昼なかに水没
全身の血が抜け落ちていくような。そんな感覚だった。
指先が急速に冷えていく。ばくばくと破裂しそうなのは心臓だろうか。立っていられることが不思議でならないほど、目の前がぐわぐわ揺れる。そのくせ眼前の光景は嫌というほどくっきりと見える。見えすぎて、網膜に焼き付いてしまいそうだ。
「だれ、その人⋯⋯」
辛うじて発せた言葉は、情けないほどに震えていた。
まあ、この光景を見てしまったらそれも致し方なしというものだ。
◇
今日は、春から大学生になりなかなか会うことのできなくなってしまったふたつ年上の彼氏に、久々に会える予定だった。部活が久々の久々でオフなのだ。
だから阿呆みたいに浮かれて、たっぷりお洒落をして、うきうき心弾ませながら待ち合わせ場所の駅にきた。
ここで待つこと──早二時間。
待てども待てども待ち人は現れず、目の前を通り過ぎるカップルの数もそろそろ三桁になろうかというところで数えるのをやめた。それからは、一向に既読がつかない画面を見続け、何度も顔を上げては人混みの中で視線を泳がせた。
時間を間違っているのだろうか。約束自体を忘れてしまったのだろうか。寝坊だろうか。具合が悪いのだろうか。事故にでも巻き込まれてしまったのだろうか。それとも。
──意図的に、来ない?
様々な可能性を考えて、そのたびに浮き上がる不安からは、目を背け続けた。大丈夫、と言い聞かせて。
その葛藤の末にようやく見つけた彼氏の背中。泣きそうになりながら駆け寄ろうとして、わたしは、はたりと足を止めた。
⋯⋯なぜ、彼氏の腕に絡まるように歩いている女の子がいるのだろう。いちゃこらと。人目も憚らずくっつきあいながら。でれっと鼻の下を伸ばして。
え、だれ、それ。
どこ行くの?
やめておけばよかったのだ。この時点で、やめておけばよかった。それなのにわたしは、自ら傷を作る行動を取ってしまった。ふらふらとした足取りで、彼のあとを追ってしまった。
もしかしてお姉さん?
そういえば地方に就職しているお姉さんがいると言っていた。急に地元に帰ってくることになって相手でもしているのだろうか、とかなんとか。
目の前のいちゃつき度合いからは考え難いことをでっち上げ、最後の希望に縋ろうとする。その様は傍から見ればひどく滑稽だっただろうけれど、わたしは必死だった。
嘘をつくるのに、必死だった。
何個か角を曲がって、駅前の大通りから少し内側に入ったところで、彼らはとある建物へと入っていった。
普通の高校二年生をしているわたしでもわかる。これがいわゆるラブホというやつで、ここに入ったが最後、男女ですることなどひとつ。ということくらい、わかる。
信じられない。
信じたくない。
何かの間違いだ。彼に限ってそんなことあるわけがない。そう思いたい。思いたいのに。
しかし残念ながら、──事実だ。
人伝でもなんでもない。自分の目で見てしまった。この事実だけは変えようがない。
──ここから先はあまり記憶がない。
いつあの場所を離れたのか、どうやって歩いたのか。何もわからないけれど、気づいたときには駅に戻ってきていた。身体の感覚がめちゃくちゃだ。ふらふらする。足元が覚束ない。
⋯⋯帰ろう。帰らなくちゃ。
俯きつつもう一歩を踏み出したときだった。トンッ、と肩が誰かにぶつかってしまった。相手は男性だったようで、加えてわたしは絶賛どん底モードのへなちょこだったから、少しの衝撃でも容易に吹き飛ばされて、そして容易に転んだ。
打ち付けたおしりが痛い。
ぶつかった相手もまさかわたしが転ぶとは思っていなかったようで、頭上からは「えっ!」と驚嘆の声が落ちてくる。
「なんかごめん、大丈夫?」
「いえ⋯⋯こっちこそごめんなさい」
「立てる?」
少し呆れた響きが混ざる口調だったけれど、心がずたぼろの今のわたしにはすごく沁みた。それはもうめちゃくちゃに優しく沁み渡って、わたしの心をより一層弱くさせた。
世の中には、見も知らずの人間に優しくしてくれるこんな男の人もいるっていうのに。わたしがはじめて恋心を捧げた男は、大学生になった途端にどこぞのオネーサンと真昼間から浮気である。
自然と下がってしまった目線。その視界に、おおきな手が差し出される。普段であれば決して取らないであろうその手を、何も考えずに取る。くんっと引かれ、なんなく立ち上がることができた。
「あれ⋯⋯あんた一也んとこのマネージャーじゃん。こんなとこで何してんの?」
「え、あ⋯⋯成宮くん」
顔を上げた先。
宿敵中の宿敵が、ぽけっとした表情でわたしを見下ろしていた。
甘いばかりと思ってた
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