「危ない!!」
夏の暑い日。学校の帰り道。私が飛び出したのと、女の子が叫んだのは同時だっただろう。トラックはすぐそこまで来ている。急ブレーキのつんざくような音。道路の真ん中で立ち止まってしまう子猫。それを見たのは、私ともうひとり、近くにいた女の子。間に合うかどうかは分からない。でも身体が勝手に動いちゃったんだからもうどうしようもないのだ。今更立ち止まれないし戻れない。私が跳ね飛ばされても子猫が助かってくれたらそれでいいと思いながら、全力で脚を伸ばす。
「――全く」
ふ、と。男性の声がした。私の身体が急に軽くなったような気がして、「え?」と間抜けな声を上げてしまう。トラックはすぐそこまで来ているというのに、私を取り巻く時間が遅くなったように何もかもがスローモーションになって見える死にそうな時とか、集中している時とか、まわりのものがゆっくりになって見えるという現象はよく聞く。もしかしてこれが噂に聞くそれなのか。まさか自分が本当に体験することになるとは思わなかったけれど。あんなにうるさかった蝉の声も聞こえない。それじゃあさっき聞いた男性の声は、私を連れ去る死神の声?
「手元が狂う。動かないで下さい」
「う、わあ!」
突き飛ばされるような衝撃。そのまま向かいの公園の草むらに放り出される私。私は子猫を抱えたまま、ひっくり返りながら道路を無事に、五体満足で、渡りきったらしい。蝉の声がうるさい。子猫は腕の中でちいさく「みゃあ」と鳴いた。良かった…というか私もこの子も無事というのが奇跡的というか、あの時の声はなんだったんだ。子猫を下ろして周りを見てみるものの誰もいる気配はない。誰もいない。すりすりと私の足に頭を擦り付けてくる子猫の頭を撫でる。そういえばこの子はどうしよう。人懐っこいしもしかしたら誰かに飼われている猫なのかも。だとすれば、私が何もしなくても自分でお家に帰るだろう。
「捨て猫ですよ」
「ひゃあ!?」
突然後ろから声を掛けられて跳ね上がってしまった。穏やかな男性の声。この声は。聞き覚えがあるどころの話ではない。さっき私に語りかけてきたあの声、そのもの、その人だ。振り返ればすらりとした、私と同じくらいの年齢の少年が立っている。ちょっと後退りしたくなるくらい綺麗な顔の少年だった。
あれ…彼はどこから来たんだろう…変だな、さっきまでどこにも誰にもいなかったのに…?
「段ボールに詰め込まれて放置されていた猫が腹を空かせて道路に出てしまった。それだけの話です」
「え…?」
「クロームが大きな声を出すから何かと思えば。自殺者を止めるつもりはありませんでしたが、醜い死体を見せつけられるのも不快ですしね」
「……あなたが助けてくれたの?」
「まあ、結果的にはそうなりますかね」
「ありがとう……」
みゃおん、と子猫が小さく鳴いた。彼にお礼を言ったつもりなのか、私にぴったりとくっついたまま彼を見上げている。少年はため息をついてわざとらしく肩をすくめて見せた。綺麗な顔だ。呆れたように私を見下ろしている表情でさえ見惚れそうなほど綺麗だなんて、この少年はどう見てもただ者じゃないな。それにどうやって私のことを助けてくれたのかだって分からないままだ。トラックに飛び込んだ人間を助けるなんて普通の人には出来ない。
「あ、あの、お礼を!」
「…ああ。別に、お気遣いなく。気まぐれですから」
「駄目です!命の恩人ですから。私と、この子の」
「はあ…」
本当に気まぐれだったんだろうな。私を見下ろしている彼の表情には面倒臭いという色がありありと出ている。隠すつもりもないらしい。だけど今こうして私が息をしているのは目の前にいるこの人のおかげ。子猫が助かったのもこの人のおかげ。だとすれば私が出来る限りのお礼はするべきだろう。彼が私にお礼を言われるようなことをしたのは事実。本当に面倒なら助けなければ良かっただけの話だ。
「甘いものは好きですか?」
「ええ、まあ」
「よかった!私ちょうど、ラ・ナミモリーヌのチョコレートドリンクの引換券持ってるんです!飲みに行きましょう!」
「……唐突過ぎませんか?」
「え?お礼っていうのはその場ですぐするものですよね」
「…………」
「あ、いや、知らない輩と行くなんて嫌ですよね。大丈夫です、引換券だけお渡ししますので」
いい加減座り込んだまま話すのも失礼かな。ついでに引換券をポケットから出すべく立ち上がるものの、転がった時に痛めたのか足に力が入らずふらついてしまった。ぐらりと身体が揺れる。「おっと」彼もとっさに私の腕を引っ張ってくれた。おかげで転ばずに済んだ。なんだかんだ言っても意外と彼は私を助けてくれるらしい。もしかしたらつい手が出てしまうタイプだったりして。困っている人を放っておけない、みたいな……いやそれはないな。出会ったばっかりの人に対して失礼かもしれないがそういうタイプではなさそうだな。
お礼を言った後は引換券を取り出し手渡す。「一応、貰っておきましょう」その声は平坦だけれど、どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。というか近くで見ても整った顔だなと思う。別の意味で足元がふらつきそうだ。こんな美形と話ができただけでもありがたいと感じてしまう。普通に生きていたらこんな美形と会話することなんてなかっただろうから。
「そういえば、その子猫はどうするんです?」
「身寄りがないってことですよね。大丈夫です。責任持って私が飼いますから」
「…………」
「あの、本当にありがとうございました」
私がお礼を言った後、彼は顎に手を当ててふむ、と何かを考えるような仕草をしていた。どうしたんだろう。
「……少し様子を見ますか。クロームも随分と気にしているようですし」
「子猫ちゃんのことですか?」
「ええ。あなたがきちんと子猫の世話を出来るとも限らない。折角助けた命が、あなたの力が及ばないばかりに死んでしまっては僕の苦労も報われません」
「動物好きなんですね」
「説明も面倒なので、まあ、好きに思ってください」
ちょこちょこ会話に出てくるクロームさんとは何者なのか分からないままだけれど、とりあえず子猫ちゃんをきちんと育てているかの確認をさせろということであった。それくらいどうってことはないんだけれど。名前も連絡先も知らないのに、教えてもくれないのに、「それではまた来週、ここに来てください。その子猫を連れて」なんて当たり前のように言われてしまった。本当に彼は何者なんだろう……。
「よろしくお願いします」
そう言ってふっと微笑む彼の顔を見て、また、ぐらりと足元がふらつくのがわかった。なんて美形。彼の笑顔の美しさに私は間抜け面を晒してしまっていることだろう。なんだかとんでもない人と知り合いになってしまった気がする。私の足元でみゃおと可愛い声で鳴く子猫。これからこの美形さんと定期的に会うことになるなんて誰が想像しただろう。もうこの命の恩人さんが何者かなんてもはやどうでもよくなっていて、また彼に会えるということにどこかで喜んでしまっているのは事実だった。
【ふらつく足元/六道骸】
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