人工呼吸みたいな紅茶
知った顔──といっても、ちゃんと話したことなんてなかったけれど──を見て、心の中で何かがふつりと切れてしまった。そこから堰を切ったように溢れ出るものを、止めることができなかった。
成宮くんからしたらまるで意味がわからないし、全然意味がわからないし、そしてやっぱり意味がわからないと思う。
「えっ、は、なんで泣いてんの?!」
だから彼の反応は至極真っ当なもので、わたしは彼に、彼が原因でないことを伝えなければならない。それなのに、動揺しきった頭では上手い返しもできず、只々首を横に振るよりほかなかった。
成宮くんはといえば、マウンドでは絶対に見せないようなレアな表情をしていた。そのお顔から察するに、たぶんこれは、困惑、狼狽、迷惑、マジ何なんだよコイツ──みたいな気持ちなのだろう。
非常に申し訳ない。
「痛いわけじゃないの?」
「ん、」
「じゃあ何、ビックリした?」
「ううん、」
「あ、もしかしてぶつかった相手が俺で感動した? ずっとファンだったとか」
これには改めて幾度か首を振って答えた。「あっそ! 冗談に真面目に返事しないでよね!」とあからさまに苛ついた声が返ってきて、更に申し訳ない気持ちになる。だがしかし嘘は付けまい。なぜ宿敵のファンにならなければならないのだ。
まあ、マウンドの彼が格好いいことは認めるけれど。
「なんだよもうワケわかんねぇ⋯⋯もういーや、とにかくコッチ来て」
「っ」
有無を言わさず腕を引かれる。
成宮くんのことだ。どこか人目の少ないところで、文句のひとつやふたつを頂けるのかもしれない。そしてわたしはそれを有難く頂戴せねばならない。それに今は、どんなかたちでも一人きりになるよりは救われる気がした。
そう考え、おとなしく彼のあとを追った。
◇
「ん。飲みなよ」
「え⋯⋯」
連れられたのは、駅近郊外に佇む公園だった。隅の木陰のベンチに座るよう促され、自販機で買ってくれたミルクティーを手渡される。
躊躇していると、隣に腰掛けた成宮くんが衒いもなくコーラのプルタブを引いた。ごくりと男らしい喉元が上下する。つられるようにわたしもタブを引き、ひと口含む。
甘い。
甘さ控えめ、と記されているはずのその液体は、ひどく甘かった。狡いくらいに甘くて、涙が溢れてしまう。
「ごめん⋯⋯なんか止まんなくて」
「あーもう、ほら」
ハンカチなんて持ってねぇから、と。眦から落ちる涙を、指先で少し乱暴に拭ってくれる。
ほぼ初対面の人に何をさせているんだわたしは。と思う反面、今だけはこの優しさに浸っていたいとも思う。大層自己中な話である。
「成宮くん⋯⋯聞かないの?」
「⋯⋯何を」
「いや、その⋯⋯」
わたしが泣いてる理由をだよ。
だなんて、一体どこの構ってちゃんだ。十秒前に戻って今の質問を綺麗さっぱり取り消して、「今日は暖かいですね」くらい意味のない発言に取り替えたい。
そう後悔するもとき既に遅し。
じっと横目でわたしを見遣った彼は、ちいさく息をついてから口を開いた。
「別に、話したきゃ話せばいーし、そうじゃないなら話さなくていーよ。どうせしばらくは止まんないんだろうし、好きにすれば」
もう一度、彼の指先が頬を拭う。
そのあたたかさを感じつつ、彼の言葉を反芻する。つまり、涙が止まるまで待ってくれるつもりで、その理由を話すも話さぬもわたしの自由ということだ。
こんなに迷惑をかけているというのに、なんということだ。感謝恩礼ここに極まれり。
なのだけれど。
──成宮くんってこんなんだっけ?
失礼甚だしくそんなことを思う。試合で出会う彼はいつだって、我儘を極めた王様のようだったから。
彼の気持ちは本当に本当に嬉しいし、できることなら甘えきってしまいたいところだけれど、そういうわけにもいかない。我が校の選手同様、彼も超多忙なお人なのだ。
「時間使わせちゃってごめんね、ありがとう。もう大丈夫だよ」
そう伝えてみると、彼は、間髪入れずに「はぁ?!」と声を上げた。その迫力たるや、思わず肩が竦んでしまう。これを往なして手玉に取れる原田さんや御幸くんの強さに驚嘆である。
「ばっかじゃないの?! こんな状況で俺だけ帰れるわけないじゃん、信じらんない! このままじゃ俺が女の子泣かせて捨ててくみたいじゃん! もうさー、そんな変な気遣うくらいならさっさと枯らしちゃいなよ」
「ふふ」
いえ、やっぱり成宮くんでした。
この物言いに安心する。これは、いつもわたしが見ていた成宮くんだ。そして、隠しきれていない優しさ。こっちは今日、はじめて知った成宮くん。
こんな一面もあるんだな。そう思った時には、口を開いていた。
「⋯⋯あのね、」
「うん、何」
「彼氏に浮気されたの」
「⋯⋯そ」
「約束をすっぽかした挙句、わたしとは行ったことさえないホテルに入って行った。綺麗な女の人と。⋯⋯今は何もわからない。悲しいのか、怒ってるのか、どこまでが本当でどこまでが嘘だったのか、全部わからないの」
わからないのに、涙だけは出る。
思い出も、自尊心も、自己肯定感も、とにかく自分を支えていたものすべてが崩れて行ってしまう気がして。それでも気丈にこの場に留まっていたくて、缶を握る手に力を込める。
そんな男やめときなよ、とか。早めに本性わかってよかったじゃん、とか。あんたにも非があったんじゃないの、とか。
どんな厳しいことを言われるだろうかと身構えたけれど、彼は、素っ気ない相槌だけを打ちながら、取り留めもないわたしの話を聞いてくれた。
決して誰も責めず。
そして慰めもせず。
そんな彼を見ていると、不思議と心が凪ぐ気がした。いや、冷静になるという表現のほうが近いかもしれない。ひとつひとつを、しっかり考えようという気になった。
少し無言の時間をおいてから、成宮くんは手を差し出してこう言った。
「⋯⋯ねぇ、携帯だして」
「? うん」
「何してんの、ロックも解除してよ」
「え、」
あまりにも当然のことのように言われ、思わずロックを解除して手渡す。いやまって、やっぱダメ、と思ったときには、華麗な手捌きによる画面操作がまさに終わったところだった。
「はい終わり。俺の連絡先入れといたから」
「えっ、ちょ」
「夜、電話するから出てよね」
「うわ、わ」
ぽーい! と放られたちいさな四角い液晶を、辛うじてキャッチする。
「危ないじゃん! いくらすると思って⋯⋯」
そんな抗議の声は、自分の画面を見ながら告げられた「へー、あんた名前ってーの」というなんとも暢気な彼の言葉に、尻すぼみになって消えた。
勝手に連絡先入れたり。いきなり呼び捨てにしたり。色々ツッコミどころが多すぎる。
だがしかしきっとこれは序の口、気にしていては彼とは渡り合えないのだ。
深呼吸。平常心。深呼吸。
何度かそれを繰り返してから、気を取り直して向き直る。
「ところで成宮くんはなんであんなとこにいたの? 稲実は今日練習は?」
「なんでって、あの駅ウチに一番近いじゃん」
「⋯⋯そっか、確かに言われてみれば」
「そんでウチは半日オフ。青道もオフなんでしょ? だいたい被るよね、こーいうのって。まぁそれで、新しいバッティンググローブ調達してきた帰りだったってわけ」
ぴらり。彼の鞄から薄手のグローブが躍り出る。それを目にして、記憶が蘇る。数日前、スポーツショップで。「こちら新しいモデルが出たんですよ」「へぇー、でもまぁ俺はこっちで。使い慣れてるし」、と。こんな会話が耳に新しい。
「これ新しいモデルのだよね?」
「そ、よく知ってんね」
「御幸くんも見てたから。買ってはいなかったけど」
「一也?」
「この間の買い出し、御幸くんが手伝ってくれて、そのときに。選手に手伝ってもらうなんてできないって断ったのに、聞いてくれなくて」
「⋯⋯ふーん、一也がねぇ」
成宮くんは覿面不機嫌な顔を作った。彼らの間でシニア時代にいろいろあったという噂は、どうやら嘘ではなさそうだ。
「よーし、そろそろ行こっか。駅まで送ってあげるからさ」
「え、いーよ、さすがにそこまでは」
「いちいちうるさいなー。ここまで来たら黙って言うこと聞いときなよ」
「あはっ、なにそれ、めっちゃ横暴ですー」
彼と一緒に立ち上がり、一緒におおきく伸びをする。仰いだ空は晴天。今日がこんなに麗らかな日だったのだと、はじめて知る。
いつの間にか、涙は止まっていた。