茨を踏んだ足

 舐めていた、甘く見ていた。
 決して下に見て、馬鹿にしていたわけではないけれど、確かに、甘く見積もっていたのである。あの新しく増えた仲間と、そう苦労せず仲良くなることができるだろうと。しかしそれは、まったくの見当違いであったのだ。


 ――初めて顔を合わせた日から、何度目かの朝を迎えた。いつも通りの時間帯に目を開けてのそりと起き上がり、顔を洗おうと外に出る。外は霧に包まれ、ひんやりとした空気に満たされており、月子は寝ぼけ眼のまま、ぶるりと身を震わせた。

 今日も今日で、錆兎と義勇と、顔を合わせねばならない。それをまだ覚醒しきっていない頭で考えて、月子はひとつ憂鬱げに息を漏らした。否、一緒に住んでいるのだから顔を合わせるのは当然だし、決して彼らが嫌いであるというわけではないけれど。人付き合いが苦手――会話が壊滅的なほどに苦手である月子にとって、大して深い仲であるというわけではない二人と顔を合わせ、必要に応じて言葉を交わさなければならないというのは、決して楽しみなことではなかった。
 ――そう、弟弟子と月子の関係は、初めて顔を合わせた日から全くと言っていいほど進展していない。会話は続かないし、変に緊張する。
 彼方は積極的に関りを持とうとしてくれていて、月子も拒絶しているわけではないけれど。緊張のせいなのか何なのか、すぐに会話は途切れてしまうものだから、姉弟子と弟弟子の間に漂うのは沈黙であることが大半であった。


「……」


 少し斜面を下って、さわさわと細やかな音をたてる川に辿り着く。ここの水は季節問わず澄んでいて、冷たくて気持ちいいから、気分よく目を覚ますにはうってつけのものだった。
 屈んで、水に手をつければ、ひんやりとした水がみるみるうちに頭を覚醒させていく。憂鬱な心持ちも、少しだけ晴れたような気がした。


「がんばらないと」


 ぽつりと無意識に零したその言葉に、そうだ、と自ら頷く。憂鬱に思っても、#name2#は頑張らないといけない。剣術のつらい鍛錬だってそうだし、弟弟子との関係も然り。
 此処――鱗滝のもとで暮らすからには、何事もめげずに取り組むと決めているのだ。家族のように彼らと過ごしたいという想いに、何ら偽りはないのだから、鍛錬の様にがんばればいい。

 よし、と気合いを入れるとともに、手拭いを握りしめて立ち上がる。ここでやるべきことは終わったし、戻ろうと踵を返そうとすると。がさり、背後の茂みが音を立てて。自分ひとりきりだと思っていた#name2#は、少し驚いてそちらを見た。


「あ…、」
「鱗滝さんが、朝ごはんできたって」


 驚く月子を他所に、突如現れた錆兎はそう告げる。傍らの木に手を支えの様に手をかけ、淡々と。
 一瞬頭を白くさせた月子だけれども、数泊おいて、「あ、そうなの」と慌てて返す。
 毎朝此処で顔を洗い戻れば、既に温かい朝食が用意されているなんてことは、よくあるのだけれど。呼びに来なくても戻るのにと考えていると、錆兎はさらに言葉を続ける。



「なかなか戻ってこないから、呼びに来た」
「えっ、ごめんね! わざわざ」
「……いいや、別に」


 錆兎の言葉に、思わず月子は反射的に謝った。思ったよりも、時間をかけていたらしい。いつもなら、ゆっくり顔を洗っても遅れることはなく鱗滝のいる庵へ戻れるのに。ずいぶん弟弟子たちとの考え込んでしまったようだ。
 きっとなかなか戻らない月子に痺れを切らし、錆兎が呼びに来たのだろう。朝食の膳を前に月子を待つ鱗滝と義勇、それから月子を呼ぶために無駄な徒労をかけてしまった錆兎へ、申し訳ない気持ちが溢れ出る。もう一度、間髪入れずに「ごめん」と言うと、「行こう」と錆兎はくるりと踵を返した。

 声音からして恐らく、彼は怒っていない。そして彼は表情豊かな方ではないけれど、その顔は怒りや不快に染まってはなさそうで、少し安堵する。「うん」と小さく返事をし、錆兎に続きながら、別に彼にとってはこんなことは感情を揺さぶられるほどの事柄ではないのだろう、とぼんやり思う。だとしても、申し訳ないけれど。けれど本人が別にいいと言っているのだから、これ以上謝ったりするのはよくないだろう。と思って、黙ってついていくことにした。



「……」


 錆兎の後ろをついていきながら、斜め後ろ――東を眺める。東からは、純粋な光を放つ太陽が昇っていて。それに月子は、また朝が来たなあ、頑張らないとなあなどと、朝らしく半ば呑気なことを考える。主に、命がけの鍛錬をしないといけないのだけれど。
 
 ふと視線を戻すと、錆兎とかちりと視線がかち合った。「!」ぼうっと眺めるさまを、見られていた。思わず体を固める月子。しかしその考えを他所に、錆兎は月子が見ていた東へ顔を向け、目を凝らすように細める。やがて、何も発見できなかったのか、少し疑問そうに月子へ尋ねてきた。


「何見てたんだ?」
「え、」
「ずっとそっちの方見てただろ」


 何もない――あえて言えば、太陽しかない空を見ていた月子を不思議に思ったらしい。


「え、いや、朝日が綺麗だなって」
「…ふうん」


 月子が見ていたのは、その太陽なわけで。そう告げると、興味のあるようなないような、どちらかというとなさそうな相槌を打ってきた。
 ――あ、会話途切れそう。ふと、その気配を察し、月子は些か焦った。口数が多いわけではない、そのような月子が混ざる会話に沈黙というのは付いて回るものであるけれども、一言二言で沈黙が訪れるというのは流石に避け難い。一言二言で終わる会話の後の沈黙ほど、気まずいものはないのである――と、心の中で月子は持論を述べた。だって、その人と大して親しくないという事実が、顕著に現れるではないか。

 持論やら言い訳やらを並べ立てつつ、少し百面相をした月子は、朗らかそうな――なるべく明るい声を出そうと、腹部に力を込める。


「いつもね、わたし、あそこの川辺から朝日を見るの」
「確かに、あそこよく見えそうだな」
「うん、すごく綺麗に見える。毎朝見て、つらい鍛錬も頑張ろうっていつも思う」


 月子の日課。本当に毎朝、飽きもせず、いつも朝日を眺めていた。曇りとか雨とかの日は、朝日を見ることは諦めるけれど。
 朝日は、色々な感情と事情が渦巻いてぐちゃぐちゃになった気分で朝を向かえたとしても、朝はその気分を簡単に洗い流してくれる。心の底から、がんばろうと思える。月子にとって、朝日は特別な存在なのだ。

 東に向けた月子の瞳に陽光が反射し、きらりと煌めく。心の底、朝日に想いを馳せる月子を眺めつつ錆兎は、ふむと相槌を打った。今度は、さきほどよりかは興味がありそうだった。


「…やっぱ、きついのか。鍛錬」
「え、あ、まあ――あ、でも、私ができたんだから、錆兎も完遂できるよ」


 ――あ、いけないこと言っちゃったかな。
 月子は少し、会話を続けようと必死になって軽率な発言をしてしまったかなとはっとする。そうだ、錆兎は――月子と初めて会った数日前には来ていたらしいけれど――刀の鍛錬は始めたばかりなのである。鍛錬に関しては、月子の方が当然知識があるのだ。始めたばかりの初心者に、不安を与えるようなことを言ってしまった。
 その失言に、どちらかというと保身から弁明をすると。錆兎は、当たり前のように頷いた。


「当たり前だ。俺は剣士になりたい」
「…」
「そのための努力なら、何でもする」
「……そっか」


 一瞬、呆気にとられた。そのせいで、いつもよりも声を発するのが遅れる。
 錆兎は、いたって普通の表情を浮かべていた。錆兎にかつて、どのようなことがあったかは知らないけれども。錆兎は激情にも憎悪にも、ましてや不安や恐怖なんて感情もその顔に染めていなかった。
 まっすぐ。きっと、ここに来る前に何らかの苦労があったはずなのに。それらの感情にはすべて区切りをつけて、けれどもそれらを忘れずに、まっすぐを見据えている。ただただひたすら、迷いなく引き返すことなく、一点に剣士を目指す覚悟をその黒い瞳に宿していた。

 ――すごいなあ。素直に尊敬する。私が来たときはこんな意思の強い瞳は決してしてなかった。私は弱い人間だから、ここに来たときは、これから上手くできるかなとか、獣に襲われて死んじゃったりしないかなとか、卑屈なことばかり考えていた。剣士を目指すことも、現在とは対照的に実家が恋しくなって、やめてしまおうかなどとあの川辺に肉刺だらけの手を浸すたびに思った。
 えもいわれぬ気分が心を満たす。煙のように鬱屈したそれを感じ取った月子は、それに顔を背けるように、草鞋を履いた足を一歩踏み出した。


「義勇も、それくらいがんばれるといいね」
「そうだな」
「…錆兎は、しっかりしてるね。大人みたいだ」
「…まだ子供だよ」


 確かに、錆兎も義勇も、月子も子供だけれど。三人の中だったら、錆兎が一番大人びていると思う。
 義勇は溌剌としているけれど、年相応らしい部分があるし、翳った顔を正直に出すこともある。話したわけではなく、遠くから眺めていた観察結果の話だが。月子は言わずもがな。従って、錆兎が三人の中では一番大人びているのだ。姉弟子としては褒められたものではないのかもしれない――けれども、あくまで月子は家族の姉として接すると決めたから、特に思うことはない。姉としてなら、できることはあるのだ。

 そんな会話をしていると、ずいぶんと鱗滝の家は近くなってきた。川辺と鱗滝の家は大して離れていないから、ぽつぽつ雑談をすればすぐ着くのである。

「……あ、そこ」
「?」


 鱗滝の家に向かう途中の、木々の根が露出した道が続く場所。そこで立ち止まり、月子は声を上げた。


「そこ険しいから、危ないよ。あと転ぶと結構いたいから、躓かないように」


 錆兎に、そう告げる。そう、ここは木々の根が出て道に凹凸が出ているだけではなくて、雑草もぼうぼう茂っている、ほぼ獣道。草が茂るところにもたくさんの根が巡らされていて、歩きにくいし、砂利もそこそこ転がっているから転ぶと痛い。初めの頃、月子は何回か転んだのである。膝と手が真っ赤になって、昔は外で遊ぶ習慣がそれほどなかった月子は、顔面蒼白になった。

 わかった、と錆兎が頷く。その姿に月子はひとつ、深呼吸をした。月子にとって姉弟子、弟弟子という間柄は、仲間のようなもので。それだとどうしても不安が残るから、実の弟の様に、家族のように接すると決めた。だから、弟だから、私が面倒を見ないといけないのである。
 もういっかい深呼吸をして、錆兎が進まないうちに、彼へと手を伸ばした。釣り目の彼の瞳が、少し驚いたように見開かれる。


「一緒に歩こ」


 月子はかつて、下の兄弟と危ないと分類される道を歩くときは、しっかり兄弟の手を握った。はぐれないように、弟たちが転ばないように。
 それを、錆兎相手に実行したのである。「危ないから」と再び告げて、歩くのを促せば、錆兎も素直に従った。
 あまり仲良くない相手の手を握るというのは、少し緊張したけれども。月子にとっては姉としての当然の振る舞いだったから、握ってしまえばどうとでもなかった。…否、でも少しだけ緊張しているかもしれない。


「……」
「…月子って」
「うん?」


 ぽつり、錆兎が何気なしに口を開く。転ばないよう気をつけながら、錆兎の手を握ったままでそちらを見る。


「……面倒見いいんだな」
「そう?」


 少し、胸が踊った。よかった、と心の中で息をついて、しっかり姉らしく振る舞えているのだと、確信する。
 錆兎の言葉にほくほくとしつつ歩けば、あっという間に鱗滝の家に着いた。家と川までは大した距離はないというのに、長い時間を要した気がして。「着いたね」と、まるで山頂に上ったかのように、誰に言うまでもなくつぶやく。


「もう義勇たち食べてるかもな」


 錆兎が何気なしに呟く。たしかに、鍛錬の時間がなくなってしまうと思って、義勇たちはもう朝餉を食べ始めているかもしれない。「ご、ごめんねえ」急に申し訳なさがぶり返した月子に、「いいって言ってるだろ」と錆兎は繋いでいた手を離し、ひらひら振る。ふっと掌からぬくもりが消えて、月子は自分の表情がふと変化したのを感じ取った。心が少し軽くなりそれにつられるように、目尻と頬が、自然と緩む。その顔を見て、錆兎は苦笑した。


「そんな不安だったのか?」
「え?」
「顔に出てる」


 「すごい顔が緩んだ」と錆兎は重ねて言って、自分は安どしていたのだと気づく。錆兎が朝食に遅れた事に対し、気を悪くしていないことを再認識したからなのか。不思議な柄の着物の袖を揺らしながら、玄関の戸を開ける錆兎を眺め、自分の考えを否定する。ちがう。きっと、これは。月子が安堵したのは。


(――きっと私が安堵したのは、鱗滝さんの家に着いたから。もう錆兎に気を遣い、へんに心をこわばらせる必要はないから。よかった、もう二人きりじゃないって、安堵した)


 なんて失礼な姉なのだろう、と思わず心の内で叫ぶ。もう弟と二人きりじゃない、気まずい想いをしなくて済む、などと、まるで弟を爪弾きすような扱いをするとは。猛烈に感じた自己嫌悪は、すぐさまその心を支配する。
 その後の朝食のあいだ顔はずっと強張りっぱなしで、朝食の味もあまり感じることはなかった。
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