それでも誓えるだろうか
「あーあ」
テレビから流れる昨日の試合の音だけが、しんとした部屋にちいさく響いている。夏だというのに底冷えしたような食堂の中で、ひとり天井を仰いだ。
「⋯⋯行かせちまった」
たった今。たった今だ。
この手の中に閉じ込めていた存在を、自ら手放した。自分のもとには決して戻らぬと分かっているのに、その背を押した。
離さなければ、良かっただろうか。
あいつの身体を抱きしめたまま、離さなければ良かっただろうか。引き留めるための狡い方法はいくらでもあった。此度の敗戦を持ち出しても良かったし、どこか揺らいでいたあいつの情に訴えても良かった。あいつは優しいから。きっと、留まってくれた。
──いや、そんなことをして何になる。
他の奴を一番に想っているあいつの笑顔を隣に置いておいたとして、それが一体、何の意味があるのだ。心に蓋をしたまま、無理に笑うあいつの隣にいて、何になる。そんなの、ただ。
ただ、虚しさが募るだけではないか。
だから、俺のとった行動は正しく、真っ当で、理想的なものだった。──笑ってしまう。まるで人間らしくない。綺麗事だ。嫌悪感さえ抱くほどの綺麗事。心の底ではこんなに鬱屈としたことを考えているというのに、どの面下げて、あんなに気障なことを言えたのだろう。
「⋯⋯どーすれば良かったんだろうな」
答えはない。
あいつに好意を抱いたことにも、それが実らなかったことにも、果たしてどんな意味があったのか、それも分からない。
だが、自分の中でひとつ、価値観が変わったことだけは確かだと思う。
恋だとか愛だとか、そんなのはただただ厄介なものだと思っていた。面倒で、煩わしくて、ただ野球の邪魔になるだけだと。
でも、そうではなかった。
苗字のことを考えている間の自分は、一歩下がって客観視してみると、酷く滑稽だ。浮かれていて、自分が自分ではないみたいで、そのくせ独特の高揚感と、そんな自分に対する嫌悪感にも苛まれている。しかし意外とそんな自分も悪くはない気がして、その証拠のように、心のあたりがいつもあたたかく、忙しかった。
どうやら恋愛は万事が万事、悪いものではないらしい。
──かといって当分、苗字以外の異性に興味は微塵も沸かないと思うが、せめて。時折貰うラブレターのような何かには、もう少しだけ真面目に目を通そうと思う。そこには確かに、誰かの想いが存在しているのだから。苗字が俺に向き合ってくれたように。応えることは出来なくとも、せめて、無下にはしないように。
そんな事を考えてから、ふと、送り出した苗字の背中を思い出す。
「つーか鳴が相手とか⋯⋯あいつ大丈夫かよ」
俺が言えたことではないが、鳴が相手だなんて、この先苗字が重ねるであろう苦労がありありと想像できてしまう。
やっぱ行かせなきゃよかったか。いや、あれこれと悩む苗字を支えながら、機会を伺うっていうのもありか。恋愛相談をするうちに、気付けば相談相手と恋に落ちている、なんてのも世間ではまぁよくあることらしいし。
──だなんて、また打算的なことを考えている自分に嘲笑が漏れる。どうしようもねぇ。
これからはただ、真っ直ぐにあいつの幸せを願ってやれる。
「⋯⋯そんな男でいてぇよな。キャラじゃねぇけど」
仰いでいた天井から視線を剥がす。見ると、目の前には、野球。付けたままのテレビで、昨日の試合が流れている。
この夏は、鳴に負けた。全てに於いてだ。甲子園も。苗字も。あいつに持っていかれた。このまま引き下がるわけには到底いかない。
「⋯⋯次はとられねぇぞ、鳴」
燃えるような闘志が身の内で蠢くのを感じる。最後の夏まで、一年。あと一年しかない。この限りある時間の中で、やらなければならないことは気が遠くなるほどある。立ち止まってなどいられない。
結局、俺には野球なんだよな。
机の上で両の手のひらを組み、力を込める。一度だけ硬く、目を瞑る。未だに眼裏にちらつく最後の背中を、閉じ込めるようにして。