「かげろうって、なんでできるのかなあ」
去年の冬。俺が一年の時だ。あいつがこんなことを口にしたのは。
──そうか、もう、三ヶ月も経つのか。
ふと空を見上げて、思いのほか早く流れた時節を、柄にもなく憂いてみた。
寒い日だった。
東京でも夜中深くに大粒の雪が降っていて、朝起きた時には薄く積もっていた。綺麗な雪だった。「綿んぼみたいだったね」と零したあとに、「かわいかった」と。電話越しにそう呟いた、あいつの声が。
はしゃいでいたはずなのに、なのにどこかぽつねんとしたあいつの声が、今でもやけに耳に残っている。
朝陽に、軒先から滴った雪解けの水が光っていた。──⋯ぴ、ちゃん。そんな音がよく似合う、とある冬の早朝だった。
陽光に目を細める俺を、まるでどこかから見ているかのように。「きらきらしてて眩しいね」、と電話の向こうで笑ってから、あいつは唐突に陽炎のことを口にしたのだ。
「は? 陽炎?」
意図を全く掴めず、訝しげに問い返した。
悴む指先。目覚めたばかりの身体にぴりりと刺さる冷気。なんと言っても冬真っ只中なのだ。陽炎の“か”の字も連想されない。あいつはこういう所がある。たまにちょっと突拍子がない。
「さあ?」
「あれっ、一也くんでも知らないの?」
「いやなんで俺が知ってると思ってたんだよ」
「だって一也くん、なんでも知ってるんだもん」
「ははっ、知らねぇよ」
知らねえよ、陽炎のできる機序なんて。いつかどこかで習ったような気もしなくもないが。つまりはその程度の記憶しか残っていない。
「何、陽炎がどうかしたのか?」
「ん、どうってワケじゃないんだけど⋯⋯いまの景色がね、なんとなく似てて。一也くんたちの試合の景色に」
「そうか? 雪積もってんぞ」
「ふふ、積もってるね。でもなんでか似てるんだよ。もしかしたら、グラウンドの外側から見てる人にしかわかんないのかも」
じりじりと焼かれるような、灼熱の太陽。暑い熱い、夏。何度も潜り抜けてきた。稀に陽炎を揺らめかせるグラウンド。味方の投手、時には敵の投手の存在を、際立たせるように。まとわりつく歪んだ熱気。
その揺らめきは、俺にも覚えはあった。
でも、きっと違う。あいつが見ているものとは。
「どんな感じなんだ?」
「ん?」
「お前が見てる、俺たちの景色ってやつ」
お前のその目には、俺らがどう見えてる?
俺の姿は、お前にとって、一体どんなふうに。
「陽炎がね、こう、ゆらっとするの。一也くんの場所も、お兄ちゃんの場所も。遠い遠い、外野の奥も。春でも秋でも、一也くんたちのいる場所はね、いつだって熱に浮かされてるみたいに、揺らめいてるんだよ」
美しいとさえ見えると、あいつは言った。
──美しい、だなんて。
相変わらず、歯の浮くような台詞を軽やかに言ってのける。揶揄う気が削がれてしまうほど清々しい。
「⋯⋯ふうん」
「うわー、自分で聞いておいてその反応」
むくれてみせてから、それでもあいつは楽しそうに笑った。
いつもそうだった。いつだって、あいつは笑っていた。辛い事も、苦しい事も、悲しい事も、全部その裏側に隠して。
「そういやお前、高校どうすんだ? もうすぐなんだろ、出願締切」
「うん。青道にするよ」
「鳴はなんて?」
少しの間が逡巡を示していた。
ややあって、送話口に息がかかる音。笑っている。この笑い方は、少し困った時に誤魔化すようにするやつだ。眉を下げて柔く笑む姿が目に浮かんだ。
「ふふ、怒ると思ってまだ言ってない」
「⋯⋯それ余計怒るんじゃね?」
「⋯⋯やっぱり? 完全にタイミング逃しちゃった。でもいいんだ、そろそろお兄ちゃんにはシスコンを卒業してもらわなきゃ」
「はは、そりゃ違いねえ」
鳴はまるで、ワガママツンデレ彼氏のような兄だとあいつは言う。
俺と同じ高校に最愛の妹が入学する。しかも俺を追いかけて。だなんて鳴が知ったら。彼女が浮気をしたかの如く激昂する様が、容易に想像できた。
いや、彼女でもなんでもなくて、妹なんだけど。
「お前もよくやるよ。ほんとに俺なんかで進路決めちゃっていいわけ?」
「俺なんかって言わないで」
ぴしゃりと言われ、俺は思わず電話を握ったまま背筋を伸ばした。「光栄です」と咄嗟に言葉が出た。
「わたしは、一也くんの野球をみてたいの。ついでに一也くんの近くにもいたい」
「ついでって」
出逢った時からこうだった。俺──というよりも俺の野球か──に対してあまりにも真っ直ぐに向けられる想いを、どう受け止めたら良いのか分からず。俺は、ひらりひらりと躱し続けている。
あいつがめげないのをいいことに。
──躱し続けている。