ビタービターソースイート
荒く乱れた息が背後に流れていく。喉が張り付き、汗が顳顬を伝う。それでも足は止めずに駅から走り続けた。
立派な学校銘板を素通りし、坂を上ってグラウンドへと一直線に向かう。そして視界にフェンスが入ったあたりで、ふと足を止める。
──どうしよう。
勢いで来てしまったはいいものの、この先のことを何も考えていなかった。激闘の翌日。レギュラー陣はもちろん休養日だろうけれど、他の部員は練習をしているかもしれない。そこに乗り込むことはできないし、運良く手隙の部員に会えたとして、そもそも何と言って成宮くんに取り次いで貰えばいいのかもわからない。
先に連絡を入れて、どこかで待ち合わせでもするべきだった。御幸くんに背を押された勢いのまま、何の考えもなしにここまで来てしまった。
出直そうか。ダメ元で突撃してみようか。迷っていた、そんな時だった。
「わぁ、いた」
軽く身体だけ動かしてでもいたのか、ラフなトレーニングスタイルでフェンスの横を歩いてくるその姿を見つけたのは。
一歩。二歩。
ゆっくりと彼に向かって足が動き出す。徐々に勢いのついた足取りはいつしか駆け足となっており、そのまま彼のもとへと走り寄る。
「成宮くん!」
その声に彼が視線を動かす。わたしの姿を認め、一瞬で驚きに見開かれた目。「は」のかたちにぽかりと開いた彼の口からはどうやら、なかなか言葉が出てこないらしい。
何とも間抜けな顔で突っ立っている彼の前で足を止める。息が乱れている。汗もまだ引いていない。とてもこれから想いを伝える女の子の装いではない。けれど。
「成宮くん、あのっ、あのね」
「は⋯⋯名前⋯⋯何してんの、こんな時に」
「⋯⋯? こんな所で、じゃなくて、こんな時に⋯⋯?」
何してんの、こんな所で。
であれば、その言わんとするところは理解できる。他校に通う想い人がアポ無しで突然自分の学校にやって来たら、誰だってそう思う。
けれど、こんな時に、とは。
意味はわかるけれど、意図がわからない。この時間って何か重大な用事あったっけ。と首を傾げていると、彼は呆れた面持ちで話し出す。
「まったく、傷が癒えたら俺が行こうと思ってたのにさー、なんで名前から来ちゃうわけ?」
「? 傷って?」
「そんなの昨日の敗戦の傷に決まってんじゃん! 逆転サヨナラで夢の舞台逃したんだよ?! 自分から傷抉られに来てない? 大丈夫?」
「だ⋯⋯大丈夫じゃ⋯⋯ない⋯⋯そんな皆まで言葉にしなくても⋯⋯」
そうだった。彼のことで頭がいっぱいで、一瞬忘れていた。わたしたちは昨日、彼らに負けたのだ。昨日は彼の顔を見ることさえできなかったし、ついさっきまであんなに落ち込んでいたのに。忘れていた自分が信じられない。
突如としてずーんと項垂れ出したわたしを見て、彼は呆れを通り越したのか怒り出す。
「ほらやっぱり大丈夫じゃない! 何?! 忘れてたの?! アホなの?! 名前ってアホなの?!」
「いやほんと⋯⋯なんかごめん⋯⋯」
「いや謝ることではないんだけど!」
「ふふ」
いつもの成宮くんだ。いつもの、傍若無人な彼。彼がいつもの調子でいてくれるおかげで、お互い変な気遣いや遠慮をしなくていいのだと、力が抜ける。勝者と敗者。どう取り繕ってもそれは変わらない事実だし、勝ったから、負けたから、といって想いも変わりはしない。
「で、一体何しに──」
「成宮くん」
彼の言葉を区切って。真っ直ぐに見上げる。そこには、勝ち気で強く、それでいて透き通るような瞳。
いつしかこの瞳に、惹かれていた。
腹の奥深くまで息を吸う。緊張で鼓動が逸る。手が震えてしまいそうだ。足元がふわふわと覚束ない。こんな気持ちを、彼も、そして御幸くんも、伝えてくれたんだな。そう思うと、心臓がきゅうと優しく痛んだ。
手を固く握り、意を決して口を開く。ここまでわたしの背を押してくれた人たちの想いに、しっかりと応えられるように。
「成宮くん。──好きです」
喉を通って出た声は、少し震えて、少し掠れていた。それでも彼の耳には届いたらしい。ゆっくりと見開かれた双眸が、わたしを凝視している。
「成宮くんのことが、好き、です。気付いたらもう、わたしのなかには成宮くんがいっぱいで⋯⋯嬉しくても辛くても、頭の中に成宮くんが出てくる。もし成宮くんが、まだわたしのこと──っうわぁ」
急に手を引かれる。あまりにも突然で、ずっこけそうになりながら彼の後を追う。速い。小走りになる。それでも彼は振り返ることなくずんずんと進み、校舎の裏に回ったところで漸く手を離した。畳み掛けるように言葉が飛んでくる。
「ちょっと名前! 前にさぁ、夏が終わったら俺がもう一回言うからって言わなかったっけ?! それなのに何勝手に⋯⋯俺のこと殺す気?!」
「こ、殺⋯⋯?!」
彼は片手を額に、片手を腰に当て、溜め息を吐きながら瞼を閉じる。一見怒っているようにも取れるけれど、わかる。ただの照れ隠しだ。それはつまり、彼も嬉しいと思ってくれているということで、それはつまり、──そういうことだ。
「⋯⋯ねぇ、マジで言ってんの?」
「マジ以外でこんなこと言わないよ」
「ほんとに俺がいいわけ?」
「ふふ、うん。成宮くんじゃなきゃダメみたい」
口元を指の背で隠す。照れくさくて彼の靴へと視線を落とす。わたしのローファーとの距離は、二歩分くらいだろうか。使い込まれ、土に汚れた靴だ。その靴が、ザリ、と地面を擦る。左足が一歩、わたしに近付いて。
次の瞬間には、彼に抱き締められていた。
「⋯⋯っ」
「ちょっともうそれ以上喋んの禁止。こっち見んのも禁止! 暫くじっとしてて!」
「な、なんで⋯⋯」
「可愛くてどうしようもないから!」
ちょっと黙ってよ、とでも言うように、胸板に押し付けられる。わたしはただ真っ赤になって、「⋯⋯⋯⋯は、い」とだけ頷いた。
お許しが出るまでどのくらいの時間が流れただろうか。髪をひたすら撫でたり、身体をひたすら抱き締めたり。そうして何かに満足したらしい彼は、やっとのことで密着していた身体を離した。
それでもわたしの両肩に前腕を乗せて囲うようにしたままで、軽く首だけを傾げる。
「そーだ。ねぇ、今から俺のこと名前で呼んでよ。好きなんでしょ、彼氏になるんだからさぁ」
「うわ、その顔⋯⋯!」
さっきまで随分と可愛い反応を見せてくれるなぁと思っていたら、これである。このにんまりとしたしたり顔。数多の人間を煽り、怒らせまくってきたこの顔である。この決して長くはない時間の中で、心の何処をどう処理したらそうなれるのだろう。不思議でならない。
「あの、わたし今日はもう色々限界を突破してて、名前なんてとても⋯⋯」
「でもタイミング逃すとなかなか呼べないよ? てか俺なんて最初っから名前で呼んでんじゃん。不公平だろ」
「ええ⋯⋯?」
微妙な言い掛かりに首を捻る。
まぁしかし、彼の言うことにも一理ある。きっと、時間が経てば経つほど、積み重ねた時間が増えるほど、呼び方は変えにくくなる。自然に変化させることができる人もいるのだろうけれど、少なくともわたしは違う。変えるなら、その名を口にするなら、きっと今だ。
そう自身を納得させ、それでも随分と口籠ってから、やっとの思いで口を開く。
「め、⋯⋯め」
成宮鳴。わたしの、好きな人。
どん底だとさえ思ったあの日。突然わたしの前に現れて、いつしかわたしの真ん中に居座るようになった人。強さをくれた。優しさをくれた。返せるものがあるのなら、返したい。応えられるものには、すべて応えたい。
「⋯⋯鳴、くん」
「──⋯⋯ッ」
「うわ、は、恥ずかしい⋯⋯!」
瞬く間に熱くなった頬を両掌で覆い隠す。恥ずかしいにも程がある。いつかこの呼び方にも抵抗感がなくなり、むしろこの呼び方でなければしっくりこない。なんて日が、果たして訪れるのだろうか。
おずおずと彼を見上げる。彼のことだ。さも満足気な顔でもしているのだろう。そのお顔でも拝んで──
「⋯⋯って」
しかし予想は外れることになる。
見上げた先には、わたしに負けず劣らず真っ赤になった成宮くんがいたのだ。さっきまでの威勢はどこかへ行ってしまっていて、口を半端に開いて、そうだ、まるで。
まるで、告白でもされたかのように。
そんな姿に思わず声を上げる。
「ちょっと、自分で頼んでおいてそんな顔卑怯だよ〜〜〜可愛いって思っちゃったじゃん!」
「っうるさいバカ! だいたいお前が──」
「わたしはお願いされたこと言っただけだもん! すぐ人のせいにする!」
「はぁ?!」
「はぁ、じゃない!」
「あーもーうるさい!」
肩に回されたままだった腕に、ぐっと後頭部を引き寄せられる。──っキス、され、そう。
そう思った時には、唇を塞がれていた。
はじめて触れた彼の唇は、酷く甘くて、そして少しだけ苦かった。
◇
「何、一也。人がいちゃいちゃしてるとこそんな距離でよく見てられるよね」
「いやー、苗字はちゃんと幸せなのかねえって、気になるだろ。一年経っても」
「は?! お前に気にされなくても幸せだっての!」
「ははっ、どーだか。ちなみに俺は結構幸せだぜ」
「聞いてないし! 勝手にどーぞ?!」
「なんせ最後の夏は俺らが貰ったしな」
「っあ〜〜〜ム カ つ く!」
あれから一年が経ち、わたしたちは引退した。成宮鳴と御幸一也。野球と生きる彼らだから、部活を引退したところで関係がなくなるわけもない。
それでもあの日以来、御幸くんはずっといつも通りでいてくれたし、鳴くんもいつも通りだった。二人のことだから、わたしがいつも通りでいられるようにしてくれていたのだろう。
本当に、恵まれている。
傷付かずに生きていくことはできないし、傷付けずに生きていくこともできない。最小限で留めることは出来ても。誰かと関わって生きていく限り、叶いはしない。
人生甘いだけでは成り立たない。
そんなわたしたちの、縺れた日々のひとかけら。いつか各々道を違えることはあれど、この日々は、いつまでも記憶の奥で息衝くのだろう。
甘いだけならよかったのに
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