懸け橋はラベンダーの香り
-緑間side-
第一体育館では、相変わらず一軍の練習が続いていた。
…いや、相変わらず、ではないな。
赤司と紫原の対立した例の件以来、青峰と紫原が練習に出て来なくなった。
サボりが許されているのだ。
監督と赤司が特別に許可したのだから、俺が何も言う事は出来ない。が、不愉快だ。
以前よりも部内の雰囲気は、確実に悪くなっていた。
俺も、あまりメンバーと必要以外には口を利かなくなっていた。
チームプレーが必要ないなら、個人技に磨きをかければいい。
練習に打ち込んでいる時には、何も考えなくても済む。
俺は一心不乱にシュートを打ち続けた。
最近は、俺も3Pをほぼ外す事が無くなっていた。
ハーフコート内なら、まず100%決める。
天井すれすれの高い位置までボールを放ると、狙い違わずボールは軌跡を描いてゴールリングを潜った。
俺は、何度でもその練習を繰り返す。場所を変えながら。
最近、俺は偶に来る苗字先輩との対局が楽しみになっていた。
まだまだ彼女は未熟だが、少しずつ伸びて来ている。
…でも、もし俺がいつか負ける時が来る…かもしれない。
そうなったら…彼女は赤司の所に行くだろう。
…この関係もきっと終わる……のだろうな。
そして、それ以外での俺と彼女を繋ぐものは無い。
そう思うと、俺は何故か息苦しささえ覚えた。
「…俺がそう簡単に、負けるわけにはいかないのだよ…名前先輩…」
俺の呟いた声は、微かに揺蕩い、儚く消えた。
彼女と過ごす時間は、俺にとっては唯一の安らぎを得る時となっていた。
勿論、バスケと勉学と比べるものではない。
でも、その時間が失われる時が来るのを恐れていた。
もし…それが失われてしまったら、俺はどこで息を吐けばいいのだろう?
※※※
『あっ!緑間君!!』
昼休みに廊下で呼び止められる。
「苗字先輩…」
『やっと見つけたー!クラス聞くの忘れちゃったから探しちゃった!』
「メールしてくれればいいのだよ」
『携帯、充電が切れちゃってさー』
先輩が探してくれた。
そんな些細な事なのに、何故か心躍る俺がいる。
それなのに、俺の口から出る言葉はいつも素っ気ない。
「何か用なのですか?」
『うん。これあげるね!』
先輩は、俺に小さなハート型の袋をくれた。
「…これは?」
手に取った時に、ふわりと柔らかい香りに包まれた。
『ラベンダーのサシェ(匂い袋)だよ。普通の袋探したんだけど、生憎ハート型しか無くって…男の子にはどうかと思ったけど…』
「…何かいい香りがするのだよ」
『ラベンダーポプリが入っているからね。疲れている時に安眠とか、気持ち休める効果があるんだよ』
先輩には、俺が疲れている様に思えたのだろうか?
「…別に俺は疲れてはいませんが?」
『なら、いいんだけど。でも、良い香りでしょ?気分転換になるから、鞄にでも入れとけば?
いつも、将棋に付き合ってくれてるお礼だと思って』
お礼…か。
優しい香りと愛らしいハートが名前先輩らしい、と思えて俺は微笑んだ。
「…ありがとうございます。その内に、蟹座のラッキーアイテムになるかもしれませんし。
ポプリ、ハート型、どっちにも対応出来るかもしれないのだよ」
『普通にその可能性はあると思うよ。…あの大玉に比べればw』
先輩は、けらけら笑っている。
俺も彼女につられて緩く口元が綻んでいた。
※※※
バスケ部の練習が終わって、着替えている最中、先輩から貰ったサシェが鞄から転がり落ちた。
それを黄瀬が目敏く見付けた。
「緑間っち!それ、ポプリっすね!?」
「……ああ、良く知ってるな」
「女の子が好きそうな物は大抵網羅しているっス!…ええと今日のラッキーアイテムは地球儀だし…?
もしかして、例の先輩から貰ったんスか?」
「そうだ。将棋を教えている礼なのだそうだ」
それを聞いた黄瀬は、何故か残念そうに眉を下げた。
「…何だ。礼っスか? それ、ハート型しているから、俺はてっきり…」
大方、黄瀬は、恋愛に絡めたいのだろう。
だが、俺と先輩とは、そんな甘い関係ではないのだよ。
(普通の袋探したんだけど…)
苗字先輩の声が脳裏に再生する。
俺は、心の奥に微かな痛みを感じた。
そう…このハート型は"love"の意味では無い。
ただの…形にしか過ぎない。
俺は俯いた。
その時、ふわりと優しい香りが鼻腔を擽った。
名目は礼だ。
でも、この香りは、名前先輩の心遣いなのだよ。
これを買う時は、先輩はきっと、俺の事を思い浮かべたに違いないのだから…
俺はサシェをゆっくりと撫でた。
まだ…二人の時間は残されている、そう願いながら。
※※※
-名前side-
将棋部
「苗字さん、赤司君には挑戦した?」
部長が対局しながら、私に聞いて来た。
『いいえ。まだです。バスケ部副部長の緑間君とはやってはいますが、まだ勝てていません』
「へぇ…最近、苗字さん、また強くなってんじゃないかと思っているんだけど…バスケ部って一体何なの!?」
『…それは私が聞きたいです。…将棋部に勧誘しましたが、フラれました』
「だよねぇ。緑間つったら、堅物の変人で有名じゃん。バスケ界では、キセキの世代、3Pシューターとして有名だけどね」
『キセキの世代…?』
「バスケ部の今の二年生のレギュラーが、そう呼ばれているらしいよ。何でも中学生を超えたモンスターレベルだって」
…そうか。
最近、私は、緑間君がバスケ部の話をしない事に気が付いていた。
以前は楽しそうにしていたのに…
私が話を振っても、曖昧に話を逸らせてしまう。
でも、別にバスケの調子が悪いわけではなさそうだし、練習にもきっちり出ている。
試合もきっちり勝ち続けている。
「モンスターレベルはバスケだけじゃないんだろうね」
『将棋もって事ですか?』
「せめて引退する前に、苗字さんが勝てそうなら良いんだけどね」
…もし…私が勝てたら、私は赤司君に対する挑戦権を得る事が出来るのだろうか?
でも、そうしたら……緑間君とは?
連絡先は知ってるから取れるけど…会う名目は無くなってしまうのだろうか?
そう思ったら、何とも言えない寂寥感に捉われた。
あの…厳しくて優しくて…気難しくて…可愛い後輩である彼。
私は、彼との時間が無くなるのを惜しんでいた。
でも、その奥底にある気持ちは…直視出来なかった。
自覚してしまったら…多分、私は戦えなくなる。そう思ったから。
私は首を振った。
まだ、一勝も出来ていないのに、もし勝てたらなんて、おこがましいにも程がある。
私は、当面の目標を目指す事を考えなければ。
それからはそれからの事だ。
…そうでなければ、本当に卒業まで緑間君に勝てる事すら、出来ないかもしれないのだから。
でも、私も最近、緑間君と対戦出来る事が楽しくなっていた。
例え勝てなくても。
三年になると、進学の事とか色々考えなくてはならない。
クラブに居られるのもあと僅か。引退して、後輩に引き継がなくてはならない。
そんな忙しない時期なのに、緑間君と指している時には、静謐な刻が私を落ち着かせてくれる。
彼も、一つ年下にも関わらず、落ち着いているし、安心する。
それに、彼の的確なアドバイスを元に指していると、少しだが確実に強くはなっているみたいなのだ。
…赤司君に挑戦する事以上に、私は緑間君と将棋するのが楽しい。
そして、差し向かいながら、彼と話をしているのも楽しい。
今は…それでいい。
もう少し……この時を楽しんでいたい。
私は軽く頭を振り、意識を切り替えて、目の前の将棋盤を見つめた。