01.揺遠


「かげろうって、なんでできるのかなあ」


 去年の冬。俺が一年の時だ。あいつがこんなことを口にしたのは。

 ──そうか、もう、三ヶ月も経つのか。

 ふと空を見上げて、思いのほか早く流れた時節を、柄にもなく憂いてみた。

 寒い日だった。

 東京でも夜中深くに大粒の雪が降っていて、朝起きた時には薄く積もっていた。綺麗な雪だった。「綿んぼみたいだったね」と零したあとに、「かわいかった」と。電話越しにそう呟いた、あいつの声が。

 はしゃいでいたはずなのに、なのにどこかぽつねんとしたあいつの声が、今でもやけに耳に残っている。

 朝陽に、軒先から滴った雪解けの水が光っていた。──⋯ぴ、ちゃん。そんな音がよく似合う、とある冬の早朝だった。

 陽光に目を細める俺を、まるでどこかから見ているかのように。「きらきらしてて眩しいね」、と電話の向こうで笑ってから、あいつは唐突に陽炎のことを口にしたのだ。


「は? 陽炎?」


 意図を全く掴めず、訝しげに問い返した。
 悴む指先。目覚めたばかりの身体にぴりりと刺さる冷気。なんと言っても冬真っ只中なのだ。陽炎の“か”の字も連想されない。あいつはこういう所がある。たまにちょっと突拍子がない。


「さあ?」
「あれっ、一也くんでも知らないの?」
「いやなんで俺が知ってると思ってたんだよ」
「だって一也くん、なんでも知ってるんだもん」
「ははっ、知らねぇよ」


 知らねえよ、陽炎のできる機序なんて。いつかどこかで習ったような気もしなくもないが。つまりはその程度の記憶しか残っていない。


「何、陽炎がどうかしたのか?」
「ん、どうってワケじゃないんだけど⋯⋯いまの景色がね、なんとなく似てて。一也くんたちの試合の景色に」
「そうか? 雪積もってんぞ」
「ふふ、積もってるね。でもなんでか似てるんだよ。もしかしたら、グラウンドの外側から見てる人にしかわかんないのかも」


 じりじりと焼かれるような、灼熱の太陽。暑い熱い、夏。何度も潜り抜けてきた。稀に陽炎を揺らめかせるグラウンド。味方の投手、時には敵の投手の存在を、際立たせるように。まとわりつく歪んだ熱気。

 その揺らめきは、俺にも覚えはあった。
 でも、きっと違う。あいつが見ているものとは。


「どんな感じなんだ?」
「ん?」
「お前が見てる、俺たちの景色ってやつ」


 お前のその目には、俺らがどう見えてる?

 俺の姿は、お前にとって、一体どんなふうに。


「陽炎がね、こう、ゆらっとするの。一也くんの場所も、お兄ちゃんの場所も。遠い遠い、外野の奥も。春でも秋でも、一也くんたちのいる場所はね、いつだって熱に浮かされてるみたいに、揺らめいてるんだよ」


 美しいとさえ見えると、あいつは言った。
 
 ──美しい、だなんて。
 相変わらず、歯の浮くような台詞を軽やかに言ってのける。揶揄う気が削がれてしまうほど清々しい。


「⋯⋯ふうん」
「うわー、自分で聞いておいてその反応」


 むくれてみせてから、それでもあいつは楽しそうに笑った。

 いつもそうだった。いつだって、あいつは笑っていた。辛い事も、苦しい事も、悲しい事も、全部その裏側に隠して。


「そういやお前、高校どうすんだ? もうすぐなんだろ、出願締切」
「うん。青道にするよ」
「鳴はなんて?」


 少しの間が逡巡を示していた。
 ややあって、送話口に息がかかる音。笑っている。この笑い方は、少し困った時に誤魔化すようにするやつだ。眉を下げて柔く笑む姿が目に浮かんだ。


「ふふ、怒ると思ってまだ言ってない」
「⋯⋯それ余計怒るんじゃね?」
「⋯⋯やっぱり? 完全にタイミング逃しちゃった。でもいいんだ、そろそろお兄ちゃんにはシスコンを卒業してもらわなきゃ」
「はは、そりゃ違いねえ」


 鳴はまるで、ワガママツンデレ彼氏のような兄だとあいつは言う。

 俺と同じ高校に最愛の妹が入学する。しかも俺を追いかけて。だなんて鳴が知ったら。彼女が浮気をしたかの如く激昂する様が、容易に想像できた。

 いや、彼女でもなんでもなくて、妹なんだけど。


「お前もよくやるよ。ほんとに俺なんかで進路決めちゃっていいわけ?」
「俺なんかって言わないで」


 ぴしゃりと言われ、俺は思わず電話を握ったまま背筋を伸ばした。「光栄です」と咄嗟に言葉が出た。


「わたしは、一也くんの野球をみてたいの。ついでに一也くんの近くにもいたい」
「ついでって」


 出逢った時からこうだった。俺──というよりも俺の野球か──に対してあまりにも真っ直ぐに向けられる想いを、どう受け止めたら良いのか分からず。俺は、ひらりひらりと躱し続けている。

 あいつがめげないのをいいことに。

 ──躱し続けている。

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