きみが願った未来の話さ





*

 朝日が細く漏れ、涼やかな空気が包む街を照らしていく。降谷は人気のない路を歩いていた。家を出てからここまでにすれ違ったのは、犬の散歩をする老人一人だけだ。この時間帯は良い。まるで夜明けを独り占めしているようで、その特別感に心が少し、晴れやかになる。

 それに今日は名前が来る。ここのところ任務が立て込んでおり、また名前も多忙だったようで会うのは久し振りだった。
 
 ──もう、三年も経つのか。

 降谷は無意識に空を見上げていた。恐ろしく早く流れてきた日々を遡り、思い返す。
 
 あの時、名前の中に命が宿っていなければ。きっと降谷たちでは名前を繋ぎ止めることは出来なかった。松田の後を追うということはなかっただろうが、松田のいない世界で生きる理由を、名前はきっと、見つけられなかった。文字通り生きる屍となってしまうところだった。

 松田。お前はそれが、分かってたのか?

 見上げる空の遥か彼方、答えを返すことのない亡き友へと問うてみる。

 この数年で降谷の手から零れていってしまったものは余りにも多い。萩原も。松田も。伊達も。そして、──諸伏も。もうこの世界にはいない。

 慣れることなどない。思い出すたび胸の奥はじくじくと痛む。ただその痛みの受け入れ方と、そこからの進み方を覚えただけだ。強がった心で弱さを覆って。いつしかそれが、本来の強さであるかのように錯覚して。

 ──名前と一緒に。
 
 同じ痛みを知る者同士。ずたずたに引き裂かれた心を共に縫い合わせながら、前を向いて生きてきた。大切なものを失くした世界を生きる途方のない日々で、名前の存在は、確かな救いとなっている。




 


「いらっしゃいませー!」


 昼食時に混み合っていた店内が落ち着いた昼下がり。梓の元気な声が新たな客を迎え入れた。
 

「わあ、名前さん、お久し振りですね! さ、こちらのお席へどうぞどうぞ! お子さんもまた大きくなって!」


 ちょうど店の奥で一人で作業をしていた降谷は、梓の声に顔を上げほっと息を吐く。聞いていた予定時刻を過ぎても現れないので心配していたが、どうやら無事に到着したらしい。いつもの穏やかな笑みを湛える名前と、そして名前に手を引かれよちよちと歩いて来たのであろう小さな姿を思い描き、人知れず口角を上げる。

 
「こんにちは梓ちゃん。最近全然来れなくてポアロの禁断症状出ちゃうかと思ったよお。何だか忙しくって」
「うんうん、そんな顔してます」
「え⋯⋯そんな顔って?」
「ほらここ、少し隈になってる」
「え?! 隈?! うそやだ!」
「ふふ、なーんて。嘘ですよお。でも少しお疲れな顔してるのは本当です⋯⋯今日はゆっくり出来そうなんですか?」
「うん。久々に親子揃って寝坊しちゃって、来るのも遅くなっちゃった」
「じゃあデザートまでたっぷり食べていって下さいね! お店も落ち着いたので、私お子さんの面倒も見ますし⋯⋯なんて言いつつ、私が遊んで欲しいだけなんですけど。癖になっちゃうんですよねえ、可愛い顔から繰り出されるツンからのデレに振り回されるの!」
「あははっ、わっかるー」
 
 
 名前と梓の途切れぬ会話。仲が良いのは結構なのだが、放っておけば二時間でも三時間でも話し込みそうな空気を察知し、これは早めに顔を出した方が良いかと思ったところを、甚く辿々しい声が遮る。
  
 
「あじゅしゃー、あしょぶ!」


 そう梓の名を呼んだのは、席に通されてからというもの名前の膝の上に陣取っていた名前の子どもだった。幼子特有の愛くるしい話し方に、降谷はもう一度口角を上げる。
 
 あの時宿っていた命。名前の希望。そして、降谷たちの希望でもあった。その命がこうして刻まれているのを目の当たりにする度、降谷の心はじわりと熱を帯びるのだ。

 一方で、舌っ足らずな呼ばれ方に「やーん」と悶絶している梓は、「もう一回呼んでくれたらお菓子サービスしちゃう!」などと毎度のことながらめろめろになっている。そんな梓に笑ってから、名前は「こーら、呼び捨てにしないの。『梓お姉ちゃん』でしょー」と窘める。

 ここで満を持して店の奥から出てきた降谷は、あたかもたった今その存在に気付いたとでもいうような“安室透”の仮面を被り、笑顔を向ける。


「おや、名前さん。いらっしゃいませ」
「あ、安室さん、こんにちは」
「お久し振りですね。お元気でしたか?」
「うんっ、元気元気。安室さんは?」
「ええ、僕も相変わらずです」
「そっかあ、よかった」


 降谷の手持ちに“安室透”の仮面が増えて以来、名前とは、こうしてポアロで会うことにしている。話題を選ばずに好きなことを話すことは出来ないが、この姿で会うことが一番危険が少ない。加えて時間を気にせずに顔を合わせることも叶い、近況を知ることも出来る。

 降谷にとって名前に会うことは則ち、自分の使命を確認するということだ。名前の姿に同期の面影を見る。名前と、そして名前の子どもの笑顔に、自分の守るべきものの形を見る。

 名前は、降谷の使命の道標だ。

 
「あむりょ、あむりょー! あしょんで!」
「あ、また呼び捨てにして。『安室お兄ちゃん』でーす」
「はは、良いんですよ」


 降谷が目を細める。刹那、その瞳が揺れる。名前にしか聞こえぬよう顰められた声が呟いた。

 
「⋯⋯本当に、いつ見てもアイツに瓜ふたつだ」
「ふふ、でしょ」


 降谷の言葉に名前は満面の笑みで頷き、息子の癖毛を撫でる。母の優しい手つきにいっとき嬉しそうにはにかみ、それから気を取り直したように「あむりょ、はやくあしょべ」と宣う息子に、名前は「ほんと、ちっちゃい陣平くんみたい」と声を転がした。






 
 新作のデザートまでしっかりと食べ終え、最後のコーヒーを名残惜しそうに口にしている名前のテーブルから、息子が手にしていた車の玩具──降谷の愛車によく似ている──が転がり落ちる。落ちた勢いを活かしたそれは上手い具合に床を走り、ふたつ先のテーブルの足に当たって止まった。その席でジュースを飲んでいた眼鏡を掛けた少年が気付き、すぐに拾い上げ届けてくれる。


「はい、どうぞ」
「わあ、ありがとう」
「さんちゅー」
「あは、サンキューなんて覚えたの?」


 保育園で覚えたのかなあ、と可笑しそうに肩を揺らす名前を数秒見詰めて、少年は「ねえお姉さん」と声を掛けた。

 
「なあに?」 
「お姉さんたちと安室さんって、安室さんがポアロで働く前から知り合いなの?」
「ううん。どうして?」
「上手く言えないんだけど、安室さんが普段より砕けてるっていうか、心を開いてるっていうか⋯⋯何となくそんな気がして」
「そう? わたし、この子が産まれる前からここにはよく来てて⋯⋯それで梓ちゃんとは仲良くさせてもらってたから、安室さんもそれにつられちゃったのかなあ。子どもがいると気も抜けちゃうしねえ」


 名前のとぼけ方は素晴らしく自然なものだった。キッチンでサンドイッチの下拵えをしながら耳を欹てていた降谷は、風見よりよっぽど上手だと笑みを零す。


「そっかー。何となくそんな気がしたってだけだから。変なこと聞いてごめんね」
「ううん。でもよく見てるんだねえ。てことは君もよくここに来るの?」
「うん! 僕ここの隣の探偵事務所に住んでるんだ」
「あっ、えっ、じゃあ君が噂のコナンくん?!」
「? 僕のこと知ってるの?」
「うん⋯⋯そっか、君が⋯⋯」


 小学一年生とは思えぬ謎の少年。そして、萩原と松田の仇を打ってくれた少年。降谷がその話をして以来、名前はずっと、コナンに会いたいと言っていた。一体名前は今、どういう気持ちでいるのか。どんな顔をしてコナンを見ているのか。カウンターの降谷にはその表情が見えない。

 その時だ。コナンと同じテーブルにいた少年たちが催促をし始める。
 

「おいコナーン! いつまで話してんだよ?」
「早く公園行こうよー! サッカーするんでしょー?」
「ああ、今行く!」


 軽快に返事をして、コナンは名前を見上げ手を振った。

 
「じゃあね、お姉さん」
「うん、またね。──ありがとう」
「ばっばーい」


 お気に入りの玩具を拾ってくれたことで、息子の中でコナンは“味方”にカテゴライズされたらしい。愛嬌たっぷりの声で送り出している。

 賑やかに店を出ていく探偵団の子どもたちを見送ってから、降谷は息子へと近付きぽふりと頭に手を置いた。
  

「おやおや。僕に対する態度と随分違うんじゃないか? そんなに愛想良くして」
「あむりょ! おしょい! あしょべ!」
「分かった分かった、警察ごっこだろ?」
「おまえがはんにん」
「はいはい」


 言葉とは裏腹に、その瞳は慈愛に満ちている。降谷は思うのだ。いつか、松田の面影を背負うこの幼子に。父のことを話して聞かせようと。そして飽きるほど見上げてきた空を、また仰ぐのだ。

 この二人を守るため。
 この国を、守るため。

 ──もっと生きるよ。