きみが願った未来の話さ





*

 父親は、生まれた時から写真の中にいた。
 実物に会ったことは一度もない。名を呼ばれたことも、その温もりに触れたことも、一度もない。

 しかし父がいないことを、“哀しい”と思った記憶はない。
 
 母がそうさせなかったのだろう。父がいない世界でも“普通”に生きていくことを。普通に、幸せに、生きていく術を。全て教えてくれた。だから世間一般でいう父親と自分の父親が違うのだと幼いながらに知った時も、寂しさは覚えなかった。むしろ誇らしく思ったように記憶している。なぜなら母が語る父は、母にとって、そして自分にとって英雄だったからだ。

 父の写真が収められたアルバムを、幾度も捲った記憶がある。その数は決して多くはなく、すぐに自分の写真の方が多くなってしまったが、自分よりも、父の姿を見るのが好きだった。写真を見ながら母が語る、父の話が好きだった。父を語る母の顔を見るのが、好きだった。

 幼い頃は自分では分からなかったが、母はよく、自分の笑顔を見ては「その笑い方、陣平くんにそっくり」と懐かしそうな顔をした。それは自分にとっても嬉しいことではあったのだが、父の写真を見るたびに、自分もこんなに生意気な顔で笑っているのかと不服さを露わにしたものだった。すると母は、「あはは、違うよ、その笑顔じゃなくて⋯⋯いやその笑顔もそっくりなんだけど⋯⋯写真には残ってないんだ」と酷く優しい表情で笑った。

 いつだっただろう。その表情の奥に巣食う、永遠に消えることのない寂寥に気が付いたのは。
 
 ずっと写真の時間のまま。止まったままの記憶。永遠に歳を取らない父と。歳を重ねていく母と自分。そう遠くない未来で父の年齢を超える日が来るのだと思うと、不思議な感覚に包まれると共に身が引き締まった。自分は父のように、──誰かを守れる人間になれるのだろうかと。







「あの人のくれた『愛してる』で生きてきた」


 ある程度大人に近付いてから、一度だけ聞いてみたことがある。最愛だったのであろう父を亡くして、それでも母は、何故こんなふうに生きてこれたのかと。
 
 その際に母が答えた言葉だ。忘れもしない。鮮明に覚えている。息子に向かってなんて小っ恥ずかしいことを言うんだと小言を吐こうとして、母の顔を見て、すぐに止めた。

 代わりに純粋な疑問が口を衝いた。


「俺は?」
「俺? ⋯⋯ああ、あなたを生き甲斐にしなかったのかってこと?」
「そ」
「ふふ、しないよ。あなたの人生はあなたのものだから。わたしにはわたしの人生。あなたと生きることは間違いなく“希望”だったし、あなたが一人で生きていけるまで守ることは使命みたいなものだったけど⋯⋯絶対に依存はしちゃいけないって、それだけは気張ってたからなあ」
「依存⋯⋯ね。それが出来たら母さんも楽だったろうに」
「あはっ、ほんとにね」


 本当に、楽だっただろうにと思う。全ての生きる理由を、存在意義を、息子に預けてしまえたら。
 
 しかし母はそうしなかった。自分に依存することも、支配することも、父を重ねることも、決してしなかった。


「ていうか何ー? いつの間にかそんなことも言えるようになったんだねえ」
「⋯⋯」
「ふふ、そんなじとーっと見ないでよ」
「母さんが揶揄うからだろ」
「ごめんごめん、嬉しくて」


 そう笑ってから、母はぽつりと呟いた。
  
 
「⋯⋯いつか、陣平くんに会えた時にね、自慢出来るような生き方をしたかったんだよ。陣平くんが守ってくれた人生は、こんなに満ちたものだったよって」


 母が胸に当てた左手。環指に欠かさず嵌めていた指輪が重なるように添えられた先には、肌身離さず付けていた父の指輪を通したネックレスが揺れていた。
 
 こんな考え方が出来るに到るまで、一体どれ程の時間を要し、どれ程の苦悩と葛藤とを乗り越えてきたのだろう。決して涙を見せることなく。いつも笑顔を振り撒いて。その強さを、母は如何にしてその身に宿したのだろう。

 そんな想像も及ばぬことを、思ったものだ。







 ノックのあと、少し重たいドアをスライドして開けた。「いらっしゃい」と迎えた母は、いつものようにベッドの上に座り本を読んでいた。その向こう、窓際の床頭台に置かれている花瓶の花が新しくなっていることに気が付き、足を向ける。
 

「この花。また?」
「うん、午前中に零くんが来てくれて」
「──“零くん”、ねえ」
「あはは、まだ根に持ってるの?」
「当たり前だろ」


 ぶすりと曲げた唇。拗ねた感情を指先に乗せ花びらをやわく弾くと、差し込む光の中で薄桃の花弁が笑うように揺れた。まるで“零くん”に笑われたようで、余計腹が立つ。
 
 母にはパトロンともいうべき存在がいる。
 
 幼い頃から身近にいたその男を、自分は「安室」と呼び捨てにし、歳の離れた兄のように思い慕ってきた。父の親しい友人だという彼はいつも、母と、そして自分を支えてくれた。

 母と彼は恐らく精神的に一番近いところにいたのだと思う。だがその距離感が男と女のそれとして縮まることは決してなかった。それは端から見ていれば明らかだった。母は何年経っても、どんな時も、誰よりも何よりも父を愛していた。それは彼にとっても自明の理のようだつた。
  
 最近のことだ。ひょんな事をきっかけに長年隠し通されていた事実が明るみになったのは。その時、「はは、何だ、まだ信じてたのか?」と心底可笑しそうに笑った安室透、改め“降谷零”の笑顔は、生涯忘れないだろう。これ程一緒に時を過ごして、まさか二十年以上も本名を隠されているなどと誰が思おうか。未だに信じられない。理由を聞かされ渋々納得したものの、もし理由がどうしようもないものであったのなら、人間不信になっているところだ。

 そんな降谷が見舞いに来るたびに持ってくる花を、母はいつも、この花瓶に挿す。降谷が忠実マメなものだから、この部屋を彩る役割が自分に回ってきたことは未だにない。

 花から視線を逸らし、ベッドサイドの椅子に腰を下ろす。他愛もない会話をしながら、思うのだ。こんな時間が、あとどれ程残されているのだろうかと。




  
「──⋯⋯ほら、そろそろ少し休んだら。疲れた顔になってきた」
「そう? ⋯⋯じゃあ、少し横になろうかな」
「ああ。倒すよ」


 リクライニングベッドの背を倒す。枕に頭を沈めた母はすぐにうとうとと瞼を落とし、程なくして静かな寝息を立て始めた。体力が随分と落ちているのだ。近頃それを痛感する。

 静かになった病室内。座ったままの膝に肘を乗せ、ベッドを見詰める。

 母はもうすぐ、この世を発つ。
 
 色々手は尽くした。母も闘った。しかしもう、現代の医療ではこれ以上は叶わない。そういうところまできていた。
 
 幸いなことに時間を与えられた。別れの準備をする時間だ。残された時間を知り、運命を受け入れ、後悔の芽を摘み、最後の時を望むように過ごす。母と父のように突然引き裂かれるわけではない。
 
 それでも思うのだ。出来ることなら、まだ連れて行かないでくれと。まだまだ一緒に見たい景色がある。話したいことがある。同じ時間を生きていたい。自分はまだ何も、母に返せていないのに。
 
 一度きつく唇を結んでから、そっと毛布を引き上げる。その時だった。母の周りの空気が一瞬、淡く光った気がして。


「⋯⋯え⋯⋯」
 

 目の前で起きた事象に目を見張った。
 有り得ない。信じられない。何度も目を瞬き、指の背でごしごしと擦る。しかし目に映る光景が変わることはない。見えるのだ。この場にあるはずのない姿が。

 恐怖は感じない。怖いとは思わない。だが、あまりにも信じ難い光景に言葉が出ない。
 
 ──幻だろうか。
 
 眠る母の頬に、大きな手を添える人物。自分によく似た癖毛で。リビングの写真立ての中で毎日目にする。見間違えるはずがない。本能的に、“その人”なのだと理解する。

 その人は、母の頬を撫でるように指を滑らせ、目を細める。これまで見た写真のどの表情とも違う。この人は、こんなに優しい顔で笑うことが出来たのか。

 そうだ。いつか母が言っていた。「写真には残っていない笑顔」とは、この表情なのだろう。この世の慈愛すべてを詰め込んだような眼差しで、最愛を見詰めて。不敵に上げた口角ではなく、穏やかな弧を描く。

 こんな顔で母を見守り続ける人物がいる。そのことを目の当たりにし、胸に込み上げる。今すぐ母に教えたい。会わせてあげたい。自分よりももっと。いや、母こそがこの姿を見るべきなのに。

 しかし母を起こした途端、この姿が見えなくなってしまうことも何故だか分かった。神様は意地悪だから。それを自分も、良く知っている。
 
 声を詰まらせながらも、そっと呼び掛ける。


「⋯⋯父⋯⋯さん⋯⋯?」


 初めてだ。
 
 今初めて「父さん」と呼んた。母がいつも「陣平くん」と呼んでいたから。幼い頃から自分は父を、父の写真を、「じんぺー」と呼んできたのだ。
 
 「父」と呼ばれ振り向いたその人は、何も言わない。ただじっと自分を見て、それから今度は笑い方を変え悪戯っぽく笑んだ。それは幾度となく写真で見たあの笑い方だった。さっきまでの表情はどうやら母にだけ向ける特別仕様らしい。


「⋯⋯父、さん、俺⋯⋯」


 有り得ないことが起きていると頭では理解している。きっと自分が都合よく生み出した幻に過ぎない。この頃忙しくしていたから疲れが溜まってしまったのだろう。そう思うのに。心は不思議と目の前の存在を受け入れていた。それどころか、生まれて初めての邂逅に、何かを言わなければと焦っている。

 しかし父は首を振る。
 それが“父が喋れない”ことを意味しているのか、“何も言うな”ということを意味しているのか、或いはどちらもなのか。

 掴みかね、ただ見上げる。同じ癖毛に父の大きな手が伸びてきて、一度だけ、ぼふんっと叩く勢いで撫でられる。喋ることは出来ずとも、触れることは出来るらしい。それにしても随分と印象通りの乱暴な撫で方をするものだ。どちらかと言うと“痛み”に近い感触。しかし確かにそれは、初めて知る父の感触だった。

 父が触れたところに、思わず自分の指先を置く。それを見遣った父が再度くっと唇の端を持ち上げる。その瞬間、悟る。父が行ってしまう──“見えなくなってしまう”が正しいのかもしれないが──のだと。

 だめだ。まだ行かないでくれ。話したいことも聞きたいこともある。あるはずなのだ。咄嗟には何も出てこないが、山程あるはずなのだ。

 それなのに。

「待ってくれ」と。そう慌てて口にするより先に、光が溶けるようにして、父の姿は離散してしまった。


「⋯⋯と⋯⋯父さん?」


 呼び掛けてみるものの、そこにはもう姿も気配もない。母の規則正しい寝息と、普段の病室の空気が穏やかに漂っているだけだ。
 
 白昼夢でも見ていたのだろうか。
 いやしかし。父が触れた頭の上に残る感触があまりにも生々しい。

 苦笑しながら俯き、呟いていた。


「非科学的なことはあんま信じねえんだけどな⋯⋯」
 

 それでも、見えなくなってしまった父に願っていた。
 
 もし、──もしもだ。

 天国と呼ばれる場所で、魂と呼ばれるもので、母が父に会うことが叶うのなら。母の人生自慢──きっとずっと見守っていたのだろうが──を飽きるまで聞いて、そしてどうか、抱き締めてやって欲しい。たったひとりで。哀しみを携えながら、それでも絶やさぬ笑顔で生きてきた母を。どうか。どうか今度こそ離さないでくれ。

 父が生涯をかけて守った母の生涯の終着点で、再会が叶うことを。心の底から願っている。
 
 
「──⋯⋯また明日来るよ、母さん」


 そう告げ、そっと立ち上がり病室を出る。
 
 今日のことを母に話すことは、きっとないだろう。再び父の姿にまみえることも、もうないのだろう。

 それでいいのだ。

 名前しかいなくなった部屋の中。まるで名前に道を示すかのように、一縷の木漏れ日が差し込んでいた。