「ただいまー」
狭い玄関に響いた自分の声に、返ってくる言葉を待つ。本日の陣平は宿直明けだ。平日なので名前は普段通り仕事があった。名前の出勤後に帰宅する陣平は、仮眠を取り、そしてこの時間いつもならすぐに、「おかえり。お疲れさん」と。大好きな声で答えてくれる。
だから今日も、そのはずだったのだが。
「⋯⋯あれ?」
靴を脱ぎ、玄関マットを踏み越えてもまだ陣平の声はしない。仕事靴も普段靴もあるし、特に連絡も来ていなかったから在宅のはずだ。お風呂にでも入っているのだろうか。
リビング。浴室。トイレ。台所。
順々に覗いてみるが、その姿は見当たらない。残るは寝室だ。ということはきっとまだ寝ている。疲れているのだろう。
存在だけは確認しようと、寝室のドアノブにそっと手をかけ、音がしないようにドアを開ける。
「⋯⋯」
寝ていた。
珍しくきっちりと毛布をかぶり、珍しく丸まるようにしてドアの方に身体を向け、瞼を閉ざして眠っている。
お疲れさま、と心の中で呟いて。そのままそっとドアを閉めようとした、その時だ。
「ん⋯⋯名前?」
閉まりきっていなかったドアの隙間からちいさな声。慌てる。「ごめんっ、起こしちゃった」と小声で謝り様子を確認すると、枕にくったりと頭を預けたまま「いや、いい⋯⋯それよかこっち」とぼんやり名前を見る陣平がいた。
“こっち”は、“こっちに来い”だ。
おずおずと近付き、ベッドの傍らにしゃがみ込む。
「ただいま。お疲れ様だったね、もう少しゆっくり──」
陣平の前髪を掻き上げるようにして撫でていた手を、ぴたりと止める。
「⋯⋯あれ、陣平くん熱あるんじゃない?!」
「んー⋯⋯」
熱かった。額に触れた指先が、普段と異なる熱を感じ取る。このぼんやりとした空気も、まどろんでいる眼差しも、寝惚けているのではない。熱に浮かされているのだ。
「お熱結構ありそうだよ、しんどいね⋯⋯何か他に症状ある?」
「⋯⋯超だりいのと、頭痛くなってきたな⋯⋯帰ってくるあたりから変な感じだったんだよな⋯⋯」
額に手背を添える陣平に向かって「連絡くれたらよかったのに」と、出かかった言葉を飲み込む。陣平とてそれが出来る状態ならとっくにそうしていただろう。
いつもは枕元で一緒に寝ている携帯も見当たらないし、ベッドサイドで水分補給できるような飲み物もない。帰宅後、なんとか服だけ着替え、倒れるように寝ていたのだろう。
もっと早く、帰って来ればよかった。
急いで腰を上げながら、看病に必要なものを頭の中でリストアップする。
「色々準備してくるから、少しだけ待っててね」
「⋯⋯まて名前」
「ん?」
「もーちょいここにいろよ」
くん、と服がつっぱる感覚。
力なく伸びてきた陣平の手に、服の裾を引かれていた。普段の陣平からは想像も出来ぬ力のなさだ。加えてまるで甘えるようなその仕草に、胸がきゅうんと変な音を立てる。ついでに胸が少し苦しい。
そうとは知らぬ陣平は、はっと我に返ったように「いや⋯⋯やっぱ離れてろ、うつしちまう」と、いじらしいことを口にしている。
この瞬間、名前の母性が爆発した。
「かっ⋯⋯」
可愛い⋯⋯っ!!!
悶えた心が口からダダ漏れてしまいそうで、両手の指先で口元を懸命に押さえる。
身体が弱ると精神も弱る。誰もが経験したことがあるはずだ。成人男性とて例外ではない。こういう時、一人だと心細いものだ。身を委ねられる相手が傍にいる安心感。動くことも儘ならない自分に向かって差し伸べられる手があるという事実。
シーツの上にぽとりと置かれている陣平の手を、気付けばぎゅっと握っていた。
「絶対戻ってくるから待っててね⋯⋯!!!!」
口を衝いたのは、幼子を残していく母親のような台詞。それは異様な気迫に満ちていた、らしい。
寝室を出た名前は部屋中を駆け回った。体温計、氷枕、飲み物、解熱剤、タオル、着替え、たまたま冷蔵庫に入っていたゼリー、等々抱えられるだけ抱えて、寝室に戻る。
そしてすぐに、陣平の介抱を甲斐甲斐しくしていた。
「あら、三十八度一分だ。氷枕に替えようね」
「おー⋯⋯」
「何も飲んでないでしょ。お水飲めそう? スポーツドリンクもあったよ」
「ん、水⋯⋯にすっか⋯⋯」
「解熱剤も一緒にね。少しでも熱下がれば、お薬効いてる間に何か食べれるかも⋯⋯」
「⋯⋯食う気になんねえ」
「今はそうだよねえ」
陣平が苦しそうな息を吐きながら何かを喋るたびに、思わず頭を撫でてしまう。普段であれば絶対怒られてしまう挙動だが、本日の陣平は怒るどころかどこか心地よさそうに瞼を閉ざすのだ。そのたび名前の胸はきゅんっと跳ね、甘く痛む。こんな陣平は、二度とお目にかかれないかもしれない。
ごめん陣平くん。苦しいだろうに、わたし、可愛いって思っちゃってごめん。
薬を内服してからうつらうつらと微睡み始めた陣平の可愛らしい姿を幾度も脳裏に閉じ込めて、名前はそっと部屋を出る。目が覚めた時に何か口に出来そうな物を作っておこうと思った。
キッチンに立ってから、少し迷う。
陣平は風邪の際、何を食べるのが好みなのだろう。付き合い初めてからお互い体調を崩すことがなかったので、どんな物を食べて育ってきたのか、話題に挙がったことがなかった。
卵粥、梅粥、おじや、煮込みうどん⋯⋯定番メニューをいくつか羅列し、迷う。陣平のことだからワンチャン、カツ丼なんかを食べていそうで怖い。「風邪ん時はがっつり食うんだよ、負けてらんねえだろ」とか言って。
⋯⋯全然あり得る。
決めかねた名前は、仕方なくあみだくじを作り委ねることにする。カツ丼に当たりませんように、と一応念を込めて。
「あ、表情よくなったね。お薬効いてきたかな」
食事の支度を終え、覗いた寝室。内服後に少し睡眠を取れたこともあってか、陣平の表情は先程よりも活力があった。額に手のひらを当ててみる。まだ熱っぽくはあるが、随分と平熱に近くなっている。挙動にも少し余裕が見られる。その証拠のように、陣平は身体を起こし匂いを嗅ぐ仕草をした。
「⋯⋯旨そうな匂いすんの、これなに?」
「あみだくじで決まったおじやです! カツ丼にはならなかったんだ」
「⋯⋯はあ?」
本当にカツ丼になっちゃったらどうしよう、と思っていたはずなのに、ならなきゃならないで少し残念な気がしてくるのが人間というものである。
「くたくたに煮たお野菜もいっぱい入れたよ。食べれそう?」
「⋯⋯食いてえ。腹減った」
「よかった。すぐ持ってくるね」
盆に乗せた器から、ほくりと湯気。ベッドの縁に腰を掛けた名前は蓮華を手に取り、ふうふうと息を吹きかけてから、陣平の口元に運ぶ。
「はい、あーん」
「ん」
反射的な行動だったのか、まだあまり頭が働かないのか。
あーん、と口を半分くらい開けてしまってから、陣平ははたと動きを止めた。すぐに口を閉ざし、気不味そうに数秒唇を結んでから、今度は不貞腐れたように言う。
「⋯⋯何させんだよ。自分で食えるし」
「ふふ、まあそう言わずに」
「自分で食う」
「えー、良いじゃない」
「良くねえ」
つっぱねる陣平の耳の端が幾らか赤くなって見えるのは気の所為ではないだろう。このまま食べさせてくれたらどんなに良かったか。至極残念だ。いやまあしかし、こんなことで陣平の自尊心を踏み躙るわけにもいかない。
仕方なく蓮華を手渡す。
陣平は小さく「いただきます」と零してから、二度、吐息をかけて熱を冷まし、口に含む。そして「うめえ」と一言。そう零したきり、何も言わずにすべてを平らげた。
陣平の「うめえ」は、名前の心を満たしてくれる。いつもそうだ。気持ちのいい食べっぷりで、飾らない「美味しい」をくれるのだ。
「ごちそーさん。美味かった」
「食べれてよかった。身体拭こうか? 汗かいたよね。着替えもあるよ」
「いや、名前、飯まだなんだろ。俺のことはいいから、少し自分のことしろ」
「でも⋯⋯」
名前がしたくて看病しているのだ。それ以上でも以下でもない。体調を崩していない自分のことなどどうとでもなる。こんな時くらい、完全に寄りかかって甘えてくれていいのに。
そう思う反面、こうも思う。
陣平も陣平で名前を慮ってくれているのだ。その気持ちも分かる。逆の立場であったら、名前も同じように思うだろう。
と、逡巡している名前の頭に、ぼふりと大きな手。ふ、と陣平が笑う。
「んじゃ、タオルだけくれ。薬も効いてっし、飯も食ったし、今は調子いいから」
「⋯⋯うん! あっためてくる!」
「ああ。ありがとな」
電子レンジで温めたほっかほかの濡れタオルをいくつか渡す。そのまま寝室を出て、自分の夕食を済ませ、シャワーを浴び、寝る支度を終えてから戻る。
「じんぺーくん。どう?」
「ん、風呂上がりのいー匂い」
「ふふ」
さらりと梳かれた毛先。名前も同じく癖毛を梳いてから、額に触れてみる。
「あ⋯⋯また熱上がってきちゃったね」
「⋯⋯な」
「わたし、今日はリビングで寝ようかな。それともベッドの下にお布団敷いて同じ部屋にいた方がいい? 辛くなった時すぐ気付けると思うけど」
いつものように同じベッドで寝ることは憚られた。健康な時ならば問題なくとも、体調不良時には少しでも一人で良質な睡眠を取ってもらいたい。
だから二択を示した。
名前としては同室別寝床が希望だ。理由はもちろん、弱った陣平が可愛──否、陣平の看病をしっかりしたいから。である。それ以上でも以下でもない。
一人したり顔でうんうん頷く名前の腕を、陣平がぐっと引く。帰宅当初より力があって、でも普段ほどの力はなくて。それでも名前の身体は傾ぎ、横になる陣平の腕の中にぼすりと収まる。
「わ、じ、陣平くん?」
「一択だ。ここ以外で寝るなんつー選択肢はねえんだよ」
「え⋯⋯って、や、どこ触って⋯⋯だ、だめ!」
「あっちーんだよ、冷まさせろ」
「何言ってるの、余計熱くなっちゃ⋯⋯ん、んん」
うるせえ、と塞がれた口に熱を持った舌が滑り込む。そこに有無を言わさぬ意志を感じ、名前は覚悟を決めた。
さよなら母性。
目の前にいるのは熱で弱った可愛い男の子などではなく、むしろ熱で抑制が外れた欲望剥き出しの男でした。