01.揺遠


「⋯⋯もし、一也くんに出逢ってなかったらね。きっとわたし、稲実に行ってお兄ちゃんの日本一をみてたと思うんだけど」


 こういう台詞に、はっきりと言葉にはしない、兄妹の強い関係が滲み出る。鳴への信頼。それは鳴の強さを支える、揺るぎない確かな信頼だ。

 何故かそれを少し悔しく、そして疎ましく思った自分がいた。そんな感情が芽生えたことに気付きたくなくて。目を背けるように、薄らと雪が積もるグラウンドから視線を外し、夜が押し上げられていく空を見る。

 唇の隙間から昇った吐息の白が光る。

 俺から見える地球の縁を、太陽の光が細く覆っていた。一日のはじまりが、まるで世界のはじまりのように感じる瞬間だ。

 朝練前のこの僅かな時間に、あいつは電話をかけてくる。連日のこともあれば、二週間くらいあくこともあった。メールもたまに来るが、圧倒的に電話の方が多かった。

 このために早起きをしているのか。もともと早起きなのか。あいつに聞いたことはない。


「じゃあ、しばらくお勉強に集中するから、次は受験終わって、春にでも連絡するね。練習とかに行くのもやめる」
「三ヶ月もあんぞ」
「うん。名付けて一也断ち」
「なんだそりゃ」
「あはっ、寂しい?」
「いや全然」
「もう、冷たいなあ。どうせわたしが一方的に電話しまくってるだけですよーっと」


 ここで束の間、沈黙を挟んで。あいつは「ふふ」と軽やかな笑い声を落とした。


「? なに?」
「ううん。一也くんは結局いっつも、なんだかんだ言うくせに優しいなーって思って」
「は?」


 優しい? 俺が?
 性格悪いだとか冷徹だとかはよく言われるけど。優しい、は滅多に言われない。滅多にというか。最近は記憶にすらない。


「それじゃ、またね」
「あっ、おい、名前⋯⋯」


 声をかける間もなく切れてしまった電話。ツーツーと無機質で耳障りな音が残った。

 ついさっきまでやわらかな声が聞こえていた小さな機械。手の中に残ったそれを見下ろして、眉根を寄せた。


「⋯⋯んだよ、頑張れよくらい言わせろよ」


 冷えた空気のなか。

 ぽつねんと呟いた。

 急にがらんとした気分になってあいつの言葉を思い出し、もう一度、眼前の風景に目を凝らしてみた。

 やはりそこには、陽炎なんて見えなかった。





 ◆揺遠◇

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