今夜も今夜で、そのような作業をし、さっさと布団に潜り込もうとしたとき。「月子」と自分を呼ぶ声に、はっと微睡んでいた意識を少しだけ浮上させた。
低く、ややしわがれた、老齢の男性の声。老人らしい声であるものの、その中には凜とした芯がある。らそのような声で、自分を呼ぶのは、ただ一人。もぞもぞと体を動かし、ゆっくりと布団から抜け出すと、寝間着を整えながら「はあい」と返事をした。そうすれば、「こっちへ来なさい」と月子を促す声がする。
声に従い、がらりと居間に通じる戸を開けると、声の主である天狗の面をした老人と、見知らぬ子供がふたり、そこに囲炉裏を囲んで腰を下ろしていた。
「寝ていたのか」
声をかけてきたのは天狗の面をした老人である。月子に剣を教えている、鱗滝佐近次という少しばかり、謎の多い人。月子に剣を教えるだけではなく、この家に住まわせ日頃の面倒まで見てくれているという、一生頭が上がらないだろう人生の恩師だ。
今の時刻は、普段ならすっかり眠っているだろう真夜中。そのような時間帯に呼びつけてしまったことを少し申し訳なく思ったのか。鱗滝が少し気遣わしげな声で、月子に尋ねてくる。師匠に気を遣われたということを忍びなく感じた月子は、少し強めに首を振った。
「いいえ、その、まだ起きてました」
「…そうか。随分、眠そうに見えるが」
「寝ようとした、ところです」
あ、と、鱗滝に返答した後に、月子ははっとする。鱗滝に気を遣わせまいと、起きていたと告げたのに。かえってそれは、気を遣わせてしまうものになっていた。
思わず眉を下げた月子に対し、弟子の気を遣われるのが苦手な性分を理解している鱗滝は、そっと話題を変えるように、そこへ座れと座らせている子供へと、視線を移す。
「お互い、初対面だろう。紹介しようと思ってな」
鱗滝につられたように、月子もそちらへ視線を向けた。黒い髪に青色の瞳をした少年に、桃色に近い特徴的な髪色に口元当たりに傷を負った少年。鱗滝の言う通り、初対面――見知らぬ少年たちであった。見知らぬ少年たちと、寝間着で顔を合わせているというのに少々、居心地の悪さを覚えつつ。誰なのだろうかということにも見当もつかず、月子は首を傾げる。
「…彼らは、どなたなのでしょう」
「新しい弟子を育てることした。お前の弟弟子にあたる」
「弟弟子、」
弟弟子。鱗滝が言ったそれは、月子にとっては予想外のもので。その寝ぼけ眼を少し見開き、それから彼らを凝視する。
鱗滝は、剣士を育てることを現在は生業としているから、不思議なことではないのだけれど。弟弟子などができるというのは、月子にとっては初めての経験なもので、幾許か不思議な心持ちがした。
弟、弟。ならば月子は、姉弟子にあたるのだろうか?
「ほら、挨拶しなさい」
「……!」
まじまじと二人を眺めていると、鱗滝が月子を促してくる。そうだ、初対面なのだから、きちんと挨拶せねばならない。それに、これからともに暮らしてゆくのだから、尚更必須のことである。
そうして、月子は二人との目線を、かち合わせたのだけれど――途端に、頭を真っ白にさせた。正直に言えば、月子はどちらかというと、人と接するというのは苦手な部類に入るもので。『はじめまして』と言えばいいのかもしれないけれど、それではこれから一つ屋根の下を共にする相手に対し、他人行儀過ぎないだろうか? 否、別に他人行儀なものではなく、初対面の者に対してならば、使っても不思議ではないのだけれど。月子は焦って、変な気遣いをしてしまっていた。
「ええと、その」月子は思わず俯き、狼狽え、指を絡ませ、必死に言葉を探す。
「錆兎」
「…あ、」
おろおろしていた月子を見かねたらしい。その声に、月子はそっと視線をあげる。
どちらが、言ったのだろう?
「俺は錆兎」
再びした名乗る声に、ああ、こちらだと理解する。特徴的な髪色に、口元から頬にかけて傷口がある方の少年だ。彼は、"さびと"、というらしい。
容姿だけではなく、名前も特徴的だと、月子は思った。少なくとも、これまで生きてきた中で、そのような名前の男と出会ったことはない。ただ単に、月子の人間関係の幅が狭かっただけかもしれないけれど。
「…錆兎と、いうのね。わかったわ」
「義勇だ」
「あなたは、義勇」
黒い髪を、ひとつにまとめた少年が言った。錆兎と名乗った方の少年は、物怖じせずそう告げたけれど、義勇と名乗った彼はそうでもなく。少しだけ、緊張しているようにも見えた。しかし、月子と目が合うと、ぎこちなく、緊張に負けじと笑みを浮かべる。
――鬼殺の剣士を育てる鱗滝に拾われたのだから、苦労のひとつふたつは背中に乗っかっているだろうに。溌剌とした、年相応の笑みを浮かべていた。義勇の隣に座る錆兎も、目尻を柔らかくしていて。二人が、狼狽えていた月子の緊張を、解そうとしているのだと気づく。
「……私は、」
「うん」
「私は、月子っていうの」
二人が、月子に気遣って表情を柔らかくしていることに心を温めつつ。月子もそれに報いようと、できるだけ顔を破顔させて名乗る。そうすれば、義勇が「月子」と月子を真似て復唱し、錆兎が頷く。何事もなく名乗れた、と月子はこっそり一安心し、胸を撫で下ろした。
ぱちり、と囲炉裏の火から火花が散る音が、雰囲気が少し、軟化したことを報せる。
「月子、義勇、錆兎」
三人の成り行きを、静かに見守っていた鱗滝がふと声を上げた。ああそういえばさきほど狼狽えていたのだ、と気づくと、醜態を師匠に晒してしまったことに、月子は少し気恥ずかしさを覚えた。
「お前たちは共にこれから暮らす。ともに励み、仲良くするといい」
「仲良く、」
「ああ、仲良く」
鸚鵡返しのように、仲良く、とちいさく再び繰り返し、月子は目の前の二人を見やる。さきほどはお互いの名前を知ることができたけれど、果たして、仲良くやれるかどうかはよくわからない。
月子は数年前に鱗滝に拾われたけれど、その前からあまり人付き合いをせず、家族とばかり過ごしてきた。故に、同年代といえども、どう接するのが最適なのか。よくわからない。
けれど、そのような疑問を此処で出すのも憚る思いがして。何もないというように素直に頷いた月子を、錆兎がじっと眺めてくる。
「…何て、呼んだらいい?」
「えっ?」
唐突な質問に、月子は頓狂な声をあげた。仲良くしろと言われたのだから、今後の接し方として、そのようなことを尋ねてくるのは、奇怪なものではないけれど。果たして仲良くなれるのか、悶々としていた月子はうまく反応できず、目をぱちくりさせてしまう。
そんな不甲斐ない月子に苛立つこともなく。錆兎は、黒目がちのまっすぐな視線をこちらに向けたまま、落ち着いた声で丁寧に続けた。
「姉弟子、なんだろ? 何て呼んだらいいんだ」
「あ…あ、そうね。……ええと、確かに、私は姉弟子になるんだろうけど」
呼び方――姉弟子であることを敬った呼び方にした方がいいのか否か。それを錆兎は尋ねたのだろう。月子もそんなものは知らない。
姉弟子。姉弟子なんていうけれど、さきほどから錆兎の言動は、随分と月子よりも大人びて見える。口元の傷も相俟ってか、錆兎は凜としていて、隙がない。義勇も、錆兎ほどではないけれど、その深い青の中に輝く煌めきは、彼の素直で真っ直ぐそうな性質をよく表していた。
歳は大して変わらないのかもしれないけれど、今日から弟弟子になるにしては、随分と頼もしく見受けられる。そんな二人を前に、さきほどから不甲斐無いところばかりを見せているせいからか。錆兎と義勇の姉弟子とこれから名乗るのは、少しばかり不安と些か抵抗があった。
月子は短い間に逡巡する。姉弟子として振る舞うのに気後れするものがあるのなら、自分はどう振舞えばいいのだろうか? やがて答えを出した月子は、頼りない笑みを浮かべる。
「…普通に呼んでいいよ。私も、義勇と錆兎って呼ぶから」
「わかった」
「そうか」
義勇と錆兎がそれぞれ頷く。それを眺めながら、月子も心の中ひとつ決めごとをした。
――これからは、弟の様に接していこう、と。
月子は、故郷の実家では、長女であった。兄はいないが、妹と弟ならたくさんいた。故に、弟の世話を見るのは慣れている。対人関係の苦手な月子でも、家族の様に接すれば、少しは距離が縮まるかもしれない。目的を同じくした仲間というのが本来の見方なのかもしれないけれど、仲良くなれるのなら、それに越したことはないだろう。鱗滝も、仲良くと言っているのだし。
弟のように、と思い、幼い実弟の顔を思い浮かべていると、鱗滝が囲炉裏の炭に灰をかけ始めた。火を消そうとしているのだ。
「さあ、もう遅いから皆寝ろ」
――たしかに。そういえば、本来ならもう眠っている時間だ。できるだけ強い体にと、規則正しい生活を送っている月子なら、絶対に布団をかぶっている時間帯。
素直に従って、義勇も錆兎も立ち上がり、去ってゆく。もう居室を与えられたらしい。
月子も、あまり夜更かしをしないようにと続いて立ち上がり、居室へ向かおうとしたのだが。ふと、灰をかけていた鱗滝が、その手を止める。灰ならしを、隅へと置いた。
「月子」
「? はい」
振り返ると、鱗滝はこちらを向いていて。天狗の凛々しい目に、月子を映していた。天狗の面は作りものだから、装着者の感情を表現するわけでもないし、見えるはずがない。そもそも、鱗滝は感情をあまり表に出さない人物だった。
けれど。なんだか――その目が、やや揺れているように見える。まるで、月子を案ずるように。
「お前は人付き合いが下手だ」
「そうですね」
「だが、お前は姉弟子になる」
「はい」
ふと、切り出してきた鱗滝に、月子は素直に頷く。やはり、気を遣っているのだろう。
「お前が思ったように、かつての家族に対してと同じよう、接してやればいい」
「…はい」
月子はすこし、驚いた。二人に対して、家族のように接していこうとは思ったけれど、それを口に出してはいない。しかし、鱗滝はそれを悟っている。
――鱗滝は、人の感情の機微に聡い。心の内を見透かされたように、何かを告げられるのは初めてではなかった。きっと何か、月子の知り得ぬ方法があるのだろう。家族に向けるような、慈しむような雰囲気が、月子から発せられていたのかもしれない。
心を言い当てられるのは、それほど月子にとって不快なことではなかった。月子は鱗滝の言う通り人付き合いが下手で、自分の気持ちを伝えることも苦手。故に、鱗滝が月子がどうしたいのかを察してくれてるのは、幾らか便利なものであった。そのぶん労力を使うことを鱗滝に強いるのは、申し訳なく思うけれど。
「ごめんなさい。その、がんばります」
「……ああ」
これからの生活を不安には思っていないこと、歩み寄ろうとしてる旨を表すようにそう告げれば、鱗滝もゆっくりと頷いた。
それから寝る挨拶を済ませ、自らの寝室に向かう。きっと、明日から四人で暮らし、三人で剣士となるために切磋琢磨していくのだ。これからの未来を思い描きながら、月子は布団に潜り込む。
人付き合いは苦手だけれど、家族のような、心の安らぐ相手が増えるのならば、それは月子にとっても喜ばしいこと。まったく不安がないわけではないが、すこしだけ、明日からの日々を楽しみに思っていた。頼りない自分でも、仲間同士笑い合うことができるだろうかと、淡い期待を抱く。
そうして疲れと共に眠りにつく月子は、これから彼らと"家族"となるために、様々な感情と苦労を要することになるなど、一切思いもしなかった。
20190815
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