なまえのなかった日







 文机に広げられた一枚の紙と、鉛筆。それから先日購入した便箋と、万年筆。

 それらを目の前に、澄子は何をするわけでもなく、ただただ静止してしまっていた。
 綺麗な紙に何度も字を書き直すというのはなんとも忍びなく、またそれを義勇に渡すわけにもいかないから、不要の古紙に向かって文を書き起こそうと、机に向かっているわけだけれど。まったくと言っていいほどに、内容が思い浮かばない。もちろん、伝えたいことはあるのだが。どう書き始めればいいのか、考えあぐねていた。

 そもそも、澄子が義勇と関わったのは一度きりである。たったの一度きりだから、彼はどんな話を好むのか、どんな話でその表情を崩すのか。そのようなことを全く知らない。言葉を交わしてみたいと思っているはずなのに、そんなことも知らないのである。彼をずっと眺めているだけでは、知りようもないことだけれど。


(伝えたいことが、ないわけではないのに)


 言葉を交わしたいという想いがあるのだから、当然話したいこともある。しかし、この手紙が義勇の手に渡ると思うと尻込みしてしまって、頭が真っ白になる。我ながら、情けないと思うけれども、差出人は異性の、全く知らない人。失礼の無いように、当たり障りなく、けれども自分の気持ちをしっかりと伝えるには、どうしたらいいのだろうと、考えてしまっても仕方ないはずだ。

 とはいえ、このままずっと悩んでいるわけにもいかない。澄子は仕事であちこちを転々としなければならないから、この家にずっといられるわけではないのだ。かといってこの手紙を常に持ち歩くわけにもいかないから、この手紙も早々に仕上げなければいけない。
 その焦りが心に現れ、やがてじくじくと澄子から集中力を奪う。やがて、ぽいと握っていた鉛筆を投げ出し、思い切り床に寝転んだ。じくりと鈍い痛みを後頭部に抱えつつ、半目で天井の木目を眺める。


「難しいのね」


 ぽつりと呟いた。たった一言、"ありがとう"と伝えるだけだというのに、自分だとこうして様々なものに四苦八苦せねばならない。その思わずため息を吐く。

 そう、ありがとうと言えればよいのだ。助けてくれて、ありがとうと。
 澄子はかつて――鬼狩りになる前に、義勇に救われている。三年前に鬼によって家族を殺され、命を脅かされたところを、義勇に命と、それから心を、救われた。あの時、礼を言えればよかったものの、澄子は混乱していたせいか、それをすっかり忘れてしまっていて。気付いたころには義勇は澄子を藤の家紋の家に預けたのち、さっさと姿を消してしまっていた。
 そんな彼を見つけ出すのに、多大な労力を必要とした。まず剣士を目指そうと、育手に師事してもらったのだから。彼は多忙な鬼殺隊の剣士。その頃は義勇という名前も知らなかったものだから、彼に会うには、剣士になってしまうのが一番手っ取り早いと思ったのだ。
 なぜそこまでするのかは、自分でもよくわからない。けれども、人生の分岐点となった命の恩人に礼も言わず、ただ平和に人生を過ごしていくというのは、性分に合わない気がした。その結果、見つけ出すことができ、こうして手紙を書いているわけで。

 鬼狩りとなったことについては、特段後悔はしていない。こうして一人で出来ることはたくさん増えたし、彼の所属している組織だから情報はたくさん手に入れることができたし。殉職率が圧倒的に高い職場と言われても、家族は死んでいるわけなので今更である――死ぬのと怖いのは嫌いだけれども。


(普通にありがとうございます、でいいのかなあ)


 ――昔の光景を思い出す。青く美しい刀を片手に、澄子を助けてけれた彼の後ろ姿。ただ座り込むことしかできなかった澄子は、その後ろ姿がとても頼もしくて、心を大きく揺さぶられたのを覚えている。
 ゆっくりと、澄子は畳から体を起こした。それから鉛筆を握り直し、ゆっくりと視線を紙に落とす。
 ずっと寝転がっているだけでは、ただ時間が過ぎ、折角の暇を無駄にするだけだろうと思い、とりあえず紙に鉛筆を走らせてみることにした。お礼から始まり、現在の暮らしぶりやらを文にしてつらつらと書いてゆく。やかで出来上がったものを掲げ、自ら読み返した澄子は、すこし不満げ――納得いかないような表情を浮かべた。


「味気なさすぎる……これじゃあ、読んで終わりじゃない」


 出来上がった文は、まるで報告書のよう。どれも形式ばった文ばかりで、面白みも読み応えもまるでない。これでは、義勇がこの手紙を受け取ったとしても、かつて助けられたという女から、どうでもいい情報を次々と押し付けられているような、鬱陶しい気分になりはしないか。そんなものでは――


「返事が来ないわ」


 深刻な顔で思わず呟く。
 ――そう、澄子は義勇から返信を望んでいた。手紙という手段を思いつき、四苦八苦して文の作成に取り組んだのに、これを義勇の元へ届けてはい終わりだなんて寂しいではないか、と思う。文通を熱烈に望んでいるというわけではないが、この一通のみで終わらせるのは抵抗がある。
 ――しかし、この文面に書かれていることは、すべて澄子の伝えたい内容に間違いはない。何を添えれば、相手が返事を書くようなものになるのだろうか。ちなみに、返事をお待ちしております、など対面すらしていない相手に催促するようなことを直球に書く勇気はなかった。そもそも感謝を大部分に含んだ手紙に、返事を求めるのは如何なものだろうか。
 なにか味気があるもので、鬱陶しくはなく、尚且つ義勇が返事を自発的にするような内容。はて、なにを添えるべきか。

 ああでもないこうでもないと、文の内容と相手の義勇の反応を想像して、それからため息をつく。――どうしたら当たり障りのない文章で、お返事をいただけるような文を書けるのだろうか。わからない。思わず、眉間に皺を寄せてしまう。
 そう、わからないのだ。


『何をするべきか考えろ』


 数年前、初めて会ったときに義勇が放ってきた一言。それまでの落ち着いた声からは一変して、苛立ったような、激しめの声で、そんなことを言ってきた。家族を殺され、茫然自失していた澄子に、始めは慰めるような口調ではなく、冷たい声音で接してきたというのに。突然そう叱責してきたものだから、澄子はたいそう驚いたものだ。
 義勇は、この状況に甘んじて絶望に暮れることを許さず、ほかのことをよすがに生きることを澄子に激しく諭した。だからこそ、澄子は絶望に暮れることなく、こうして生きているけれど。しかし澄子は今、ほかに何をよすがに生きていけばいいのか、わからなかった。下を向かずに生きることができている。なら、これからは? 澄子にはやるべきことがたくさんあり、日々の出来事に一喜一憂して過ごしているけれど、生きるよすががわからないものだから、少し心に空虚があるのが否めない。いったい何の感情を胸に生きて行けばいいのだろう。それがまだわからずにいる。

 それと同じだ、と澄子は思った。いくら考えてもわからない。幸せになるはずだった己の家族の不幸も、鬼による残酷な因果も。人生わからないことだらけだ、と澄子は呑気に思う。


「…あ、なら」


 鉛筆に指の腹を滑らせつつ、ぼんやり行燈のあたたかい光を眺めていた澄子は、唐突に閃いた様に、その顔をぱっと明るくさせる。それから、下書きをしていた和紙に、すらすらと続きを書き始める。


「…わからないなら、聞けばいいや」


 それを書き上げた澄子は、やや得意げだった。


▼▼
拜啓
 櫻の花が美しい今日此の頃、突然のお手紙に驚かれた事と思ひます。初めまして、私は鬼殺隊の霧生澄子と申します。本日は冨岡さまに御禮申し上げ度い事があり、此のやうに筆をとらせて戴きました。

 まづ、私の命を助けて下さり、誠にありがたうございます。三年前、貴方樣によつて命を救はれたのですが、覺えていらつしやいますでしようか。あの時はお禮の一つも言へなかつた事を誠に申し譯なく、また恥づかしく思つてをります。冨岡さまがひつもこちらへいらつしやつてゐると聞き、今度こそはお禮を申し上げようと決心したのですが、私などが冨岡さまのお顏を拜見するなどとても恐れ多いと思つたゆゑ、此のやうにお手紙を書かせていただきました。

 冨岡さまのお姿、いただいたお言葉を忘れた日はございません。美しい刀身を片手に救つてくださつたあの日の光景は、今でも瞼に燒き附いてをります。いただいたお言葉も、最初は驚きまし度けれども、今日まで生きてきた中、何度も心の支へと成りました。現在は私も、未熟者ですが鬼殺の劍士と成りました。此の御恩は決して忘れる事をせず、何らかの形でお返しする所存でございます。
 季節は春と成り、暖かくなりましたが、夜はまだまだお冷えに成ります。どうかご自愛くださいますやうお願ひ申し上げます。

敬具

追伸
 冨岡さまは助けてくださつたときに、甘えるのではなく、他になすべきことをするべしと仰いました。私はその言葉通り、その状況に甘んじることはせず、精進してまいつてきましたが、ひとつ、わからないことがあるのです。
 私のなすべきことは何なのでしよう。絶望の代はりによすがにすべきこととは、一體何なのか、お恥ずかしながら、わからないのです。



 それから一週間後。澄子の感謝の気持ちと、それから質問がしたためられたその手紙は、無事澄子の手元を離れた。よく、義勇が立ち寄る食事処の前を、警邏で通りかかる警官に、自分と同じような服装をした男へ渡してくれるよう頼みこんだのだ。
 ただそれは手元を離れただけであり、それが義勇のもとへ、無事に届けられたかはまだわからないけれども。しかし、顔なじみの警官は、快くそれを引き受けてくれたから、恐らく捨てられたりなんてことはないだろう。


「ふふ」


 澄子は、便箋と封筒を買った例の店で雑貨を眺めながら、満足げに口元を緩めた。何せ、憧憬を向ける義勇へ、一歩踏み出すことができたのである。澄子の中にある達成感と満足感、そのような明るい気持ちは、計り知れないものであった。

 そんな高揚した気持ちで前に向き直り、澄子は驚いた。警官が、義勇に手紙を渡している。こんなはやくに義勇が受け取るとは思わなかったから、澄子は動揺して、思わず手に取っていた簪を握りしめた。緊張した面持ちで、澄子は固唾をのむ。
 ――受け取ってくれなかったらどうしよう。澄子は青い簪を握締ながら、さきほどの明るい気持ちとは一変して、思わず悶々と考えた。何せ、女物の便箋とはいえ、大して親しくないような警官が渡してくるのである。不気味に思いやしないか。


(…私だったら受け取らない……見知らぬ異性の手紙なんて)


 冷静に考えて、すこしだけ後悔した。いや、でも、他に道がなかったのだ。それに澄子とて鬼殺隊の一員。危険な仕事に就いているのだから、こんなことになりふり構っていられない。
 ぐるぐると考えながら、ふたりの男を眺め続ける。遠くて聞こえないが、義勇は手紙を手には取らず、まじまじと眺め、なにやら口を動かす。すると警官もにこやかに口を動かし、何かを告げて。そうして固唾をのみつつ。二人の会話を見守っていると。


「!」


 義勇が、その手紙を受け取った。
 自発的に受け取ったのか、それとも警官の押しに折れたのか。ともかく、受け取ったのである。それに澄子は、ぶわりと体が浮くような感覚を覚えた。それからぐらり、脚が傾きかけたが、慌てて支える。


(う、受け取った…)


 受け取ってくれた。義勇が、澄子の手紙を読んでくれる。念願の、声をかけたいという想いが、少し変わった形だけれども、叶えることができた。それがどうしようもなく嬉しくて、頬がだらしなく弛緩していくのを感じる。


「……ふ、ふふ、やった…やったわ」


 ずっと後悔と躊躇、迷いの満ちた思いのする日々が、初めて報われた気がした。それにきっと、義勇は澄子がわからないと言った想いについても、教えてくれるだろう。
 期待やら嬉しさやらで、またもやその簪を握りしめる。簪の先端にある青い飾りに、きらりと日の光が反射し、思わず目を細めた。この輝きに劣らず、自分の目も煌めいているのだろう。なんて考えて有頂天な気分に浸る澄子であったが――ふと、あることに気付くのであった。


(自分の名前、ちゃんと書いたっけ)


 気まぐれに浮かべたその疑問は、みるみる内に心の天気を曇天に変え。澄子はすこし、泣きそうな顔を浮かべた。


20190815

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