会いたいから飛んで行く







 彼の姿は、すぐに目に入った。東京に比べたらなんてことはないのだろうけれど、そこそこの人通りのあるその雑踏の中。その黒髪を靡かせて歩く彼の姿は、すぐ、探すことはなく、視線を巡らせただけで、見つけることができたのである。
 長めの黒髪をひとつに纏めて、鋭い青の目をまっすぐ前に据える姿は、以前会ったときと何ら変化していない。数年前、初めて顔を合わせた際よりは、背は伸びて、肩幅は広くなり、風格を兼ね備えるようになったが。

 澄子はその姿を目に留め、穏やかに息をついた。ああ、また見つけることができた、と。彼に対する憧憬により心を明るくし、それから再び相見えることができたことへの、安堵感。
 彼は時々、この通りを歩いて、それから食事を摂る時間帯であればそこらの食事処に寄り何かを食べて、再び雑踏へと消えて行く。時々とはいえ、それを行うのはひと月に片手で数える程度の話だ。
 彼は鬼殺隊という組織に属する剣士で、その組織に属する剣士というものは、極めて多忙である。日頃から広大な地域を転々としているから、滅多にお見かけすることはないのだ。その忙しさは、所属を同じくする澄子はよく知っている。また、加えて彼はその組織の中でもかなりの実力を持つお方。最高位の"柱"の肩書は持っていないらしいのだけれど、それなりの実力を持つということは、毎時危険な仕事に臨んでいるということ。そのような彼が、生きて、健康そうに歩いていると、ひどく安心する。

 そんな彼、冨岡義勇がちょうど、澄子の前を通り過ぎた。さえざえとした瞳と、真一文字に結ばれた唇。眺めながら、ひとつ、澄子は考えを頭に浮かべた。このまま、冨岡を追いかけて、声をかけてみたい。以前から考えていること。声を交わして、自分の想いを、伝えてみたいのだ。
 何度も何度もそのようなことをする自分を思い浮かべて、頭の中で接し方を練習した自分ならば、うまくできるかもしれない。
 そう思うと、ぼんやり考え事に耽っていた心は急に熱を灯し、ぐ、と足に力を込めた。そのまま、雑踏を歩く彼のもとへ駆け寄ろうとしたのだけれど。


(……ああ、でも、)


 しかし、現実はそうも上手くはいかない。
 唐突に力を込めたはずの足からは力は抜け、とすんと、紅の毛氈がひかれた腰掛けに座り直す。心からは、急速に昂りが消えていった。

 いつもこうだ、とひとり愚痴をこぼす。何度も彼に声をかけてみようと思い、実行に移すのに、その直前ですぐ断念してしまう。
 別に特段、声が出ないだとか、身体的事情はないのだけれど。ただ単に、勇気がないのだ。思い立ったら吉日、と足を踏み出すのだけれど、途端に錘がつけられたように重くなる。
 何度も何度も試みて、それからすべてそのように頓挫してきた。そして今日も野点傘の下から、憧れの彼がいつもの食事処へと入っていく様子を、やや沈んだ視線で見送るだけであった。


 冨岡義勇は、霧生澄子にとって、憧れの存在のようなものである。ようなもの、と言うのは、本当にそうなのかと自分の気持ちに確証を持てていないだけ。そして、叶うならば声を交わしてみたいとも、思っていた。彼に対して、様々な思うところを持っているから。
 言い訳をするようだけれども、恋情のような、甘ったるい、それこそ焦がれるような感情ではない。けれども、一度言葉を交わしてみたい、けれど上手くいかないを繰り返すそれは、恋する乙女の悩みと言われても、あまり言い逃れできないものであるとはわかっている。一体誰に追及されるのかは、謎であるが。

 ずっと見晴らしの良い茶屋の野点傘の下を占領するのは、流石にどうかと思ったので、近くの店の中に場所を移す。その店は入口が露店のようになっているから、対にある食事処がよく見える。
 店に並ぶ簪を眺めるふりをしながら、ちらちらと向こうに視線を送る。まるで変質者みたいだ、という考えが頭を過るが、慌ててそれを振り払う。憧れの上官を眺めて何が悪いのだ。仕事に支障をきたしているわけでもないのに、変質者だと詰られる筋合いはないのである。


「きれい」


 ふと見つけた髪飾りをふと、持ち上げた。深い青色の飾りが付いた簪。あの方と同じ瞳の色だと、顔を綻ばせる。いや、もう少し、彼の瞳の色は深いだろうか? 確認しようと、顔を上げて、昼餉を食べる彼へと視線を向けて。「!」それから、思わず息を呑んだ。
 ……彼と、目が合ってしまった。一瞬、深い青色の双眸に吸い込まれそうな感覚に陥って、それから慌てて下を向く。
 ――吃驚した。予期せぬ出来事だったものだから、心臓が激しく鐘を鳴らす。


(きれいだった)


 深い青色の双眸。それ深い深い水の底にある色のようで、しかし陰気な雰囲気を纏っているわけではない。すべてを凪いだようにさえざえとしていて、落ち着いている。決して光を宿している目ではないけれど、柔らかな日光にあてられると、少しだけ明るい色を帯びるのが美しかった。まるで、霧に包まれた涼やかな場所にいるような心地。

 そのような目と、自分の目が、視線が、一瞬だろうともしっかり交差したのだ。澄子の姿もきっと、捉えられていることだろう。何せ、鬼殺隊の剣士の出で立ちは、珍しく、目立ちやすいのだ。
 変ではなかったろうか、見苦しい顔をしていなかったか。一瞬そんなことを悩ましく逡巡して、それから苦笑する。まるでそれは、さきほど否定したばかりの恋する乙女のようなものではないか。恋など、身近なようで、ずいぶん澄子の遠くにあるものなのに。それに、目があった程度で緊張し、俯いてしまうのだ。到底、彼に話しかけるなど、できることではないだろう。霧生は特段、人付き合いが得意というわけではなく、話もそれほど上手というわけではない。寧ろ大人しめで、煌びやかな雰囲気よりも穏やかで和やかな雰囲気を好む方だ。とはいえ、このような状態では自分でも。どれだけ自分は会話能力と社交力が無いのだと、呆れてしまう。

 果たして、こんな自分が、彼と一声会話することは叶うのだろうか。思わず、自分の身を案じてしまう。


「!」


 嘆息しつつ、それからなんとなく店の中を見回す。ずっと義勇を見つめているのは、少し居た堪れない気がしたのだ。
 そこで、ふと目に入ったもの。それに澄子は、少し目を見開き、動きを止めた。それから、少し早歩きでそこへと近付き、それを手に取る。

 それは、封筒であった。縦長の形の、白い絵封筒。下の端に、瑠璃唐草がかわいらしくあしらわれた、専ら女性が使うであろうもの。便箋も、同様のものが陳列されていた。


「…これだ」


 澄子は人知れず、ぼやくように零す。それからその封筒を持ち上げ、きわめて優しく持ち上げた。

 これだ、と再び思う。
 どうしても踏ん切りがつかず、寸前で思い留まり、断念してしまう自分でも、これなら、大丈夫なのではないか。義勇に一声――声を交わすことができるわけではないが、交流することはできるのではないか?

 体に電流が走ったかのように頭が覚醒し、これだ、これだと何度も心の内でひとり呟く。すっかり失念していた。文通、といかなくとも、手紙で胸に秘めた想いを伝えることができるわけではないか。何も、言葉で直接伝える必要はない。言葉で伝えた方が良いこともあるかもしれないけれど、特段、澄子が手紙を書くぶんには問題ないだろう。

 彼は、手紙を受け取ったとき、どのような反応をするだろう。縁もゆかりもほとんどない者から届けられた手紙など、声を掛けられるよりも意外に思うかもしれない。
 あの涼やかな瞳に自分の丹精込めて書いた文が映る姿を想像すると、どうしようもなく胸が躍り、心なしか、己の口角も上がっている気がした。

 ――突然だが、澄子は毎年、この季節になると倹約を少し心がける。夏になると家族の命日があり、澄子はその際にささやかな贈り物をし、家族を弔うから。澄子は普段忙しいせいもあって、この季節は、入り用の物を除いて賜った給金はほとんどそちらに回す。初めて、家族のために用意するお金の額が、少しだけなのだけれども、減ることになりそうだ。別に便箋やらを買うだけだから、家族のための贈り物を用意するのに、困ることはないだろう。

 臆病な自分が躊躇わないうちにと、意を決して便箋と封筒を手に取り、それを店員のもとへと持ってゆく。
 これで、義勇と一言、交わせればよいのだが。淡い期待を胸に抱く。懐から財布を引っ張り出しながらもう一度、この手紙を受け取って封を切る義勇を想像して高揚感にやられた頭は、どうしようもなくくらりとした。