかし、普通の男子中学生であれば平泳ぎだろうがクロールであろうが、15メートルくらいは難なく泳げるだろうに。
しかしそれができないのが沢田綱吉、そして(アルコバレーノによって)克服に努力を強いられるのも沢田綱吉である。
そんな数奇な運命に導かれてしまった沢田と、そのサポーター達の奮闘ぶりを視界にぼんやりと収め、次いで彼は隣を陣取る脳内常夏女へとその青い瞳の照準を合わせた。
つい先ほどまでは亀の件で目につかなかったが、よくよく見てみればやはりこの女、おかしな格好をしている。
あそこで男のプライドを賭けた戦いに挑む連中はみな水着。20代の盛りである跳ね馬も水着。となれば、さきほど彼らとぎゃあぎゃあと騒いでいた彼女も水着であるのは自明の理である。あるが、
「君、なぜスクール水着なんです?」
濃紺の野暮ったいデザインに、胸元には白いゼッケンで「みょうじ」の文字。
慎ましやかなその身体との相性は抜群ではあるが、これは15メートルを泳ぐことのできない沢田以上に惨めだとすら思えた。
1時間ほど前、連れだってウォータースライダーの方へ走っていった女性陣の姿を脳内で復元する。
揃って露出の多いビキニタイプの水着を纏い、赤や黄、ピンク色などの色彩を連れていたことは記憶に新しい。
きらきらと水辺の飛沫を浴びて愛らしい水着で輝く彼女たちとの対比を想像したものの、あまりに酷でそこで思考を停めた。
いけない、これ以上はあまりにむごい。
隣で繰り広げられる濃紺の惨状から目を逸らしつつも、彼は堪え切れずにクハッと小さく噴き出した。
「う、うるさいな!私だってすっごい可愛い水着持ってきてたの!!」
地雷に触れたか、彼女は瞬時に頬を真っ赤に染めて噛み付いてくる。
ついでに、その膝でおとなしく寝ていた亀まで歯を剥き出しにして臨戦体制である。
なぜ亀にまで威嚇されなくてはならない、と思わないでもなかったが、亀に言及すると面倒である。
品種的な意味でも、飼い主的な意味でも。
しかしながら、亀は置いておいたとしてもこうしてこの娘が烈火のごとく怒る姿は見ていて中々に興を煽る。
にい、と歪つに口端を上げて、更なる追い討ちを意地の悪い脳内で練り上げた。
「ほう、ならその可愛い水着とやら、着ればいいじゃないですか。似合っていれば褒めることもやぶさかではありませんよ。」
「き、着たくても着られないの!」
「なぜ?」
「うっ、」
「ああ、残念ですねえ、君の愛らしい水着姿を拝むことすら許されないとは。」
思ってもいない言葉がスラスラと口をついて出るのは、彼の長所であり短所でもある。
にやりとその麗しい顔を歪めて、更なる精神打撃を加える彼にたじたじとしながらも、なまえはうんうんと唸りながら懸命に亀を触って心を落ち着けようと必死である。
ちらり、上目遣いにその視線が骸を窺う。
にっこりと人のいい笑みを浮かべて、彼はその臆病な瞳に応えた。
「んん〜、笑わない……?」
「ええ、もちろん。」
数秒。
間が開いたその後、彼女はおずおずと小さな口を開いた。
頬は変わらず熟れた夏の日差しとの相乗効果で色づいているが、それはもはや怒りではなく恥じらいからである。
ぽつりぽつり、と一言づつ言葉を落としてゆく彼女に、骸は満足げに頬を緩めた。
醜悪で意地悪で、最低な男の顔をして。
「あの……、胸囲が足りなくて、」
「ふむ、水着が小さかったのですか?」
無論、結末はそうでないことなどとっくに理解している。
しかし、その屈辱的な言葉を彼女の口から言わせることに背筋が震えるような快感を覚える。
そう、胸囲。
彼女が何よりもコンプレックスとしている部位であり、365日24時間気にかけている問題である。
にやり、醜悪にも緩む頬は止められない。
プールサイドでする会話としては、最高に愉快である。
そうして彼が下卑た笑みを浮かべていることにも気がつかず、俯きがちの彼女はおずおずと唇を開く。
「い、いや、あの……、」
「ええ、」
「サイズじゃなくてふ、膨らみの方が足りなかったというか……」
そこまで聞いてしまっては、もはや笑いを堪えることはできなかった。
「クッ、クハハハハハハハハ!!胸が足りない!!身の程も知らずに水着など買うからですよ!!君などスクール水着で充分です!!」
「ばっ、馬鹿あ!!!!!笑わないっていったじゃん!!!笑わないっていったじゃん!!!!」
クハクハと大爆笑を始めた彼の隣では、彼女はもはや涙目である。
先程までの楽しげな表情が見る影もなく歪んで目元を真っ赤にしている様など、誰に何と言われようとおもしろくて仕方がなかった。
もっと言えば、カップが足りずにかぱかぱと不格好に胸元から浮いている水着を哀しげな瞳で眺めている彼女の様子など、想像するだけで腹がよじれる。
盛大に馬鹿にして笑っていた彼であるが、しまいにはなまえはすっかりしょげてしまい、ぐずぐずと鼻を啜って骸の背中にしがみついてしまった。
とことこと、膝から下ろされた亀が彼女を慰めるようにブエェ、と鳴き声を上げる。
その様子を興冷めしたように眺めながら、骸は背後を陣取る彼女の頭をわしわしと乱暴に撫で回した。
「何を泣いているのです。僕がこうして君を馬鹿にするなど、分かりきっていたことでしょう。」
「分かってた、けど、」
「ええ、」
「張りきって水着用意したことまで馬鹿にされると悲しいの!!」
ぐずぐずと変わらずに鼻を鳴らしている彼女を見、そしてシャア!と骸を威嚇し。
亀は亀で忙しい。
しかしながら、すっかり意気消沈してしまった彼女のメンタルを沢田達の元へ帰すことができる程度には回復させなければならない骸もまた、亀に勝るとも劣らず忙しい。
がしがしと乱暴に背中にしがみつく彼女の頭を撫でつつ、その心臓をあやしつつ、彼は彼女の言葉の続きを待った。
「今日、骸も来るってリボーンに聞いたから可愛い水着買ったの!」
「 」
閉口。
まさに閉口である。
不意打ち的に見せられたそのいじらしい好意に、じわじわと背中から伝わる少女の体温に、溶かされてゆく気さえする。
そうか、そこまで今日という日に気合いを入れていたか。
そう考えると心底おかしいという気持ちにもなるが、この娘が心底愛らしいという気持ちにもなる。
これは少し悪いことをしたか─。
珍しく自身の意地の悪さを反省して、彼は彼女の名前を呼んだ。
「なまえ、顔を上げなさい。」
「いや」
「なら、そのままで結構。一度しか言いませんからよく聞きなさい。」
無鉄砲で意地っ張りで男勝りで粗野で。
女として愛らしい性格でないことは万人の認めるところであるが、こうして時に娘らしい思考、行動を起こす所は可愛いと言えなくもない。
何だかんだと彼女が自分を好いているらしいことには気がついていたものの、恥ずかしがり屋で負けず嫌いの彼女は自分に大きなアピールをしてこない。
しかしそれが今日、こんな形で彼女の乙女らしい一面を垣間見てしまうことになろうとは、さすがの骸にも予測ができなかった。
こんなことならば、夏の盛りも悪くはない。
先程まではこの季節の湿気と陽射しに殺意しか沸かなかったものの、こうして珍しい愛嬌を見られたのならば、少しは額を流れる汗を我慢してやろうかという気分にもなる。
最も、それは自分だけが知っていればいい心情の機微ではあるが。
「そうして張りきって水着など買ってしまうところが、可愛いですよ」
ひっく、としゃくり上げる音がなまえの喉元から漏れる。
そのまま心持ち優しくその頬を撫で上げると、彼女の腕が骸の首に回り、ぎゅうと抱きしめた。
その小さな手の甲を手にとって、軽いキスを落とす。
こんなことをすれば、また彼女は"誤魔化さないで"と憎まれ口を叩くだろう。
しかしこれは誤魔化しでも何でもなく、自らの欲望の赴くままに従ったまで。
背中から伝わる体温に満足したか、骸が口角を上げたと同時にエンツィオも安心したように骸の膝へよじ登り、すやすやと眠りの体制に入ろうとしている。
ぽろり。
最後に一滴、憎まれ口の代わりにこぼれ落ちたいじらしい涙は、骸の肩を伝って、そのまま水辺の煌めきに消えていった。
(背中から伝わる温度/六道骸)
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