■二周年企画よりこちらに転載
□高校時代のおはなし
窓の外で、一片の雪がひらりと落ちた気がした。今日は冷え込んでいるし予報外の雪でも降り始めたのかと、キッチンの小窓から外を覗く。
──晴れていた。
至極薄く伸びた雲の広がる空は、青白磁に似た淡い色。雪の気配などどこにもない。どこかから舞った葉を見間違いでもしただろうか。
室内に視線を戻す。壁に掛けられた日めくりカレンダーは、バレンタインデーを翌日に控えた日曜日であることを示していた。
エプロンを着た名前が立つキッチンには、甘い香り。見下ろす先では、最後の仕上げを終えたちいさな粒たちが、まるでショーケースにでも並べられたかのような輝きを放っている。
「我ながら凄いものを作ってしまった⋯⋯」
壮観なキッチンを見て、一言。思わず呟いていた。
並んでいるのは何種類ものボンボンショコラ。転写シートで丁寧に模様を付けたり、トリュフにしたり、型で遊んでみたり、色を変えたり、絞り袋で絵を描いたりと、父と弟が出掛けているのを良いことに非常に凝ってしまった。その甲斐あって、見た目だけなら売り物になるのでは、と自分で思ってしまう程に美しく仕上がった。
──お母さんにも見てほしかったな。
ふとそんなことを思う。
名前にとってバレンタインは、母との思い出だ。料理が得意だった母は、名前が幼い頃から一緒にチョコレートを作ってくれた。名前の成長に合わせ、最初はただ、コンビニでも買えるチョコレートを溶かし、可愛い型に流し入れ、ぱらぱらとアラザンをかけただけのもの。それでも顔を綻ばせ喜んでくれた父の笑顔が、あの時の抱擁が、今でも心に染み付いている。
弟が生まれてからは喜ばせたい相手が増え、名前は一層力を入れてチョコレートを作るようになった。ただ、喜んでほしくて。その一心で母と共にキッチンに立つ時間は、至福だった。
その時間は母亡き後、一抹の寂しさを隣に携えた、新たな至福となった。
そして、今年は。
「⋯⋯作っちゃったんだよね、陣平くんの分」
作って、しまったのだ。
しかも“作ってしまった”などと言う割には、物凄く気合を入れて。それはそれは気合たっぷりに作ってしまった。
何もこのタイミングで想いを伝えるつもりはないのだ。ないのだが、どうしても贈りたかった。恋慕を募らせる相手に、密やかな想いと、この日だけの特別を贈りたかった。
本命チョコだとは気取られず。
しかし、あからさまな義理でもない。
そんなふうに、渡したいのだ。
だからわざわざ薔薇の転写シートを探し出し、薔薇が七本入るように写したりして。陣平では絶対に気が付かないようなかたちで、名前の想いを乗せた。
回りくどいだろうか。少し、女々しいだろうか。いやしかし、それでもいい。名前はこうして渡したいと思ったのだ。
「⋯⋯上手く渡す方法考えなきゃなあ」
ラッピングアイテムを手に思案し始めたその時だ。玄関のほうでカチャッと鍵が回る音。仮面ヤイバーショーに出掛けていた弟と父が帰ってきたのだろう。
エプロンを脱ぎ、二人を玄関まで迎えに行った。
ガチャリ、重たい音が鳴る。
音に次いで開いた屋上のドアへと目を向けると、両腕を抱えるようにして身を竦めた陣平がいた。
「寒っっっみーーーー」
「うわ、こんな寒いのによく来たねえ、上着も持たないで」
校舎の屋上に、二月の風が吹き付ける。
遮るもののないこの場所は、世界の変化を五感で感じることが出来た。刻一刻と移ろう空。肌に触れる風。鼻腔を満たす匂い。色彩や光の明暗。時には厳しさを見せる自然の顔は、不思議とどれもまばゆく映る。
この場所は、憩いだ。
憩いなのだが。昨日今日のように晴れているくせに一段と冷え込んでいる日ばかりは、風を凌ぐ小屋がないことを恨まずにはいられなかった。
「人に言える台詞かよ?」
「わたしはちゃんと装備があるもん。上着も着てるし、マフラーもあるし、毛布も被って⋯⋯わ、やだ、だめ!」
剥がされそうになった毛布に必死にしがみつく。
いつもの事なのだ。冬になってからというもの、毛布の争奪戦が繰り広げられるのは。勿論何度も言った。上着持っておいでよ、も、陣平くん分の毛布持っておいでよ、も。しかし面倒だだの忘れただの、何だかんだとその身そのままでやって来る。
凌げる寒さであれば毛布を譲る日もあったが、今日の寒さは駄目だ。上着だけでは凌げない。毛布がなければ凍ってしまう。何もこんな日にバレンタインでなくても良いのに。もしくは、何もバレンタインにこんな天気でなくても良いのに。そう思わずにはいられない。
もうすぐ終わろうとしている冬の、最後の足掻きかのようだ。
「だめっつったって、こんな寒ぃのに無理だろ」
「わたしだって無理です! 見てこれ生足だよ?!」
いつもの傍若無人な言い振りに、思わずスカートから覗く生足を示す。名前も名前でストッキングやタイツを履けば良いのだが、女の子は女の子で色々と事情があるのである。
そう言いながら陣平を見ると、陣平はじっと名前の腿のあたりを見下ろして、何とも言えぬ顔をしていた。
名前は思わず頬を染める。
「⋯⋯や、やだ何その顔、スケベ!」
「スケ⋯⋯っはぁ?!?! だいたいオメーが見ろっつったんだろ!」
「そんな顔で見ろとは言ってないもん!」
ぎゃあぎゃあわあわあ。何の生産性もない言い合いをしていると、痺れを切らしたのか、突然陣平がぐっと身を寄せてくる。
刹那、肩と肩が、触れて。
「あーもー、ウッセーな! じゃあこれでいいだろ! もう文句言うなよ!」
「⋯⋯──っ」
抱きかかえるように腕を回され、ふわりと。引っ張り合っていた毛布が肩に掛けられる。一枚の毛布に、二人分の体躯がすっぽりと収まる。
直後、名前はカチンと硬直した。文字通り、指先でつつけばカチンコチンと音がしそうな程に。
これまで幾度となく毛布を奪い合ってきたが、こんなことは初めてなのだ。二人で一枚の毛布に包まるなど。
絶対に、なかったのに。
「⋯⋯ち、」
「あ?」
「ち⋯⋯近いです」
「ハハッ、またそれかよ」
「またっていうかスケベとこんな距離、わたしの身が心配です⋯⋯」
「オイ、そのスケベってまさか俺のことじゃねえだろうな?」
なんて憎まれ口を叩きながら、心が平静を取り戻すのを今か今かと待つ。無論、陣平とこんな距離にいて平静など取り戻せるはずもないのだが、名前がまともに会話出来るようになるまで、随分と時間を要したことは言うまでもない。
そうして漸く少しだけ心が落ち着いた頃、名前は持ってきていた包みから弁当箱を二つ取り出し、そのうちの一つを陣平に手渡した。
「はい、どーぞ」
「⋯⋯何だ? これ」
「陣平くんのぶん」
「⋯⋯は、俺の
これまでおかずを分け合うことは多々あれど、“陣平の分”として弁当を用意したことは一度もなかった。故に陣平は驚いた表情で、名前と、そして弁当箱とを交互に見ている。
その様子に笑ってから、名前は促す。
「ね、開けてみて。今日だけの特別だから」
「何だよ特別って?」
未だ状況を飲み込めないといった面持ちながらも、陣平は言われるがまま、弁当箱を開ける。中身を見た途端、その口から「うお⋯⋯」と声が漏れた。
そこには、昨日名前が作ったチョコレートが所狭しと詰められていて、甘やかな香りを漂わせていた。
「今日バレンタインでしょ。たくさん作っちゃったから、陣平くんにも」
「⋯⋯マジかよ、これが手作りってか?」
「毎年作ってたらこんなの作れるようになっちゃった。我ながらちょっと凄いと思う」
「ちょっとどころじゃねー、売れんだろコレ」
お前も器用なもんだな、と素直に感心した様子でチョコレートを眺めている陣平に、名前は些か躊躇しながら首を傾げ、問う。
「陣平くん、甘いもの苦手かなあとも思ったんだけど⋯⋯よかったら貰っ──」
──貰ってくれる?
そう言っている最中のことだ。陣平の指先がひょいっとひと粒を摘む。何の偶然か、七本の薔薇が描かれたそれを、陣平はぱくりと一口に食べた。もぐもぐと口を動かしながら「んめぇ」とごち、呆気に取られたままの名前に向かって「あ? 何か言ったか?」と問い返してくる。
「あ⋯⋯ううん、何も⋯⋯」
「そーか? お、こっちのは形似てても味が違え、うめぇな」
二つ目を口に運び、それのみならず「美味い」と言ってくれる陣平を見て、名前はつい、泣きそうになってしまった。
だって、こんなの。どうしよう。
──すごく嬉しい。
普段ここで共に過ごす時間で見ている限り、陣平は決して甘党ではない。嫌いではないのかもしれないが、自ら甘いお菓子を買って持ってくるとか、良く菓子パンを食べるとか、そういうことはなかった。
だからこれはきっと、陣平の優しさだ。
作った者の気持ち──そこに秘めた真意とまではいかなくとも──を汲み、目の前で食し、嘘偽りのない「美味しい」をくれる。
その優しさが分かってしまって、だから、涙が出そうになる。
「⋯⋯よかった、ありがとう」
「いや、礼言うのはコッチだろ。けどさすがにこの場で全部は食えねえから、弁当箱ごと貰ってくわ」
「ほ、ほんと?」
「? ダメだったか?」
「ううん! 全然! 嬉しい!」
「そ、ならいいわ」
三個目を手に取ってくれた陣平からそっと視線を逸らし、膝に顔をうずめる。嬉しさに弛緩しきった顔を隠すためでもあり、潤んでしまった瞳を隠すためでもあり。
だからまさかすぐ隣で、陣平が密かに口元を綻ばせていたことを、名前は知らない。
「陣平ちゃん、この寒いのにまーた外行ってたのかよ? 鼻のてっぺん真っ赤にしてさ」
「悪いかよ」
「悪かねえけど。好きだねえ、一人でふらっとどっか行っちまうの」
教室に戻るとすぐに、陣平に気が付いた萩原が声を掛けてきた。萩原の机には何やらラッピングされた小箱が積み上がっていて、ああ、だから名前は弁当箱に詰めたのかね、と思う。
もし名前に可愛らしいリボンで飾られた箱を渡されていたら、陣平はきっと、あんなふうに受け取ることは出来なかったし、ましてやそれを後生大事に抱えて持ち歩くことも出来なかっただろう。
天井を見上げ、ふうとひとつ息を吐く。
ぬくい教室の空気が、何故だか少し鬱陶しく感じる。肌に直接浴びていた冷たい風と、隣にあった名前の温度。それが心地よかったからだろうか。
名前と会ったあとに戻る教室はいつも、途端にどこか現実味を失い、他人のために用意された場所のような気がしてしまう。間違って別の教室に入ってしまったのかと、一瞬足を止めそうになる。その中に萩原を見つけると、少し感覚が戻る。ああ、ここがいつもの場所だったのだと。感覚が修正されていく気がするのだ。
ここでふと、萩原の視線が陣平の手元へと向けられる。名前から貰った弁当箱を持っている手だった。
「あれ、その弁当箱なに? 今日弁当だっけ?」
「いや、貰いもん。けど胸焼けしちまうから一日一個ずつ食うんだよ」
「⋯⋯? 胸焼けする弁当を? 一日一個ずつ?」
不思議そうに首を傾げる萩原の前で、鞄の底にそれを仕舞う。そっと。成る丈傾いたり揺れたりしないように。ひとかけらでも、壊れてしまわないように。