番外篇





■警察学校時代
□規則は知らないけど皆で海に行くおはなし




 
 快晴だ。目を奪われるほど青い空の向こうに、くっきりとした雲がふたつだけ浮かんでいる。真夏の灼熱の太陽が直に照りつけ、水面がきらきらと眩しい。


「お待たせー! やっぱり男の子は準備早いねえ」


 ビーチパラソルの下に敷いたレジャーシートの傍、名前を待っていた男たちが顔を上げる。

 
「おわー、名前ちゃんチョーイカしてんじゃん!」
「わ、ほんと? 水着着るの久しぶりだからちょっと心配だったんだ、ありがとう」


 萩原に褒められ満更でもなく頬を緩めた名前は、今日のために身体を絞り続けた毎日を回顧し自身を労う。

 一ヶ月、頑張って良かったな。

 
「あー、けど今は俺らのためにちょっと何か羽織ってくれっとありがてえかも」
「へ?」
「じゃねえと陣平ちゃんに殺されちまいそう」


 萩原がくいっと親指で背後を差す。見ると異様なオーラを立ち昇らせた陣平が、自分のパーカーを脱いでいた。
  

「っうぶ」
「着てろ。つーかそんな水着着ていいなんて言ってねーぞ」
「え、ど、どこか駄目だった⋯⋯? 都が一緒に選んでくれたんだけど」
 

 不安な心地で見上げる。都も萩原も褒めてくれた。しかし一番可愛いと思ってほしい陣平が、不機嫌そうに唇を曲げている。ずぼっと被せられた陣平の匂いのするパーカーの裾を所在なく摘む。そんな名前の様子に、萩原がけらけらと笑ってみせた。
  

「名前ちゃん、これはアレよ。陣平ちゃんは俺らに見せんのが勿体ねえのさ。よく似合ってて可愛いから」
「えっ?」

 
 えっ? それが理由?

 目を開いて改めて陣平を見る。陣平はバツが悪そうな顔で、膨らんだビーチボールを萩原の後頭部に投げつけていた。
 
 
「いちいち口にすんなボケ」
「何言ってんだよ。いちいち口にしなきゃ伝わんないぜ?」
 

 そんなやり取りに思わず笑みが溢れてしまっていた。陣平のこの反応を見るに、萩原の言う事は事実であるらしい。安堵と嬉しさと。同時に胸を占めた感情を噛み締める。良かった。そんなふうに思ってくれたうえ、嫉妬も見せてくれるなんて。

 と考えている名前の頭にも、ぽこんとビーチボールが落とされる。
 
 
「オラ、お前らもニヤけてんな。仕事しろ仕事」


 “お前ら”とは名前に降谷と諸伏を加えた三人であり、ニヤニヤと口角を上げた面々が「ニヤけてなんかないさ、もとからこの顔だ」「俺も」「わたしも」と笑いながら、各々浮き輪を膨らませたり折り畳み椅子を広げたりし始める。その手を止めずに、名前が残念そうに口にした。
 

「班長とナタリーさんも来れたら良かったのにな⋯⋯」


 名前はいつもナタリーに会うことを楽しみにしている。が、毎度都合が合わずに肩を落とすのだ。ちなみにこの週末は前々から予約していたというラフティングに行くらしい。いつもラブラブである。
 

「予約しちまってたもんは仕方ねえからな。ま、来月卒業ん時に萩の家で集まるのには来れるっつってんだからよ」
「そうだよね! 楽しみにしてる!」


 意気込んだ名前の隣では、諸伏が巨大なイルカフロートを、降谷が巨大な浮き輪を膨らませきったところだった。そしてふと視線を流すと、いつの間にそういう話になっていたのか、萩原と陣平が軽い準備運動を始めていた。どうやら泳いで競争するらしい。


「ひっさびさだなー、こういうの。んじゃあ、向こうのブイまでな。負けた方が焼きそば奢りで」
「よし乗った。お前らも来いよ」
「僕を誘ったりしていいのか? 奢る量が増えるぞ」
「誰が負けんだよ誰が。諸伏は来ねえか?」
「俺はいいよ、名前ちゃんと留守番してる」
「ん、サンキューな」


 と陣平が言っているそばから、萩原が海に向かって駆け出す。「あっ、狡りい!」とすぐに後を追う姿を見送って、名前はくすくすと肩を揺らした。


「あはは、少年みたいで可愛いねえ」
「俺らはさしずめ見守りの保護者ってところかな」
「ふふ」


 海から風が吹く。
 煽られた髪を軽く押さえて、名前は視線をゆっくりと巡らせた。砂浜に残るいくつもの足跡。たくさんの笑い声が青空に響く。眩しい波が飛沫を上げ、寄せては返す。波の音は穏やかで心地が良い。名前は束の間目を閉じ、目の前の景色を閉じ込めた。

 ややあって目を開け、隣でクーラーボックスの整理をしている諸伏に声を掛ける。


「景くんも泳ぎたいよね。荷物ならわたし一人で見れるから大丈夫だよ?」
「いや、うーん、俺はあとでいいかな」 


 その言い方に今更ながら、あ、と思う。荷物云々ではなくて、名前が一人で残ることがないようにしてくれているのだ。だから陣平も『サンキューな』と言ったのだ。少し考えれば──というか直感的に──分かるはずのことなのに、海に浮かれて気付くのが遅くなってしまった。慌てて提案する。

 
「ごめん、わたし今日全然冴えてなくて⋯⋯! 一緒に泳ごう! 大事な荷物はロッカー入れれば大丈夫だし! わたし入れてくる! 景くんは浮き輪たちのチェックお願いします!」
「あ、ちょっ、俺は本当にあとで⋯⋯もう、こういう時は速いんだから⋯⋯」


 諸伏が止める間もなく、名前は荷物を抱えびゅんとその場を離れていた。そのまま海の家のロッカーに五人分の荷物を押し込み、小走りで戻ろうとした時だ。

 とある人影を認め、足を止める。

 たった今まで名前がいた場所に、水着の女性二人がやって来たところだった。少し距離はあるが、風に乗って彼女たちの「こんにちはー」という声が届いてくる。盗み聞きは悪いと思いつつも、自然と諸伏の視界の外から様子を窺う体勢を取ってしまっていた。
 

「よかったら私達と一緒に泳ぎませんかー?」
「え?」
「向こうで泳いでるお友達も一緒に! さっきから皆さん格好いいなって思っててー!」
「いや、その、俺らは──」


 諸伏の返答を皆まで聞かず、名前はひとり口元を抑えきゃっきゃと小さく跳ねる。

 きゃ! 逆ナン! 初めて見た!

 こういうことって本当にあるんだな、と暢気に感心してから、遅れてふと疑問に思う。彼女たちは「さっきから」と言っていたが、名前のことは目に入っていなかったのだろうか。──いや、名前はずっとあの場にいたのだ。それは考えにくい。とすると、名前の存在を認識したうえでの行動ということになる。

 諸伏が断る雰囲気を醸し出しているので、手助けとして登場しようかと思っていたところだったが、これは何だか、名前が登場すると面倒事になってしまいそうだ。諸伏なら別に名前が居ても居なくても上手く断るだろうし。
  
 そう気を持ち直し、視線を沖の方へ遣る。とっくにブイまで辿り着いている陣平たちは、今度はそこで何やらはしゃぎ合っているようだった。足はつかない場所だろうに、器用なものだ。

 少し、考える。

 ここでUターンして海の家で寛いでいても良いのだが、せっかく海に来たことだしそろそろ水に入りたい。浮き輪は後で取りに行くとして、取り敢えず浅瀬を歩こうと決める。





 ちゃぷり。
 そっと下ろした爪先に冷たい感触。踏みしめると砂に足が沈み、足首を擽るように波が寄せる。

 ちゃぷり。ちゃぷり。
 腰あたりまで沈む深さを平行移動しながら、のんびりと空を仰ぐ。青い。空は青いな。なんてぼんやりと思っていた、そんな時だった。
  

「おーまーえーはー!」
「きゃああぁっ!!!」


 青空の下、絶叫が木霊した。

 あまりにも唐突だった。驚いたなんて言葉で片付けられる驚きではない。突然の出来事に心臓がばくばくと早鐘を打っている。どうやら背後からずぼっっっ!!! と浮き輪を被せられたらしいのだが、気配も何も感じなかった。

 
「なっ、じっ、陣平くん! びっくりした! サメかと思ったよお!!!」


 もはや半泣きだった。
 本当に驚いた。サメか、もしくは暴漢にでも襲われたのかと思った。
 
 しかし陣平はそんな名前にまったく構う素振りを見せず、ぐわっと噛み付く勢いで続ける。
 
  
「一人で何してんだタコ!」
「た、タコ⋯⋯?!」

 
 名前ははっと目を開き、もう一度「タコ⋯⋯!」と繰り返した。自慢ではないが、タコなどと言われたことは生まれて初めてである。陣平の剣幕よりも、言葉の新鮮さに感動すら覚える。
 
 というか、いつもなら「バカ」と言うところを「タコ」にしてくるあたり、海に掛けているのだろうか。と湧き出た疑問を口にしてみると、「ふざけんなタコ!」ともう一喝が入った。


「あーもういい、萩の誘いに乗せられてオメーの傍離れた俺が悪かった。まさか諸伏が女に捕まるとは思ってなかったんだよ」
「はっ! そうだった! どうなった?!」
「何でオメーがわくわくしてんだよ? 女たちなら萩がテキトーに構ってやってっけど」


 見るとパラソルの下には諸伏と降谷だけがいて、少し離れたところを萩原と女性二人が楽しそうに歩いていた。その姿に「さすが萩くん⋯⋯」と感心していると、横から伸びてきた陣平の手にむぎゅっと頬を掴まれ、強引に陣平の方を向かされる。

 
「で、だ」
「う、うん?」
「あーいう輩が海にはうじゃうじゃ居るわけだ。お前なんてちょろそうに見えっから格好の餌食だぜ。一人になんな」
「あ⋯⋯うん⋯⋯」


 陣平に挟まれたままの頬をぽぽっと染めた名前に、陣平は眉を下げる。

  
「はは、茹でダコかよ」
「た、タコ三回目⋯⋯!」
「回数なんていちいち覚えてねーって。それより泳ぎてえんだろ? イルカも持ってきてやったぜ」
「わーいイルカ! ありがとう! じゃあこの浮き輪は陣平くんに!」


 自身に被せられていた輪っこの浮き輪を嫌がる陣平の頭に掛け、イルカに跨る。陣平は何を言わずとも支えるように寄り添い、そのまま少し深いところまで連れて行ってくれた。

 その後、頭までずぶ濡れになって遊んできた名前と陣平が戻ったところで昼食を摂り、パラソルの下でのんびりとお腹を熟れさせていた時だ。
 
 ふと思い付いた名前が、降谷を呼ぶ。
 

「零くーん、ここ、ここに横になってー」
「うん?」


 不思議そうに首を傾げながらも素直に砂の上に仰向けになった降谷の脇で、名前がにこにこと笑っている。その企みを含んだ笑みを見て、降谷は苦笑した。
 
 名を呼ばれた瞬間から嫌な予感はしていたのだ。だが、「そのままじっとね。じっとしててね」なんてうきうきと言われると、降谷も断れないというものである。

 それから、十分程だろうか。
 

「できた! 見て見て! 零くん完成でーす!」


 名前の声に、うとうとと昼寝をしていた陣平が顔を上げる。そして降谷を視界に収めた瞬間、腹を抱えてげらげらと笑い出した。
 

「ギャハハハ! 零おま⋯⋯っ写真撮っとけ、サイコーだぜ、ハハハ!」


 身体の上に砂を盛りに盛られ──その形がどうなっていたのかは想像に任せるが──、顔だけを外界に出した降谷が完成していた。「僕からはどうなってるか見えないんだが⋯⋯」と陣平の反応に不服そうな顔をする降谷に、諸伏が声を掛ける。

 
「大丈夫、結構似合ってるよ」
「オイヒロ、顔と台詞が合ってないぞ」


 名前のお遊びの一部始終を静観を決め込んで見ていた諸伏も、ついに耐え切れず。三人の笑い声に包まれた降谷が救出されたのは、それから暫く経ってからだったとか。ちなみにこの時の写真は、のちに公安に配属される降谷の良く分からない権限できつい箝口令が敷かれることとなる。



 

 熟れさせた胃にデザートと称してかき氷を入れた後のことだ。降谷が「あ、そうだ」と思い出したように口にした。

 
「ビーチフラッグでもやらないか? 体力作りにもいいと思って持ってきてあるんだ」
「はあ、相変わらず真面目だねえ」
「砂浜は走るにはもってこいの場所だからな」

 
 荷物からちいさな旗を引っ張り出す降谷を呆れた眼差しで見る陣平の隣で、名前が「はーい」と手を挙げる。
 
 
「わたしもやる!」
「あ?」
「スタート位置に少しハンデ貰えばわたしもできると思うし──」


 その時だ。
 もう戻って来ないのかも、とさえ思っていた声が、不意に名前の後ろから掛かる。
  

「ダメダメ名前ちゃん! そんな格好で走るなんて危ねえよ、おっぱいがこぼれちまうぜ?」
「おっ、おっぱい?!」


 慌てて振り返った先では、しれっと戻ってきた萩原が陣平にボコッと小突かれていた。
 
  

春はあけぼの、夏は海